ワイス (モグーリスタン)

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ワイス(? - 1432年[注 1])は、東チャガタイ・ハン国モグーリスタン・ハン国)の君主(在位:1418年 - 1421年1425年 - 1432年)。漢語資料での表記は歪思。日本語ではヴァイスとも表記される。

生涯[編集]

ヒズル・ホージャの孫。シール・アリーの子。

1417年[1]もしくは1418年に従兄のナクシ・ジャハーンを暗殺、当時のモグーリスタンの有力者であったドゥグラト部アミール(貴族)・フダーイダードの承認のもとに即位した[2]。即位後にビシュバリクからイリバリクに遷都、からは国名を「別失八裏」から「亦力把裏」に変えたと見なされた。

即位後、明に複数回朝貢した[3]1420年に従弟のシール・ムハンマドが反乱を起こすとこれを鎮圧するが、翌1421年に亡命先のティムール朝から帰国したシール・ムハンマドによって追放される[2]1425年にシール・ムハンマドが没した[4]後に復位した。

ワイスは在位中、北方のモンゴル高原で勢力を拡大するオイラト族とたびたび交戦した。16世紀の史書『ターリーヒ・ラシーディー』はワイスがオイラト族と61度交戦し、一度を除いてすべて敗北に終わったことを伝える[5]1428年オイラト族エセン・ハーンと戦って敗れて捕虜とされ、姉妹のマフトゥム・ハニムをエセン・ハーンの息子アマーサーンジーの妻として差し出すことを条件に釈放された[6]

1430年前後にはトルファンに進出、現地の支配者階級を追放し、トルファンをモグーリスタン・ハン国の直接の支配下に置いた[7]。1432年頃にティムール朝ウルグ・ベクに追放された西チャガタイ・ハン国のハーン・サートゥークがモグーリスタンに侵入する事件が起きる[8]。ワイスはサートゥークとの戦闘中に戦死したと考えられている[8]

宗室[編集]

父母[編集]

  • 父 シール・アリー
  • 母 スルタン・ハトゥン

[編集]

  • ダウラト・スルタン・サカンジ:エセン・ブカの母

姉妹[編集]

  • マフトゥム・ハニム:エセン・ハーンの息子アマーサーンジーの妻

子息[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『明史』、16世紀の史書『ターリーヒ・ラシーディー』の記述を根拠に、ワイスの没年をヒジュラ暦832年(1428年 - 1429年)とする説も存在する。間野英二は『明史』、『ターリーヒ・ラシーディー』、『バーブルナーマ』、『明実録』などの記述を検討し、1432年にワイスが没したと結論付けた。(間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、17-20頁)

引用元[編集]

  1. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、5頁
  2. ^ a b 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、6頁
  3. ^ 『明史』巻332、列伝第220、西域4、別失八裏、永楽16年条
  4. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、25頁
  5. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、12頁
  6. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、14-15頁
  7. ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、11-12頁
  8. ^ a b 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、19-20頁
  9. ^ 『明史』巻332、列伝第220、西域4、別失八裏、正統元年条

参考文献[編集]

  • 江上波夫『中央アジア史』(世界各国史, 山川出版社, 1987年1月)
  • 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号収録(東洋史研究会, 1964年6月)
  • 明史』巻332、列伝第220、西域4、別失八裏
先代:
ナクシ・ジャハーン
チャガタイ・ハン国のハン
1418年 - 1421年
1425年 - 1432年
次代:
エセン・ブカ