ノート:純丘曜彰

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このページは一度削除が検討されました。削除についての議論はWikipedia:削除依頼/純丘曜彰をご覧ください。


[[en:Teruaki Georges Sumioka]][編集]

英語Wikipediaのen:Teruaki Georges Sumiokaは、この「AfD」(削除依頼)の結果として削除されました。したがって、enへのリンクを消すところです。-- Hoary 2009年12月15日 (火) 11:03

「思想」項目のノートへの移動について[編集]

2019年1月に「思想」項目について、内容が複雑で理解が困難だったため専門家の方々に補筆を求めましたが、それ以降の進展はありませんでした。

またこの内容については2008年にも議論されており、専門家による補筆が困難な内容、独自研究について記されているのではないかと考えています。これらの内容についての意見はも本ノートの「コメント依頼」の項目にあります。

ページの更新履歴にも当然残りますが、専門家の方々の目に触れやすいよう、この節に転記しました。 独自研究の域を超え、百科事典として記載する価値を持っている、とお考えの方は議論させてください。

{{専門的|section=1|date=2019年1月}}

[[長尾龍一]]、[[渡邊二郎]]に師事し、[[法哲学]]を起点に、1980年代は[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]や[[マックス・ヴェーバー|ウェーバー]]を基礎として、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ヴィトゲンシュタイン]]の[[言語ゲーム]]の概念、[[日常言語学派]]の[[言語行為論]]を踏まえ、[[ルネ・デカルト|デカルト]]を嚆矢とする近代[[主観主義]]の[[認識論]]に対し、[[行為]]と行為の[[主体]]についての[[存在論]]を[[論理学]]の観点から研究。[[ユルゲン・ハーバーマス|ハーバーマス]]と[[ニクラス・ルーマン|ルーマン]]の[[社会システム]]と[[コミュニケーション]]に関する論争の延長線上において、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]の[[存在論]]ですら主観的認識論であるとし、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の[[間主観]]的な[[実存主義]]を発展させて新たに[[自証]]・[[対証]]・[[衆証]]という論理学的存在概念を立て、他者によって補証された行為が主体の存在を逆措定する、とした。<ref>『論理・行動・生活そして経営』本文およびあとがき</ref>

その後、純丘は[[ヴィルヘルム・ディルタイ|ディルタイ]]や[[ハンス・ゲオルク・ガダマー|ガダマー]]の[[解釈学]]における脈絡依存性([[解釈学的循環]])の考察を経て、1990年代には、経済活動における[[法人格]]や[[サービス]]、[[ブランド]]の存在性を実証的に問う。<ref>「近代哲学のドグマ」『九州東海大学総合教育センター紀要』11号, 「法人の法哲学的存立根拠について」『九州東海大学工学部紀要』26号, 「社会構成原理としてのサーヴィス」『経済社会学会年報』21号, 「ブランドエクイティの概念」『九州東海大学応用情報学部紀要』2号 </ref>

しかし、2000年代になると、一転して映画作品を題材とするようになり、行為と行為の主体を人為的に構成する、脈絡としての[[物語]]の分析、および、その創作論を[[美学]]・[[芸術学]]として探求。[[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン|バウムガルテン]]に倣い、[[美]]とは[[真]]についての[[感性]]的[[論証]]である、と論じる。このために、純丘は[[対話]](ディアローグ)に代えて[[対為]](ディアゴーグ)と言い、プラトン以来の[[弁証法]](ディアレクティーク)に対して[[行証法]](ディアクティーク)を考えた。この行証法は、映画の中の人物相互の[[ミュトス]](元物語)においてだけでなく、映画の作り手と観客の間の[[エロキューション]](語り口)としても存在し、この2つの行証法によって映画の物語は[[T型グランド・ストラクチャー]]をなす、とした。また、映像に関しても、脚本の要素を言語的に分節化して人為的に部分カットを組み上げていく[[モンタージュ|エイゼンシュテイン・モンタージュ]]よりも、複数のカメラで実際の演技を同時多面的に撮影した[[マルチ・カヴァレッジ]]を再構成する[[モンタージュ|グリフィス・モンタージュ]]の手法を重視している。そして、映画のエピソードもまた、同一のテーマを多面的に描き出すものでなければならないとし、しだいにテーマに近づく物語の[[スパイラルアップ構造]]を論じた。<ref>「Movie Grammer & Image Technique」『九州東海大学応用情報学部紀要』 Vol.4, 「Isagogics for Cinema-Aesthetics」『九州東海大学応用情報学部紀要』 Vol.5, 「Critique of art Interpretation: The Possibility of Art-science」『東海大学総合経営学部紀要 』(2), 『エンターテイメント映画の文法』</ref>

その後、[[ポスト・モダニズム]]論に傾倒し、脈絡を転用して物語を再生産する[[お笑い]]や、[[記号]]的な[[表象]]表現形式である[[アニメ]]にも関心を広げた。<ref>「お笑いのレトリック」『九州東海大学応用情報学部紀要』 Vol.7 、「Kleine Geschichte der MANGA und ANIME」『Sommersemester 2008, Filmwissenschaft, JOGU』</ref>

近年は、創作のための実践的な[[物語論]]を深め、米国の著名な脚本セミナー講師[[ロバート・マッキー]]など、海外の研究者・創作者たちと活発に交流している。<ref>[[ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ]](マインツ大学)客員教授、[http://sumiokateruaki.blog2.fc2.com/blog-entry-33.html ボブおじさんのストーリーローグ], [https://researchmap.jp/sumioka-teruaki/ reseachmap 純丘曜彰]、GLOBAL WESTERN CONFERENCE in Germany, April 2013、ほか</ref>また、[[Youtube]]に動画「純丘先生の一分哲学」シリーズを連載している。<ref>[https://www.youtube.com/channel/UCWMt51UJ07c4HY4DGluE7MA Youtube JP チャンネル office SUMIOKA]</ref>

