ノート:秦郁彦/過去ログ1

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はじまり[編集]

Iceboatさん、なぜだめなんですか教えてください。私にはわかりません。秦氏の諸君での投稿は感動すべきものですよ、なぜそれがいけないのですか?それとも何か他に原因があるのですか?F86F 2007年4月23日 (月) 15:07 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 14:32 (UTC)[返信]

>慰安婦では吉見義明とは異なる独自の視点を主張し引用する論者は多い。しかしアジア女性基金の資料編集委員では原稿を拒否され、その経緯は「諸君」の投稿でも歴史に対する認識の差による対立を際だたせている。

典型的な「独自」→正統じゃない、「拒否され」→イメージ操作として拒否される理由があるという意味になる。という手法をとっておられるからです。 NPOVの文章に書き直してください。Iceboat 2007年4月23日 (月) 15:22 (UTC)[返信]

独自な研究と書かざるを得ないのは仕方がないです、実際その通りだから。拒否されたのも事実です。あなたはそれ知らないのでしょう?諸君読んでないんですか?それにNPOVってどういう意味ですか?事実しか書いてないじゃないないですか?もしかしてあなたは秦が吉見義明と同じ意見だと書けというのか?F86F 2007年4月23日 (月) 15:33 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 14:32 (UTC)[返信]

すみませんが、吉見義明も独自ですよ。そう書いたらどうですか?あなたのいう独自というのはそういう意味なんでしょ。普通は独自というのは、通説じゃない方を意味します。しかし、秦さんのはむしろ通説化してますよ。吉見義明を独自説と書くべきでは?あと、アジア女性基金の資料編集委員で拒否されるとはそのアジア女性基金の資料編集委員の偏向の立場を意味してるにすぎないですよね。公的な機関でもないわけですし。Iceboat 2007年4月23日 (月) 15:35 (UTC)[返信]

*ではまずアジア女性基金で拒否されたのを書くのは合意できたことでよろしいですね。

  • また吉見義明が独自(通説じゃない)、秦郁彦が通説、である事を示してください。何せ秦さんと同じ論文私探したけど発見できなかったもん。F86F 2007年4月23日 (月) 15:43 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 14:32 (UTC)[返信]
逆に、秦さんが独自説である理由を教えてください。立証責任は書く側にあるんですよ。Iceboat 2007年4月23日 (月) 15:50 (UTC)[返信]

>もっとも、いずれの論も、秦の提唱する組織的強制連行がなかったとする事実や、     上記に「事実」と、さも定説のように記述されているが、これは部分等に変更するべきでしょう。秦への反論が甘いにしても、それはあくまで秦の主張に対してであり「事実」に対する、物言いと断言するのは恣意的です。218.114.68.16 2007年10月24日 (水) 15:34 (UTC)署名なしの為追加--Klsasa 2008年3月28日 (金) 14:40 (UTC)[返信]

火の鳥さんの編集について[編集]

「独自の視点」や「異論」を具体的に示してください。Iceboat 2007年4月29日 (日) 13:37 (UTC)[返信]

とり急ぎ、過去の履歴から引用しておきます。これらは「異論」(この表現自体かなり穏便ですが)ではないのですか。

  • 慰安婦に関する研究がアジア女性基金の資料編集委員から拒絶された
  • 「慰安婦と戦場の性」は吉見義明らの一派にはまったく引用されず。
  • 前田朗の疑問(秦郁彦の「歴史学」とは何であるのか? 戦争責任研究[2000年春季] )。
  • 上野千鶴子(ジェンダーとフェミニズム)行き過ぎた只の機械的な資料調べと批判

--火の鳥 2007年4月29日 (日) 13:46 (UTC)[返信]

Iceboatさん、理由も具体的に挙げずにとりあえず全リバートするのはWikipediaの方針にも抵触しています。Wikipedia:中立的な観点では、「ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」とあります。Iceboatさんが編集の内容に問題があると考えるのであれば、削除ではなく、編集で対応してください。現在は、十分に編集で対応できるような骨子しか残っていませんよ。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 14:02 (UTC)[返信]

