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ホセフィーナ・フェルナンダ・デ・ボルボン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホセフィーナ・フェルナンダ
Josefina Fernanda
ボルボン家

出生 (1827-05-25) 1827年5月25日
スペインの旗 スペイン王国アランフエス
死去 (1910-06-10) 1910年6月10日(83歳没)
フランスの旗 フランス共和国パリ
配偶者 ホセ・グエル・イ・レンテ
子女 ライムンド
フェルナンド
フランシスコ・マヌエル
父親 フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボン
母親 ルイサ・カルロッタ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス
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ホセフィーナ・フェルナンダ・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアスJosefa Fernanda de Borbón y Borbón-Dos Sicilias, 1827年5月25日 - 1910年6月10日)は、スペインの王族、スペイン王女(Infanta de Españaイサベル2世女王の従姉、義妹。

生涯

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スペイン王フェルナンド7世の末弟であるカディス公フランシスコ・デ・パウラと、その妃で両シチリアフランチェスコ1世の娘であるルイサ・カルロッタの間の第7子、三女として生まれた[1]。全名はホセフィーナ・フェルナンダ・ルイサ・マリア・デ・グアダルーペ(Josefa Fernanda Luisa María de Guadalupe)。

1846年に兄のフランシスコ・デ・アシスが従妹の女王イサベル2世と結婚したため、女王の義妹となった。1848年6月28日にバリャドリッドにおいて、キューバ生まれのジャーナリスト・作家のホセ・グエル・イ・レンテスペイン語版貴賤結婚した。ホセとの結婚の話が広まると女王の命でスペイン王女(Infanta de Españaの称号を剥奪されて宮廷を追われた上国外追放された[2]。夫とは3人の息子をもうけた。1852年にスペインに戻り、1855年には女王から赦された。

夫は政治家として地位を築いた。ホセフィーナ自身は1854年のスペイン革命の際、進歩主義派の支持者として知られていた[3]

1910年6月10日、フランスパリにおいて83歳で亡くなった。

子女

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  • ライムンド・グエル(1849年 - 1907年) - 初代バルカルロス侯爵
  • フェルナンド・グエル(1851年 - 1936年) - 初代グエル侯爵
  • フランシスコ・マヌエル・グエル(1857年 - 1888年)

脚注

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  1. ^ Darryl Lundy (10 May 2003). “Josefina de Borbón, Infanta de España”. thePeerage.com. 2012年6月10日閲覧。
  2. ^ Infantas españolas: Josefa Fernanda de Borbón: el accidente en Lhardy que le arrebató los honores” (スペイン語). Tu Otro Diario (2020年4月8日). 2022年5月6日閲覧。
  3. ^ La Infanta española que «interrumpió» su matrimonio pistola en mano tras una infidelidad hace siglo y medio” (スペイン語). abc (2021年1月19日). 2022年5月6日閲覧。

外部リンク

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