中平善之丞
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中平 善之丞(なかひら ぜんのじょう、宝永6年(1709年) - 宝暦7年7月26日[1](1757年9月9日))は、江戸時代中期の一揆指導者[2]。名は隠敦[2][3]、幼名を鴨之助という[1]。通称は善之進ともいう[4]。
経歴・人物
[編集]土佐高岡郡津野山郷(梼原町、東津野村[5])の北川庄屋上岡左衛門次正の長男として生まれる[1]。享保8年(1723年)6月、北川大庄屋代勤となる[1]。その後元文3年(1738年)高岡郡梼原村の庄屋・中平弥左衛門の養子となり[1]、のち家督を継ぐ[3]。
宝暦2年(1752年)土佐藩第8代藩主山内豊敷は、財政窮乏を打開するため、国産方役所を設置および国産問屋を復活させることにより、和紙の原料となるコウゾや茶などの専売制強化を推し進めた[2][3]。津野山郷ではコウゾや茶を主に栽培していたが、専売制強化により安く買い叩かれるようになり、買い付けの停止を藩に請う[3]。しかし弾圧されたため、宝暦5年(1755年)津野山の農民は善之丞を頭取に立て藩に強訴する(津野山騒動、津野山一揆)[2]。のち捕らえられ、指定問屋蔵屋利左衛門とともに死罪なり、斬首された[2]。
善之丞の死後、宝暦10年(1760年)藩は国産問屋を廃止する[3]。藩主の山内豊敷は高知城内に善之丞を祀った祠を設けた[3]。 のち明治19年(1886年)津野山郷にて大暴風雨があり善之丞の祟りであると言われ、翌年の明治20年(1887年)東津野村高野(現:高知県高岡郡津野町高野)に善之丞を祀った風神鎮塚が建てられた[5]。また、塚から国道197号を挟んだ反対側には「中平善之進像」が建てられている[4]。