ラナ・バハドゥル・シャハ

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ラナ・バハドゥル・シャハ
Rana Bahadur Shah
ネパール王
Rana Bahadur Shah.jpg
ラナ・バハドゥル・シャハ
在位 1777年 - 1799年
戴冠 1778年1月
出生 1775年5月25日
カトマンズハヌマン・ドーカ宮殿
死去 1806年4月25日
カトマンズハヌマン・ドーカ宮殿
配偶者 ラージ・ラジェシュワリー・デビー
スバルナ・プラバー・デビー
カンティワティー・デビー
ラリト・トリプル・スンダリー・デビー
ほか
子女 ラノディヨート・ビクラム・シャハ
ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ
ほか
王朝 ゴルカ朝
父親 プラタープ・シンハ・シャハ
母親 ラジェンドラ・ラージャ・ラクシュミー・デビー
宗教 ヒンドゥー教
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ラナ・バハドゥル・シャハ(Rana Bahadur Shah, 1775年5月25日 - 1806年4月25日)は、ネパール王国の第3代君主(在位:1777年 - 1799年)。父は第2代君主プラタープ・シンハ・シャハ

生涯[編集]

1775年5月25日、ネパール王プラタープ・シンハ・シャハの息子として生まれた[1]

1777年11月17日、父王プラタープ・シンハ・シャハの崩御に伴い、2歳で即位[2][3]。母親ラジェンドラ・ラクシュミー皇太后が摂政を務めるが、1785年に死去。

その後、叔父バハドゥル・シャハが摂政となる。この期間、二四諸国を次々に制圧、ガルワール地方クマーウーン地方に進出し、領土を拡大した[4]

1799年、溺愛する内妃の生んだカンティワティー・デビーの生んだ幼い息子のギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハに位を譲り、出家して禁欲主義者となる[5][6]。 だが、この譲位は嫡子ラノディヨート・ビクラム・シャハを差し置いての譲位であったため反対が多く、重臣ら95名に譲位を認める起請文を書かせたうえ、その戴冠式にはパルパプリトヴィーパーラ・セーナも招待した[7]

ラナ・バハドゥルはギルバン・ユッダに譲位したのち出家し、愛妃カンティワティーとともにデウパタンに移って院政をするつもりであった[8]。だが、まもなくカンティワティーは病に倒れたため、ラナ・バハドゥルはブラーフマナの助言に従ってパタンに移り住み、神々へのあらゆる礼拝供養、多額の布施行を行った[9]

しかし、その甲斐も虚しく、同年10月31日にカンティワティーは死去した[10]。この死へのラナ・バハドゥルの怒りはすさまじく、神やブラーフマナを罵り、神像を破壊するなど過激な行動に走るほどだった[11]

そのため、ダモダル・パンデキルティマン・シンハ・バスネットらは王を奉じ、首都をヌワコートに移した。法王は軍をヌワコートに向かたが、軍は王やダモダルらについたため、1800年に法王はビムセン・タパをはじめとする重臣らとともにヴァーラーナシーへ赴いた[12]

1804年、ラナ・バハドゥルはカトマンズに戻り、ダモダルは再び法王と対決した[13]。だが、今度は軍が法王の側についたため、ダモダルは2人の子供とともに処刑された[14]

同年に計略でパルパを制圧し、ネパールを統一した。その後、アマル・シンハ・タパの軍がガルワール、デラドゥンを制圧し、1805年以降はサトレジ川にまで進撃した[15]

1806年2月、ギルバン・ユッダにムクティヤール(執権)に任命されたが、4月25日に弟のシェール・バハドゥル・シャハに刺殺された[16][17]

脚注[編集]

  1. ^ Nepal 6
  2. ^ Nepal 6
  3. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.503
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.504
  5. ^ Nepal 6
  6. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  7. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  8. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.508
  9. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.508
  10. ^ Nepal 6
  11. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.508
  12. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509
  13. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509
  14. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509
  15. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  16. ^ Nepal 6
  17. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.511

参考文献[編集]

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年 

関連項目[編集]