--Keys会話) 2019年4月23日 (火) 08:51 (UTC)


出版社の実在が確認できない出版物について[編集]

著作として上げられているものの多くが瓦塔院出版からとなっていますが、この瓦塔院出版という出版社の実在が確認できません。出版社の公式HPも住所・電話番号も存在せず、検索を行っても、楽天ブックスamazonでの電子出版のみで、しかもそこが発行しているのは純丘曜彰の作品のみの様子です。その上、瓦塔院出版からの出版物には、国際標準図書番号であるISBNが設定されておらず、amazon社が取り扱う際の社内の商品番号であるASINの番号のみが設定されているようです。しかもASINは基本的には出版社の発行した書籍以外の物品に与えられるもので、これらのことから考えると瓦塔院出版は実在する出版社ではなく、そういう名称の【純丘曜彰による個人サークル】であり、そこからの書籍は【純丘曜彰の自費出版物、個人による同人誌】である疑いが非常に強いかと存じます。だとすると、出版社を通していない個人が趣味で作った同人誌を、百科事典に掲載する意味はないと思いますので、瓦塔院出版からの作品は削除したほうが良いかと存じます。--古物屋会話) 2019年7月25日 (木) 16:51 (UTC)

  • コメント おそらく「office SUMIOKA publishing」名義のものもそうでしょう。ただ、特筆性がない人物が自費出版で特筆性を担保することには問題があると思いますが、既に特筆性が担保された人間が並行して出している自費出版の書籍についてはどうするか、一概にどうこうするような基準はないようにも思えます。わたし個人の意見としてはあれぐらいならば別にあってもいいような気はしますが、強く除去すべきとお考えになる方の手を止めるものでもありません。--Aoioui. 2019年7月25日 (木) 18:59 (UTC)
  • コメント コメント誠にありがとうございます。またご意見も中立的であり私も賛成です。数日待ったのち、反対意見が少ないようであれば、出版社を通していない書籍コード・雑誌コードのない自費出版物もしくは個人同人誌と思われる部分については削除を行いたいと思います。--古物屋会話) 2019年7月26日 (金) 13:51 (UTC)
  • 反対 これらの著書は、そもそも題名からして氏の特筆性を表現しているように思うのです。人物を知る手がかりとして「特筆性_(書籍)#自費出版物」の点から残しておいた方がいいと思います。--Keys会話) 2019年7月28日 (日) 05:29 (UTC)
    • 質問 そもそも題名からして氏の特筆性を表現しているについて、もう少し詳しく説明してもらってもいいでしょうか? あまり聞いたことがない理由ですので……。--Aoioui. 2019年7月28日 (日) 05:43 (UTC)
      • 返信 創作物は題名も含めて表現なので、書籍に特筆性がある、というのと理由は変わりません。 --Keys会話) 2019年7月28日 (日) 06:05 (UTC)
        • 返信 なるほど。だとすると、Keysさんは特筆性というものに対して思い違いをしています。Wikipedia:特筆性 (書籍)#自費出版物を参考に挙げていらっしゃいますが、そこには「(特筆性 (書籍))の「判断基準」に当てはまっているかどうかで特筆性が判断されます」とありますよね。つまりWikipedia:特筆性_(書籍)#判断基準のことですが、Keysさんのおっしゃる「そもそも題名からして氏の特筆性を表現」はこれら1~5のどれにも当てはまりません。
        • そもそも、ほかの記事においても、一作者の著書というものは、そのすべてに特筆性があるわけではありません。あくまでもその主題の人物の活動歴として記述されているものでしょう。だからわたしは、あってもいいが除去されるなら構わない、という立場を取っています。そのいわば中立的な立場から、これらの自費出版の著書に特筆性がないこと、そしてこの議論の中心を特筆性に求めるべきでないこと、は主張しておきます。--Aoioui. 2019年7月28日 (日) 08:56 (UTC)
返信 あ、なるほど。先に挙げたのは独立の記事として立項に値するかどうか、という話なんですね……。でしたら今回の件には無関係でした。すみません。--Keys会話) 2019年7月28日 (日) 09:15 (UTC)
反対 Aoiouiさんとのやりとりにあるように、例に出すのが誤りでした。お騒がせしてすみませんでした。元の反対票は削除します。そしてあらためて反対に票を投じます。自費出版・同人誌だから、という理由のみで削除することには同意できません。創作物の題名は創作者の表現のひとつであり、各媒体に掲載されている氏の記事(の内容)と同様、氏のことを知る手段の一つだと考えます。 --Keys会話) 2019年7月28日 (日) 09:15 (UTC)

EPUB3は死に逝くおじいさんたちのフォーマットという記事について[編集]

現在は削除されていますが、「EPUB3は死に逝くおじいさんたちのフォーマット」という記事を純丘氏は書いています。「EPUB3は、国際標準のEPUB2と上位互換性の無い、事実上、日本のみのガラパゴス規格」とこき下ろしています。しかし、EPUB 3が国際的なものであり、世界で普及していることは、W3CでもISO/IECでもEPUB 3仕様を出版していることからも明らかでしょう(W3C EPUB 3.2ISO/IEC TS 30135)。

純丘氏の人物像を明らかにするエピソードだと思うので、追記を提案します。 --Tadashiku会話) 2019年7月26日 (金) 07:15 (UTC)

  • コメント 基本的にWikipediaは新聞ではない(WP:NOTNEWS)という方針があるのですが、本件に関してはまず信頼できる二次資料が存在しないように思えます。--Aoioui. 2019年7月26日 (金) 08:14 (UTC)