ヘンドリク・ファン・デン・ブルーク
ヘンドリク・ファン・デン・ブルーク Hendrick van den Broeck | |
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ファン・デン・ブルークの壁画、「最後の審判」、ラツィオのFarfa Abbey | |
生誕 |
1530年ごろ メヘレン |
死没 |
1597年9月28日 ローマ |
ヘンドリク・ファン・デン・ブルーク(Hendrick van den Broeck[1] 、1530年ごろ - 1597年9月28日)は、フランドル出身の画家である。1550年代末にイタリアに移り、イタリア各地で活動した。フィレンツェでフィレンツェ大公、コジモ1世の宮廷画家を務め、ローマで教皇グレゴリウス13世からの注文で教会などの装飾画を描いた[2][3]。イタリアではアッリーゴ・フィアミンゴ(Arrigo Fiammingo、フランドルのアッリーゴ)とも呼ばれた。
略歴
[編集]メヘレンで生まれた。同名の父親の息子に生まれた。兄弟には彫刻家になったウィレム・ファン・デン・ブルーク(Willem van den Broeck)らがいる。同時代のメヘレン出身の画家、クリスペイン・ファン・デン・ブルーク(Chrispijn van den Broeck: c.1523-c.1591)とはおそらく親類であったと推定されている。
アントウェルペンで大きな工房を開いていたフランス・フロリスの弟子になった[2]。1557年ごろ、イタリアに移り、その後、没するまでイタリア各地で働いた。
1557年と1558年はフィレンツェで大公、コジモ1世らの注文でステンドグラスの制作を行い、1560年代の初めまでフィレンツェで、別のフランドル出身の画家たちと働いた。1561年にオルヴィエートの教会の壁画を描き、ペルージャなどで働き、1567年からはナポリで働いた。1572年から1573年はローマでジョルジョ・ヴァザーリらの複数の画家とヴァチカン宮殿の装飾画を描いた。その後ペルージャに戻った後、1580年から亡くなる1597年までローマで活動し、1580年にアカデミア・ディ・サン・ルカの会員になった。1587年にバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の壁画を描いた[2]。
作品
[編集]-
システィーナ礼拝堂壁画、「キリストの復活」
-
ヴィーナスとキューピッド
参考文献
[編集]- ^ 名前の別表記には Arrigo dei Paesi Bassi, Arrigo Fiammingo, Hennequin de Meecle Broeck, Henricus Paludanus, Hendrick van de Broeck, Hendrick v. d. Broeck, Nicolas Hendrick Broeck, Henricus van Mechelen, Arrigo Paludano, Henricus Malinusなどがある。
- ^ a b c Hendrick van den Broecke at the Netherlands Institute for Art History
- ^ Biography of Arrigo Fiammingo in Giovanni Baglione, Le vite de' pittori, scultori, architetti, ed intagliatori : dal Pontificato di Gregorio XIII. del 1572. fino a' tempi di Papa Urbano VIII. nel 1642, 1733, p. 73