ポチョムキンの階段

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ポチョムキンの階段
Potěmkinovy schody.jpg
ポチョムキンの階段(2005年)
ポチョムキンの階段の位置(ウクライナ内)
ポチョムキンの階段
ポチョムキンの階段 (ウクライナ)
ポチョムキンの階段の位置(オデッサ内)
ポチョムキンの階段
ポチョムキンの階段 (オデッサ)
座標 北緯46度29分19秒 東経30度44分31秒 / 北緯46.488555度 東経30.742006度 / 46.488555; 30.742006座標: 北緯46度29分19秒 東経30度44分31秒 / 北緯46.488555度 東経30.742006度 / 46.488555; 30.742006
所在地  ウクライナ オデッサ
設計者 フランシスコ・ボッフォ、アフラアアム1世・メルニコフ英語版、ポッテ
素材 花崗岩アスファルト砂岩、建設当初)
21.7メートル - 12.5メートル
高さ 27メートル
建設開始 1837年
完成 1841年
献納 戦艦ポチョムキン
下からは踊り場が見えない
上からは階段が見えない

ポチョムキンの階段(ポチョムキンのかいだん、ウクライナ語: Потьомкінські сходи, Pot’omkins’ki Skhоdy, ロシア語: Потёмкинская лестница, Potyomkinskaya lestnitsa. 英語: The Potemkin Stairs)は、ウクライナオデッサにある、巨大な階段である。この階段は海の方角からオデッサ市街地の玄関口や象徴と考えられ、オデッサの階段としても知られる[1]

現在の公式名称は「プリモルスキー (Primorsky) の階段[2] 。当初は「ブールバール (Boulevard) の階段」、「巨大階段」[3] 、あるいは「リシュリュー (Richelieu) の階段」として知られていた[4]

最上段のステップは幅12.5メートル、最下段のステップは幅21.7メートルである。落差は27メートル、前後は142メートルに達する[5][6][7]

階段は錯視を作り出すためにデザインされている。階段を見下ろす人には踊り場だけが見え、階段を見上げる人には階段だけが見えて踊り場が無いように感じられる[1][8]。 また、階段は上より下のほうが広いので、二次的な錯視は偽の視点を作り出している。階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、階段を見下ろすと階段をそれほど長いようには見せない。

歴史[編集]

ロシア帝国時代の建設[編集]

1850年ごろのポチョムキンの階段を描いたもの。階段が高台の市街地と港を結ぶために建設されたことがよくわかる。

オデッサの街は高台に位置していて、下の湾にある港へ直接通じる必要があった。階段が建設される前、曲がりくねった道と粗末な木造の階段だけが湾へのアクセスであった[1]

1825年に伊サルデーニャ出身の建築家フランシスコ・ボッフォイタリア語版サンクト・ペテルブルクの建築家アフラアアム1世・メルニコフポッテによって元来の200段の階段がデザインされた[1][9][10]。階段の建設費用は80万ルーブルであった[1]

1837年に、「怪物のような階段」を建設する決定がなされ、1837年から1841年までの間に建設された。英国の技術者ジョン・アップトンが階段を建設した。アップトンは偽造罪で保釈中に英国から逃亡していた[11]。建設の材料にイタリアトリエステ(当時はオーストリア帝国領)の緑灰色の砂岩が船で輸送されてきた[1][2][8]

ソ連時代に「映画史上もっとも有名な階段」に[編集]

オデッサの階段の虐殺 。映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)から。

階段はセルゲイ・エイゼンシュテイン1925年サイレント映画戦艦ポチョムキン』で有名になった。作品の中の架空の場面によれば、1905年の6月14日に、兵士たちが階段にいる人々に発砲したのである。ジャーナリストのコルネイ・チュコフスキーによれば、かれは事件当時オデッサにいたのだが、コサック兵が階段の上にいたかどうか、人々で階段がいっぱいになっていたか、発砲が実際に行われたかは不明であるという。

エイゼンシュテインの映画にて、実際にあらゆる都市で発生した戦慄すべき出来事はこの階段において凝縮されたのである。同様のメソッドは後世の写真家に使用され、芸術家のアレクセイ・チタレンコは「影の都市」のシリーズで、サンクト・ペテルブルクの地下鉄の駅の近くの階段にいる、どん底の人々からなる群衆を、人間の悲劇の象徴の一つとして使用している [12]

ロジャー・イーバートが書いた映画批判にはこう記されている。

皇帝派たちによるオデッサの階段の虐殺は、事実ではなかったことが、このシーンの説得力を減少させた…エイゼンシュテインがこのシーンをあまりに素晴らしいものにしたために、今日ではオデッサの階段の流血がまるで本当に起きたかのように頻繁に言及されるのは皮肉なことである。[13]

淀川長治は『戦艦ポチョムキン』の解説でこう述べている。

後にこの階段は、どれだけパロディーで使われたかわかりませんね。エイゼンシュテインは本当に映画、良くつくりました。立派でした。[14]

改修[編集]

浸食による階段の破壊にともない、1933年には砂岩南ブーフ川地域のローズ・グレーの花崗岩に取り換えられた。さらに踊り場がアスファルトで覆われた。港が拡張されたとき、階段のうち8段が砂の下に失われ、階段の数は192段、踊り場は10となり縮小された[1][8]

階段の左側には、1906年に、人々を徒歩の代わりに輸送するためにケーブルカーが建設された[要出典]。建設から50年後の1970年代、ケーブルカーはエスカレーターに取り換えられた[15]。エスカレーターは1990年代に故障し、修理する費用はなかったが[要出典]、それも2004年に新しいケーブルカーに取り換えられた[2]

