フーゴー・フォン・ハーベルマン

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フーゴー・フォン・ハーベルマン
Hugo von Habermann
自画像(1900年頃)
誕生日 1849年6月14日
出生地 バイエルン王国の旗 バイエルン王国、ディリンゲン(Dillingen)
死没年 (1929-02-27) 1929年2月27日(79歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ国ミュンヘン
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フーゴー・フォン・ハーベルマン(Hugo Joseph Anton (Freiherr) von Habermann、1849年6月14日 - 1929年2月27日)は、ドイツ画家である。甥で同名の画家と区別するために、Hugo von Habermann d. Ä.(der Ältere)と呼ばれることもある。人物画、特に女性を描いた。

略歴[編集]

バイエルンディリンゲンde:Dillingen)に生まれた。父親は男爵で陸軍士官で、母親も貴族の出身である。1858年に家族はミュンヘンに移り、名門高校に進み、絵を書くことが好きになったが、1868年から法律を学んだ。普仏戦争で士官として従軍し、余暇に絵を描き、捕虜収容所捕虜の似顔絵を描いた。

戦後、法律を学ぶのを止め、絵を学ぶことに決め、ヘルマン・シュナイダー(de:Hermann Schneider)に指導を受けて、ミュンヘン美術院に1871年11月に入学し、1874年から校長で歴史画家のカール・フォン・ピロティに学んだ。1878年からミュンヘンの芸術家協会の展覧会に出展し1879年までミュンヘン美術院で修行し、その後、ブルーノ・ピグルハインde:Bruno Piglhein)とスタジオを開いた。1880年に、フリッツ・フォン・ウーデと共同で個人美術学校を開いたが学生が集まらず、すぐに閉校した。同じ年に、フランツ・フォン・レンバッハによって作られた美術家グループ、"Allotria"(Künstlergesellschaft Allotria)のメンバーとなった。このグループはミュンヘン分離派の先駆けとなった。

ミュンヘンのガラス宮殿で開かれる展覧会に出展し1886年に金賞を受賞した。有名になり、多くの肖像画の注文を受けるようになり、美術院の教授に任じられた。ミュンヘンの国際展覧会にも出展した。1909年にバイエルン・マクシミリアン勲章de:Bavarian Maximilian Order)を受勲した。1922年に長くモデルをし、生活をともにしてきたOlga Hessと結婚し、1923年にヒンデンブルク大統領からプール・ル・メリット勲章を受勲した。

作品[編集]

参考文献[編集]

  • Lovis Corinth: Hugo von Habermann. In: Kunst und Künstler, Heft 8/1910, S. 301ff.
  • Hans Detlev Henningen: Habermann, Hugo Freiherr von. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 7, Duncker & Humblot, Berlin 1966, ISBN 3-428-00188-5, S. 396 (Digitalisat).
  • Andreas Meyer: Annäherung: „Ein Sorgenkind“ von Hugo von Habermann. Städtische Galerie, Würzburg 1994, ISBN 3-928155-25-3
  • Fritz von Ostini: Hugo von Habermann. Piper, München 1912 (Biographie)