ビセンテ・セルバンテス

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ビセンテ・セルバンテス(Vicente Cervantes Mendo、1758年 - 1829年7月28日)は、スペイン生まれの植物学者である。メキシコに渡り、活動した。

略歴[編集]

サラマンカ県のレドラダの出身で医師の息子とされる[1]マドリードで学び、マドリード王立植物園でも学んだ。薬剤師となり、マドリードの病院で働いた。、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡った医師のマルティン・セセーの提案によるメキシコの科学的調査探検のメンバーにマルティネス(José Martínez Longinus)、センセブ(Jaime Senseve)、カスティリョ(Juan del Castillo)とともに選ばれた[2]。1787年の末、メキシコに渡り、セセーとともに計画中の植物園の適地を探した。1788年5月1日にメキシコシティ植物園(Jardín Botánico de la Ciudad de México)は公式に開園し、園長にはセセーが就任した。セルバンテスは植物園で調査探検隊の支援を行うとともに、植物分類学の講義を始め、講義を受けた人物にはホセ・マリアーノ・モシーニョが含まれ、モシーニョは1879年から調査探検隊に加わった。新しい分類法はメキシコの博物学者、アルサテ(José Antonio de Alzate y Ramírez)と論争したが、後に協力関係を築くことになった。アントワーヌ・ラヴォアジエの『化学原論』を翻訳し、紹介もした。

1803年に探検隊が帰国した後もメキシコに残り、1803年に植物園の園長、教授となった。メキシコの病院の薬学の改革にも取り組んだ。約300の新種植物を記載した他、『メキシコの薬用植物試論』("Ensayo a la Materia Médica Vegetal de México")、『ヌエバ・エスパーニャの植物』("Plantae novae Hispaniae")『メキシコの花』("Flora Mexicana")などの著作がある。

メキシコ独立革命の後、1821年にメキシコの独立が決まると、多くのスペイン人は追放されたり、亡命するなどしたがセルバンテスは学問的貢献から、追放を免れ、1829年にメキシコで没した。

ビャクダン科の属名、Cervantesia Ruiz & Pavón献名されている。

参考文献[編集]

  1. ^ La Gaceta: La villa celebrará en noviembre el 250 aniversario de Vicente Cervantes. Tageszeitung vom Sonntag, 9. März 2008, S. 25
  2. ^ José Luis Maldonado Polo: La expedición botánica a Nueva España, 1786-1803: El Jardín Botánico y la Cátedra de Botánica. Historia Mexicana, Nr. 001, S. 5-56, 2000