ノート:足利義維

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

生年について[編集]

ノート:足利義晴小川尚明さんが半年近く前、「足利義維の生年が1509年となっており、もしあちらが合っていれば、義晴は次男になり、足利義澄の長男にならないのですが?」と発言なさっています。私もインターネットで調べましたが、生年は1509年で概ね正しいようです。なぜ、義維が弟になっているのでしょうか?

多くの文献等でも義晴が兄で義維が弟になっており、矛盾しているため、未検証のタグを貼らしていただきました。詳しい方の説明をお願いいたします。--kouko0515 2007年11月11日 (日) 13:37 (UTC)[返信]

直系が義晴で、義維は庶流だからだと言う説がありますがこれはどうかと・・・・。ただ、将軍は義晴ですから、これも考えられるかもしれません。--東海林 俊夫 2008年2月8日 (金) 10:25 (UTC)[返信]

付け足します。足利義維は実在しなかったという人もおります。そして彼の子の足利義栄最上義守の次男、最上義栄だというのです。ただ、最上氏の系図のほとんどが最上義栄を載せておらず、専門家の間でも実在しないとされ、義栄の弟、中野義時を次男としておりまして、これはあり得ません。--東海林 俊夫 2008年2月9日 (土) 02:05 (UTC)[返信]

ただ、庶子の場合、年上でも弟扱いされたケースはあったようです。→足利政知#人物・逸話。ただし、どうして庶長子が弟扱いされるのか私も実際のところは分からないので、詳しい方に是非ともお伺いしたいのですが……。--水野白楓 2008年2月9日 (土) 02:11 (UTC)[返信]

足利義栄足利義助兄弟も同様ですね。--東海林 俊夫 2008年2月9日 (土) 10:42 (UTC)[返信]

昨日図書館で読んだ本(『戦国武将合戦事典』だったかな)によると、当時の資料(名称は失念)で義維を義晴の「弟」と表記したものがあるらしいです。ただ、その本においても生年は義維の方が年長ということになってるので、義維が庶子という程度の意味なんじゃないかと思います。--Kangoshiyouichi 2008年2月10日 (日) 17:43 (UTC)[返信]

突然、失礼します。名無し同然の者ですが御容赦下さい。
生年の順でもないのに長男、2男が決まる理由として考えられるのは嫡、庶の出生。すなわち「生母」に関係するものと思われます。ウィキ記載分を鵜呑みにして語らせていただきますが、
  • 義晴は、生母が正室の日野氏
  • 義維は、生母が斯波氏というなら側室でしょうか。
そこで、義晴が重んじられたのではないかと。当時の管領・細川高国が義晴にこだわった理由も嫡、庶の出生だと、勝手に考えてます。後世では、織田信長の息子である信雄と信孝も誕生順が逆の2男・3男だそうで、これも生母に関係すると言われてますから。
江戸時代あたりでも、子無しの養家へ貰われていった子は、実子の誕生により2男の扱いに降格させられた例(浅野長賢 (旗本))もあります。嫡出子 → 庶出子 → 養子 → 猶子 って順で、重要度が低下していくところでしょうか。
もっとも、嫡出が重んじられる理由は今ひとつ判りかねますが、その子に名付けられた名前にあるかもしれません。親(もしくは、祖父や曽祖父)の幼名が名付けられる資格というのも、生母にあると勝手に考えてます。
実際、『竹千代』と名付けられた徳川の歴代将軍が、どれだけ居たか?家光のみだと思われます。それだけ生母が正室である事が重要なのだろう、と勝手に考えてます。

徳川家光徳川家綱徳川家治以上三人徳川の歴代将軍で幼名が竹千代ですけど?細かいかも知れませんが一応指摘しておきます。瑞雲 2009年3月17日 (火) 07:02 (UTC)[返信]

そうなると、あと気になるのは「嫡子」の表記。「嫡子」を「跡継ぎ」と意味するような記載では、真意から外れているように思われ、慎むべきかもしれません。
長文、失礼しました。--119.63.121.247 2009年3月3日 (火) 15:18 (UTC)[返信]

本文に「日野氏の所生たる義晴」とありますが、これは誤りではありますまいか。 義晴の母は「末者阿与」という、身元不明の女性だったと記憶しています。 細川高国にとって赤松氏に養育されていた義晴の方が新将軍として擁立しやすかった、 義晴が将軍になったため、結果的に「義晴が嫡子・義維が庶子」的な扱いを受けることになった (彼らの生母の身分の高下と関係なく) ということと理解しています。 以上、私は一回の好史家に過ぎず、また記憶に頼って書いていますので、 もし義晴の母が日野氏という根拠がありましたらどなたかご教示いただければ幸いです。