フセイン・オン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

フセイン・ビン・ダトー・オン1922年2月12日 - 1990年5月29日)は、マレーシアの第3代首相である。就任期間は、1976年から1981年である。UMNO創設者でもあるダトー・オンを父に持ち、ジョホールバルで生まれた。

政治家になるまで[編集]

初等教育をシンガポールで受け、ジョホール・バルの英語大学を卒業している。その後、1940年に、士官候補生としてジョホール軍に参加し、インド陸軍学校に派遣された。訓練が終えた後に、インド軍の一員として、第2次世界大戦が勃発していた中東に派遣されている。戦後、イギリスは、広範な経験を買って、ラワルピンディにあるマレー警察学校のインストラクターとして採用した。

1945年、マレーシアに戻るとジョホール・バル警察署署長に任命され、その翌年には、ジョホール州スガマッにあるMalaya Civil Serviceの管理職となる。後に、セランゴールクランクアラルンプールに転任する。

政治家になる[編集]

ナショナリストとしての精神と政治的なルーツから、職を辞し、政治の世界に飛び込んだ。1949年、UMNOの青年部の最初の代表に就任し、UMNOを創設した父ダトー・オンを助けた。1950年、UMNOの書記長に選出された。しかし、1951年、UMNOを去り、マラヤ独立党を創設した父に従う。マラヤ独立党が勢力を失うと、ロンドンへ留学し、弁護士の資格を取る。その後、クアラルンプールへ戻り、弁護士業を開業した。

首相就任[編集]

1968年、政治の世界に戻った。後に首相になるアブドゥル・ラザクによる説得を受けてUMNOに再び参加した。1969年総選挙で議席を勝ち取り、教育大臣に任命された。その後も急進は続き、1973年、副首相に昇格した。1976年1月15日、ラザクの急死を受け、マレーシアの首相に就任した。

民族間の経済的なアンバランスを修正する政策を展開することで民族間の統合を強調することで高名である。たとえば、1981年4月20日には、国民統合信託の枠組みを発布している。また、薬物に対しても厳しい取締りを実行している。

1981年心臓手術を受け、7月17日、政治的活動と首相の辞任を発表した。マハティール・ビン・モハマドがそのあとを継いだ。

退任後[編集]

首相を辞任した後、福祉活動に大きな貢献をした。フセイン・オン眼科病院の創設に携わると同時に、マレーシア国営石油会社であるペトロナスのアドバイザーにもなっている。

1987年のUMNO分裂危機の際には、マハティールと衝突している。

1990年5月29日サンフランシスコで亡くなる。68歳。クアラルンプールにあるMakam Pahlawanに埋葬された。

その他[編集]

  • 2人の息子と4人の娘がいる。

外部リンク[編集]