ボゴール植物園
| ボゴール植物園 Kebun Raya Bogor | |
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| 施設情報 | |
| 前身 | ボゴール宮殿周辺の庭園 |
| 専門分野 | 熱帯植物・植物分類学・生物多様性保全 |
| 事業主体 | インドネシア政府 |
| 管理運営 | インドネシア科学院(LIPI)を経て国家研究革新庁(BRIN) |
| 開園 | 1817年5月18日 |
| 所在地 |
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| 位置 | 南緯6度35分53秒 東経106度47分57秒 / 南緯6.59806度 東経106.79917度座標: 南緯6度35分53秒 東経106度47分57秒 / 南緯6.59806度 東経106.79917度 |
| 公式サイト | Kebun Raya Bogor |
ボゴール植物園(ボゴールしょくぶつえん、インドネシア語: Kebun Raya Bogor)は、インドネシアの西ジャワ州ボゴールにある植物園である。1817年5月18日に開園し、東南アジアで最も古い植物園とされる。現在は約87 haの敷地に約15,000種の植物を収集・栽培しており、植物の生物多様性保全、研究、教育などの拠点となっている。ボゴール宮殿に隣接し、ボゴール市中心部を構成する歴史的な緑地でもある[1]。
ボゴール植物園は、オランダ領東インド期以来、熱帯植物の収集・分類・栽培および農業・園芸に関する研究の中心となってきた。植物園を中心として、ボゴール植物標本館(Herbarium Bogoriense)、Bibliotheca Bogoriensis、トロイプ研究所(Laboratorium Treub)などの研究施設が形成され、インドネシアにおける近代的な植物学・生物学研究の発展に重要な役割を果たした[1][2]。
概要
[編集]ボゴール植物園は、ボゴール市の中心部、チリウン川周辺の土地に位置する。園内には樹木、草本、ラン科植物などの多様な植物が植栽され、分類学的・テーマ別に配置された区域も設けられている。熱帯低地植物の生息域外保全を担う施設であるとともに、研究者だけでなく一般の来園者にも開かれた都市緑地となっている[2]。
植物園には、長期間にわたって栽培されてきた大木や歴史的な植物コレクションがあり、園内の景観そのものも歴史的価値を持つ。園内には植物学・生物学研究と関係する歴史的建築物や施設も残されている[2]。
歴史
[編集]成立
[編集]現在のボゴール植物園の成立以前、ボゴールにはオランダ領東インド総督の夏季の居所として利用されたボゴール宮殿とその周辺の庭園が存在していた。1811年から1816年にかけてイギリスがジャワ島を支配した時期にはトーマス・ラッフルズがボゴールに滞在し、宮殿周辺の庭園の整備にも関わった。
1816年にジャワ島の統治がオランダに戻ると、1817年、ドイツ出身の植物学者カスパー・カール・ゲオルク・ラインヴァルトがジャワ島の農業・産業に関わる職務に就き、ボゴールに植物園を設立した。植物園は5月18日に開園し、ラインヴァルトが初代園長となった。設立当初の植物園は、外国産植物の導入・順化や農業・園芸に利用できる植物の研究を目的としていた[2][1]。
植物園の設立には、当時のオランダ領東インドにおける農業・園芸の発展と、植物を収集・分類・導入する近代植物学の発展という二つの側面があった。その後、植物園は単なる栽培試験場から、熱帯地域の植物を対象とする研究・収集機関へと発展していった。
植物学研究の発展
[編集]カール・ルートヴィヒ・ブルーメはラインヴァルトの後を継ぎ、植物園の植物コレクションの整理と植物学的研究を進めた。ブルーメはジャワを中心とする東南アジアの植物を研究し、多数の植物を記載した。
ヨハネス・エリアス・テイスマンは1830年から植物園の整備に長期間携わった。テイスマンの時代には植物の分類に基づく植栽配置が進められ、植物園のコレクションは大きく拡大した。テイスマンは熱帯の樹木を含む多数の植物を収集し、植物園を植物学研究の重要な拠点へと発展させた。
ユストゥス・カール・ハッスカールも植物園の発展に関わった人物の一人で、1842年に図書館であるBibliotheca Bogoriensis、1844年には植物標本を収蔵するHerbarium Bogorienseの基礎を築いた。これらの施設は、植物園における生きた植物の栽培だけでなく、文献と標本に基づく植物学研究を支える基盤となった[1]。
