ノート:長岡宗一

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「その筆頭舎弟分は「野呂…」である」と書かれてありますが、この論拠となる検証可能な出典の明示をお願い致します。Wikipedia:検証可能性の 「方針2」には、「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と書かれてあります。また、。Wikipedia:検証可能性の冒頭には、『「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と書かれてあります。例え事実であっても、検証可能な出典の明示ができないものは、記述不可となります。よろしくお願い致します。--竜造寺和英 2007年3月18日 (日) 23:33 (UTC)[返信]


「昭和24年(1949年)1月、札幌市のテキヤの幹部・田山吉雄が、出所した。田山吉雄は、荏原哲夫の兄弟分である愚連隊仲間の兄弟分(つまり、回り兄弟分)・通称:島畑チャンタを刺殺し、服役していた。荏原哲夫、松田武嗣(通称:南海の松。後の飯島一家松本分家庵袋二代目)や愚連隊仲間が集まったとき、田山吉雄を殺すことで話がまとまった。松田武嗣が田山吉雄殺害を買って出た。同年2月、松田武嗣は、田山吉雄が、田山の親分である森呉謙吉の札幌狸小路の家にいることを突き止めた。松田武嗣は、長ドスを持って、森呉謙吉の家に殴り込んだ。松田武嗣は、田山吉雄に斬りかかったが、長ドスは頭をかすめた。松田武嗣は、長ドスを振り回した。松田武嗣は長ドスの刃で鴨居を斬りつけ、長ドスの刃が、鴨居に食い込んだ。田山吉雄は森呉謙吉の家を飛び出して逃げた。松田武嗣は、森呉謙吉の家から引き上げた。同年4月、荏原哲夫が田山吉雄を日本刀で刺殺した。荏原哲夫は、松田武嗣に付き添われて、ススキノ交番に自首した。同年11月荏原哲夫は懲役5年の実刑判決を受け、札幌市東苗穂484番地(現:札幌市東区東苗穂2条1丁目5番1号)の札幌苗穂刑務所に服役した。荏原哲也は、炊場に配属された。すぐに、荏原哲也は、炊場の責任者になった。

同年、長岡宗一は、あるテキヤの用心棒となった。同年秋、このテキヤは、栗山町桜山で開催されたばん馬競争に、露店を開いた。長岡宗一も用心棒として同行した。長岡宗一は、ばん馬競争の最中に、愚連隊の男と決闘になり、持っていた剃刀で左頬と後頭部を切った。愚連隊の男の兄弟分が加勢に来たが、長岡宗一は、この兄弟分を3回斬った。さらに、長岡宗一は、堅気の集団に襲われた。長岡宗一は逃げたが、途中でマサカリを見つけて、マサカリを手に堅気の集団を迎え撃った。長岡宗一と堅気の集団は、睨み合った。このとき、テキヤと警察官が駆けつけてきた。長岡宗一は警官に逮捕され、栗山警察署に連行された。同年末、長岡宗一は、傷害罪と刀剣類不法所持により懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けて、札幌苗穂刑務所に服役した。長岡宗一は計算夫に配属された。ここで、荏原哲夫は、長岡宗一と再会した。また、荏原哲夫は長岡宗一に、札幌苗穂刑務所に服役中の田村武志(後の五代目山口組若中)を紹介した。長岡宗一は、模範囚となり、5ヶ月21日で出所した」と加筆修正しました。出典は山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.147~P.155とP.104~P.107です。--竜造寺和英 2007年5月29日 (火) 07:51 (UTC)[返信]


北海道岩見沢市出身」を「北海道岩見沢市志文町出身」と書き換えました。検証可能な出典は、山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2 のP.240です。--竜造寺和英 2007年5月28日 (月) 08:26 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.220~P.252を出典に詳しく加筆しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年5月28日 (月) 15:26 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.253~P.267を出典に詳しく加筆しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年5月29日 (火) 07:54 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.267~P.306を出典に加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月4日 (月) 08:59 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.306~P.314を出典に加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月6日 (水) 08:10 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.314~P.324を出典に加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月6日 (水) 21:11 (UTC)[返信]


「昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた」、「昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた」、「同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった」と加筆しましたが、検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.221~P.222です。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 08:21 (UTC)[返信]