中安盛乗

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中安 盛乗(なかやす せいへい[1]安永4年(1775年) - 嘉永5年(1852年))は、江戸時代久保田藩家老通称は波江、主典。は弦斎。は盛乗(へい)、字は君彝(い)。中安庄右衛門(盛茂)の婿養子で、夫人は中安庄右衛門の娘。北村実房の次男。久保田藩記録の「国典類抄」の編集者

経歴[編集]

寛政6年(1794年)出仕、享和元年(1801年)に中安家の家督を相続し、文化2年(1805年)に副役に就任。翌年(1806年)評定奉行兼町奉行となり、文化8年(1811年)に「国典類抄」の編集を行う。文化10年(1813年)に郡奉行となる。

文政元年(1818年)に用人となり、同4年(1821年)に藩主佐竹義厚の侍読及び江戸詰めとなる。文政年中の須原屋版武鑑にも中安主典の名が見える。

文政8年(1825年)に側頭となり、翌年(1826年)に一代宿老となる。その後、頭取席、大番頭と進む。天保年中の武鑑に側頭取として中安主典の名が見える。天保5年(1834年)、永代宿老の家格となり、家老加談役、家老本役と進む。天保7年(1837年)4月に家老になる。大番頭から家老に昇進したのは、佐竹義敦の平本正直を除いては異例のことであり、15石の下士からはじまって170石までの破格の出世であった。天保8年(1837年)4月に辞職し長男盛良に家督を譲り隠居する。以後、弦斎と称して和歌を作る。

嘉永5年(1852年)死去。享年78。墓所は秋田市旭北寺町の鱗勝院[2]。墓碑銘は平本謹斉が文、那珂敏の書によるものである。

脚注[編集]

  1. ^ 「三百藩家臣人名事典1」。名は便宜上音読みしたものと思われる
  2. ^ 秋田武鑑でも禅宗鱗勝院を菩提寺として記載している。

参考文献[編集]

  • 三浦賢童編「秋田武鑑 全」(無明堂出版、1981年、原著者は「久保田家中分限帳」の著者)
  • 家臣人名事典編集会「三百藩家臣人名事典1」(新人物往来社、1987年)
  • 「編年江戸武鑑・文政武鑑5」(柏書房)
  • 橋本傳『改訂増補 大武鑑 中巻』(1965年・名著刊行会)
  • 秋田人名大事典、秋田魁新報社、昭和49年