19世紀後半には、植物園の研究対象は観賞植物の栽培だけでなく、農業や園芸、経済植物学へと広がった。コーヒー、茶、ゴム、キナ、アブラヤシなどの熱帯作物について、導入・順化・栽培に関する研究が行われ、これらの植物の普及は東南アジアの農園経済の発展とも関係した[2]。
トロイプ時代と研究機関
[編集]1869年から1880年まで園長を務めたルードルフ・スヘッフェルの時代には、植物園の研究機能がさらに強化された。
メルヒオール・トロープは1880年に園長となり、その後の植物園の科学研究に大きな影響を与えた。トロイプの時代には植物病理学や生理学などの研究が進められ、植物園は熱帯農業上の問題を研究する施設としても重要性を増した。1884年にはトロイプ研究所が設置され、植物学・生物学に関する研究のための施設として利用された[1][2]。
この時期には、植物園を中心として研究者、標本、図書館、研究施設が集積し、後のインドネシアにおける生物学研究機関の形成につながった。ボゴール植物園から派生・発展した研究施設として、Bibliotheca Bogoriensis、Herbarium Bogoriense、チボダス植物園、トロイプ研究所、動物学博物館・研究施設などが挙げられている[1]。
植物園の研究成果は、純粋な植物分類学にとどまらなかった。植物の栽培・順化や病害研究などを通じて、当時の植民地農業で重要だった作物の生産にも利用された。このため、ボゴール植物園の歴史は、熱帯植物学の発展だけでなく、オランダ領東インドにおける農園経済や植民地統治とも密接に関係している[2]。
植民地期の植物導入と経済植物学
[編集]19世紀から20世紀初頭にかけて、ボゴール植物園は熱帯地域の植物を集め、異なる地域へ導入・順化するための拠点となった。植物園で研究された植物の中には、後に農園で大規模に栽培されるようになった作物もある。
アブラヤシ、ゴムノキ、コーヒー、茶、キナノキ、タバコなどは、東南アジアの農業・輸出産業の発展と関係した植物である。植物園における順化・栽培研究は、これらの植物が熱帯地域で栽培されるための知識の蓄積に寄与した[2]。
一方で、こうした研究や植物資源の移動は、当時のオランダ領東インドの植民地経済の一部として行われた。したがって、ボゴール植物園の歴史は、植物学・農業科学の発展という科学史上の側面と、植民地支配の下で資源や農産物が生産・流通した歴史の双方から捉える必要がある。
20世紀前半
[編集]20世紀に入ると、ボゴール植物園は熱帯植物学の国際的な研究拠点として発展した。植物園では植物分類学、植物生理学、植物病理学、農業などに関する研究が行われ、園内の植物コレクションとHerbarium Bogorienseに蓄積された標本が研究資料として利用された[2]。
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけては、政治情勢や財政状況の影響も受けた。1942年に日本軍がジャワ島を占領すると、植物園と関連研究施設も日本軍政下に置かれた。この時期には日本人植物学者中井猛之進が植物園の運営に関わった。
第二次世界大戦後には再びオランダの管理下に置かれた時期を経て、インドネシアの独立と主権移譲に伴い、植物園の管理主体と研究体制は次第にインドネシア側へ移行した。
インドネシア独立後
[編集]インドネシア独立後、植物園はインドネシアの国立研究機関の一部として再編され、名称もインドネシア語のKebun Raya Bogorとして定着した。
1950年代以降、植物園ではインドネシア人研究者による植物研究が発展し、植物資源の収集、分類、生物多様性の調査、農業・園芸に関する研究などが進められた。その後、研究機関の再編に伴い、植物園の所属も複数回変更された。1960年代には国立生物学研究機関(Lembaga Biologi Nasional、LBN)の傘下に入り、さらに後にはインドネシア科学院(LIPI)などの研究体制へと組み込まれた。
この時期にはボゴール植物園を中心としてインドネシア各地の植物相の調査が進められ、地方植物園の整備や植物の生息域外保全も進展した。現在の植物園は、植民地期に形成された研究・収集の伝統を継承しながら、インドネシア固有植物の保全や希少植物の増殖・再導入などを重視している[2]。