『戦艦ポチョムキン』後の名前の変遷[編集]

ロシア革命後の1955年に「プリモルスキーの階段」は、戦艦ポチョムキンの叛乱から50年経ったことを記念して「ポチョムキンの階段」と再命名された[16]。映画は、ポチョムキンの叛乱を含むロシア第一革命後20周年を記念して制作されており、このことから1955年は映画公開30周年でもある。

ウクライナ独立後、ポチョムキンの階段は、オデッサの多くの通りと同様に、元来の名前「プリモルスキーの階段」に戻った。しかしほとんどのオデッサ市民は今もこの階段のソビエト時代の名前を知っており、この階段に言及するときは「ポチョムキンの階段」と呼んでいた[2]

リシュリュー公のモニュメント[編集]

リシュリュー公の像

階段の頂上には、リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシを描いたモニュメントが立っている。彼はフランスの貴族であり、1803年にオデッサ初代知事になった。ロシアの彫刻家イワン・ペトロヴィチ・モルトス(1754–1835年)はこの古代ローマのトーガとクラッドをまとった姿をデザインした。彫像はイェフィモフによってブロンズに鋳造され、1826年に発表された。オデッサに最初に建立されたモニュメントである[17][9][18]

2014年クリミア併合以降の影響[編集]

2014年のロシアによるクリミアの併合や2022年2月のロシアのウクライナ侵攻により、ウクライナ人のロシア語話者の間でも、ロシア語由来の名称や事象を維持していくことに対する疑義が起こり、街中のロシアの文化や言語に関連する文化遺産、建築物、標識などの扱いをどうすべきかを協議する市の委員会が立ち上げられ、「ポチョムキンの階段」もその協議の対象としてあげられた[19]

またロシアによる侵攻が始まると、攻撃に晒されやすく、かつ敵対勢力の上陸に利用されやすい港に近接したポチョムキンの階段は、一般市民の出入りが禁止された[20]

ギャラリー[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g Herlihy, Patricia (1987, 1991). Odessa: A History, 1794-1914. Cambridge, MA: Harvard University Press. ISBN 0-916458-15-6, hardcover; ISBN 0-916458-43-1, paperback reprint  p. 140
  2. ^ a b c d Primorsky (Potemkin) Stairs”. 2odessa.com. 2007年9月28日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年8月2日閲覧。
  3. ^ Karakina, Yelena; Tatyana Samoilova, Anna Ishchenko (2004). Touring Odessa. BDRUK. ISBN 966-8137-01-9. http://shop.russia-on-line.com/books/book.php?id=9668137019  p. 32
  4. ^ Prince Michael Vorontsov: Viceroy to the Tsar. McGill-Queen's Press - MQUP. (1990). ISBN 0-7735-0747-7  p. 119. Referencing USSR: Nagel Travel Guide Series. New York: McGraw Hill. (1965)  p. 616
    *Bell, Christopher M; Bruce A Elleman (2003). Naval Mutinies of the Twentieth Century: An International Perspective. Routledge (UK). ISBN 0-7146-5460-4  p. 18, 25
    *Montefiore, S Sebag (2001). The Prince of Princes: The Life of Potemkin. St. Martin's Press. ISBN 0-312-27815-2  p. 498 "The Richelieu Steps in Odessa were renamed the "Potemkin Steps"...
    *Woodman, Richard (2005). A Brief History Of Mutiny: A Brief History of Mutiny at Sea. Carroll & Graf Publishers. ISBN 0-7867-1567-7  p. 223
  5. ^ Herlihy, p. 140 "12.5 metres wide and 21.5 metres wide"
  6. ^ Kononova, p. 51 "12.5 m at the top and 21.6 m at the bottom"
  7. ^ Karakina, p. 31 "13.4 and 21.7 meters wide"
  8. ^ a b c Kononova, p. 51.
  9. ^ a b Kononova, p. 49.
  10. ^ Kononova confusingly writes on page 48, "The idea of an architectural ensemble with a broad flight of stone steps leading to the sea which links the high bank with the low shore and provides a gateway to the city, belongs to the well-known St. Petersburg 19th century architect w:Avraam Melnikov." But on page 51 writes, "The famous Potemkin stairs leading from the square to the sea and Uiltsa Suvorova (Suvorov St.) was designed in 1825 by F. Boffo".
  11. ^ Reid, Anna (2000). Borderland: A Journey Through the History of Ukraine. Westview Press. ISBN 0-8133-3792-5  p. 61
  12. ^ Protzman, Ferdinand. "Landscape. Photographs of Time and Place." National Geographic, 2003, ISBN 0792261666
  13. ^ “The Battleship Potemkin (1925)”. Chicago Sun-Times. http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19980719/REVIEWS08/401010302/1023 
  14. ^ IVC 淀川長治解説ページ
  15. ^ Kononova, p. 54.
  16. ^ Karakina, p. 31
  17. ^ Duc de Richelieu Monument”. 2odessa.com. 2007年9月28日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年8月2日閲覧。
  18. ^ Herlihy, p. 21
  19. ^ Afanasiev, Ievgen; Mann, Brian; Selyukh, Alina; Nadworny, Elissa (2022年6月2日). “Ukraine agonizes over Russian culture and language in its social fabric” (英語). Georgia Public Broadcasting. 2022年6月25日閲覧。
  20. ^ Harding, Luke (2022年5月30日). “Farmers in Odesa sound alarm over blockade: ‘It’s a question of survival’” (英語). the Guardian. 2022年6月25日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]