佐用範家

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佐用 範家(さよう のりいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将。通称は三郎。佐用為範の三男。佐用城主。兄に為信為貞。子に則貞家久定道

佐用氏播磨赤松氏の一族。赤松氏初代の赤松家範の叔父・佐用頼景が播磨佐用郡西山城を築城し佐用氏を称した。頼景の曾孫が範家の父・為範である。

佐用氏5代・範家は、弓の名手であり武勇の誉れ高く、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子護良親王令旨を受けて反幕府勢力として挙兵した赤松則村に従い各地を転戦、赤松氏範妻鹿長宗粟生師時田中盛兼田中盛泰頓宮入道頓宮員利と共に「赤松八大力」の一人に数えられる。

太平記』によると、同年4月27日久我畷の戦い京都市伏見区)で寄せ手の鎌倉方の大将・名越高家をその強弓で討ち取った。(『太平記』巻九「山崎攻事付久我畷合戦事」)

また、建武年間(1334年1338年)に佐用城を築城した。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 『佐用町史 上巻』(佐用町史編さん委員会編 1982年)
  • 『三日月町史 第2巻』(三日月町史編集委員会編 1982年)
  • 『赤松氏佐用家実記』(高啓一郎・高敏雄著 1992年)

関連項目[編集]