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亘理宗根

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
亘理宗根
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年(1600年
死没 寛文9年10月26日1669年11月19日
改名 又治郎(幼名)、茂庭又四郎、亘理宗根
別名 右近、伯耆(通称
戒名 超誓院殿格外玄秀大居士
墓所 宮城県栗原市の福現寺[1]
主君 伊達政宗忠宗綱宗綱村
陸奥仙台藩
氏族 伊達氏茂庭氏佐沼(高清水)亘理家
父母 伊達政宗香の前
茂庭綱元亘理重宗
兄弟 津多宗根
亘理重宗娘・榮頌院
宗廣宗喬、各務利静
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亘理 宗根(わたり むねもと)は、江戸時代前期の仙台藩士。高清水亘理家[2]初代当主。

生涯

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慶長5年(1600年)、伏見にて仙台藩初代藩主・伊達政宗の庶子[3]として誕生した。母は愛妾の香の前

香の前は初め豊臣秀吉の愛妾であったが政宗に下賜され[4]、政宗と香の前の間には1女1男が生まれたが、そのうちの男子が宗根である。宗根誕生後の慶長7年(1602年)、香の前は茂庭綱元に下げ渡され、その側室となった。この時、宗根は同母姉の津多と共に綱元の実子扱いで養育されることになったので、当初は茂庭又四郎と名乗った。

慶長11年(1606年)、栗原郡高清水城にて隠居していた亘理氏前当主・亘理重宗の末娘を娶って婿養子となり、亘理氏の名跡を相続して亘理宗根と名乗った。高清水城は宝暦7年(1757年)に5代当主・倫篤佐沼城に移されるまでの150年間、亘理氏の居城となった。これに併せて、既に亘理氏宗家当主の地位を相続していた涌谷城主・亘理定宗には、代わりに伊達姓を名乗ることが許されている(涌谷伊達家)。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に従軍した際には、家来の牧野半助と共に奮戦して大野治長配下の部将・中川隼人を討ち取る武功を挙げ、翌元和2年(1616年)には正式に重宗の隠居領1,000石の相続を許され、併せて栗原郡沼崎・鶯沢に加増地を拝領した。元和4年(1618年)には母・香の前を高清水に迎え入れて最期まで孝養を尽くし、香の前の17回忌となる明暦2年(1656年)には、その墓所に亘理氏の菩提寺となる安楽寺を開基した[5]

寛文9年(1669年)10月26日死去。享年70。嫡孫の宗喬が家督を相続した。

系譜

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      原田宗資
伊達政宗   ┣━━━━原田宗輔
 ┃   ┏津多  
 ┣━━━┫      
 ┃   ┗亘理宗根 ┏亘理宗広━━亘理宗喬
香の前    ┣━━━┫
     ┏女子   ┗各務利静
亘理重宗━┫
     ┗伊達定宗━━伊達宗重

脚注

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  1. ^ 当時の名称は安楽寺
  2. ^ のちの佐沼亘理家。
  3. ^ 系譜上は茂庭綱元の四男。
  4. ^ 重臣・茂庭綱元が秀吉から香の前を下賜され、それを政宗が奪い取ったともいう。
  5. ^ 現:福現寺。安楽寺は後に佐沼へ移る。

出典

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  • 『高清水町史』(宮城県栗原郡高清水町、1976年)
  • 『松山町史』(宮城県志田郡松山町、1980年)
  • 『迫町史』(宮城県登米郡迫町、1981年)

関連項目

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