植物コレクションと保全
[編集]ボゴール植物園は、熱帯植物の生息域外保全を主要な役割の一つとしている。園内には樹木、ヤシ類、ラン科植物など多数の植物が収集され、分類学的あるいは生態学的な観点から整理・栽培されている。現在の公式案内では約15,000種の植物を収集している[1]。
植物園に植栽された植物には、インドネシア各地から収集されたものだけでなく、世界各地から導入された熱帯植物も含まれる。長期間にわたって栽培されてきた植物の中には、植物学的・歴史的価値を持つものもあり、園内の古木群は植物園の歴史を示す重要な景観要素となっている[2]。
近年の植物園では、単に多数の植物を展示することだけではなく、希少植物や固有種の保全、植物の増殖・再導入、生態系の回復、植物資源の持続的利用などが研究・保全活動の対象となっている[2]。
ボゴール植物標本館
[編集]Herbarium Bogoriense(ボゴール植物標本館)は、ボゴール植物園と歴史的に密接に関係する植物標本館である。インドネシア各地で採集された植物を中心に、乾燥標本などを収蔵し、植物分類学や生物多様性研究の基盤となっている。
Herbarium Bogorienseの標本庫には、カール・ルートヴィヒ・ブルーメ、ヨハネス・エリアス・テイスマン、ユストゥス・カール・ハッスカールなど、ボゴール植物園の歴史に関係する植物学者が収集した標本も含まれている。標本館の国際的な標本庫略号はBOである[3]。
2022年以降、Herbarium Bogorienseは地球規模生物多様性情報機構(GBIF)を通じた標本情報の公開にも参加しており、タイプ標本を含む植物標本データのデジタル化・共有が進められている[3]。
園内の施設と景観
[編集]ボゴール植物園には、植物の展示・栽培区域のほか、植物学研究と関係する歴史的建築物や施設が存在する。園内の景観は長期間にわたる植物の植栽によって形成され、歴史的な大木と芝生地、園路、水域などが組み合わされている[2]。
植物園に隣接するボゴール宮殿とともに、ボゴール中心部の歴史的景観を形成していることも特徴である。植物園そのものが都市の大規模な緑地として機能する一方、歴史的建築物、植物コレクション、研究施設が共存する文化的景観としても評価されている[2]。
文化・観光
[編集]ボゴール植物園は研究・保全施設であると同時に、ボゴールを代表する観光地・都市公園の一つでもある。園内では熱帯植物の観察ができ、植物学や生物多様性について学ぶ教育の場としても利用されている。
また、植物園はインドネシアの植物学の歴史を象徴する場所の一つであり、19世紀以降に形成された植物コレクションや研究施設、歴史的景観が現在まで残されている。ユネスコの世界遺産暫定一覧表にも掲載されており、科学史、植物保全、文化的景観などの観点から国際的な遺産価値が示されている[2]。
園長
[編集]植物園の歴代園長・主要研究者として、以下の人物が知られている。
カスパー・カール・ゲオルク・ラインヴァルト — 初代園長(1817年 - 1822年) カール・ルートヴィヒ・ブルーム — 園長(1822年 - 1826年) ヨハネス・エリアス・テイスマン — 長期間にわたり植物園の整備に従事 ルードルフ・スヘッフェル — 園長(1869年 - 1880年) メルヒオール・トロープ — 園長(1880年 - 1910年) ウィレム・マリウス・ドクテルス・ファン・レーウェン — 園長(1918年 - 1932年) 中井猛之進 — 日本統治期に植物園の運営に従事(1943年 - 1945年)
なお、歴代の園長・研究者の役職、在任期間、制度上の位置づけは時期によって異なり、植民地期の「園長」と独立後の研究機関における管理職を単純に同一の系列として扱うことはできない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 茂木靜夫『ボゴール植物園』日本図書刊行会・近代文芸社、1998年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Kebun Raya Bogor — ボゴール植物園公式サイト
- Kebun Raya Bogor — ユネスコ世界遺産センター
- Herbarium Bogoriense — 地球規模生物多様性情報機構(GBIF)