丹羽鼎三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 1967年2月23日)は、日本の造園学者。造園学の教育者。

経歴[編集]

横浜市生まれ。1917年東京帝国大学農学部農学科卒業。ただちに宮内技手として内匠寮入りをし新宿御苑に勤務、菊等花弁の培養向上につくした。

1924年 三重高等農林学校教授をへて、1929年東京大学助教授となり園芸学を担当した。同年2月、東京帝国大学農学博士 論文の題は「日本菊花ニ関スル研究」[1]

1932年同大学教授に就任、原煕の後継者として、東京大学農学部農学科園芸第二講座として花井及び庭園学を担当。この講座を大成させ、多くの俊秀を世に送りだした。

戦前から内務省専門委員、神奈川、群馬の都市計画地方委員会委員となり、東京府大緑地施設協議会委員をもつとめる。戦後の1945年からは新潟県立加茂農林学校の校長を兼任した。1952年定年退官し、東京大学名誉教授となった。

この後1954年から1960年まで、明治大学教授として園芸学・造園学を担当。日本造園学会長は4期もつとめた。

著書では、「日本産樹説要」等の名著のほか、多くの論文、随筆があり、庭園関係では「桂離宮の飛石」の研究などが名高い。とくに日本庭園に対して独特の文化史的、文学的観点から精魂をかたむけて研究し、その成果はきわめて高いものがあったという。

その後眼病をわずらい、自ら亜青木聖と名のって数々の随筆を発表、この随筆によって、日本文化としての造園の真髄を捉えていくことになる。しかし1967年、不慮の災難に遭い急逝する。

参考文献[編集]

  • 故丹羽鼎三先生記念事業会「日本文化としての庭園」1967年

脚注[編集]

  1. ^ 博士論文書誌データベース