「行き過ぎた只の機械的な資料調べと批判」というのは、社会科学者の言うことじゃないですね(笑)。上野千鶴子ってすごいな。批判する人のみをとりあげて、彼の実証研究が通説化している面を取り上げないのは中立的視点ではありません。たとえば、吉見は吉田証言の検証をしたうえで、吉田証言の証拠能力を否定してますが、これは秦の先行研究による資料批判とおなじ結論です。あなたの書いてることはかなりバイアスがかかってますよ。Iceboat 2007年4月29日 (日) 14:14 (UTC)[返信]
あの、ここで示したのは「異論」の存在ですよ。私の書いてることがバイアスがかかってるかどうかは問題ではなく、そういう人達がいるかどうかが問題なのです。彼の実証研究が通説化していることを書かないとバランスが取れない(?)というのは、バランスの問題で、異論の存在を指摘してはならないことの理由にはなりません。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 14:20 (UTC)[返信]
異論というなら具体的にどの部分がそうなのか書いてください。たとえば、吉見は秦の吉田証言の研究については証拠能力が無いという結論が同じです。あなたの異論は一般論ですが、すでに嘘を含んでいます。Iceboat 2007年4月29日 (日) 14:37 (UTC)[返信]
吉見の観点は、秦の観点に対する「異論ではない」というのですか。また、前田朗などは題名からして明らかに「異論」のように思えますが、違いますか。いいですか、問題は「私の異論」ではなくて、単純に秦の観点に対する「異論」があるかどうかですよ。あなたが言ってるのは、「秦の観点に異論が一切ない」ということと同じ事で、「異論があるが、その異論は適切でない。」というのであれば、それを追記すればよいのです。それがWikipediaの思想です。上記は実際の過去の版にあったものですし、出典も示されてますし、これ以上の要求は過度な要求で、こじつけ以上のものではありません。Iceboatさん以外の方の反論(あれば、ですが)を待ちます。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 15:04 (UTC)[返信]
学問である以上、未知の問題に挑んでるのですから定説になる前は、異論があるのは当然なのです。だから、どの点について異論があるのかと聞いているのです。学問ってものがわかってますか?吉見は秦の研究について一致するところも、批判するところも両方ありますよ。両方あるものを一方だけ書いたら、バイアスになるでしょう。おわかりになりませんか???Iceboat 2007年4月29日 (日) 15:18 (UTC)[返信]
「両方あるものを一方だけ書いたら、バイアスになる」というのなら、なぜ「一方」に追記して「もう一方」をあなたがお書きにならないのですか。前者を削除してしまうということは、異論を封殺してしまえと言ってるのと同じ事ですよ。本件の問題に関して言えば、その異論も一定の支持があることは明らかでしょう(だからこそいつも激しい論争になるわけで)。Wikipedia:編集方針を熟読することが必要のようですね。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 15:29 (UTC)[返信]

秦研究と自由主義史観の思想家[編集]

Iceboatさん、「特に慰安婦ではいわゆる自由主義史観の思想家によく参照される。」。これは自明だと思いますが、これのどこがバイアスなのですか。それともこの事実それ自体を争うのですか。削除するのであれば、具体的に説明して下さい。もしくは対案を示してください。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 14:08 (UTC)[返信]

上でも書きましたが、自由主義史観じゃなくても実際に引用したりその説というか実証研究結果を採用してるからです。吉田証言の評価はなどがそうでしょう。明らかに、一部の支持しか集めて無いというような表現になってますが、実証による学問的真実は事実なら学者は否定できないのです。学問も辞典もイデオロギーではありません。Iceboat 2007年4月29日 (日) 14:14 (UTC)[返信]
これも同じですが、「特に慰安婦ではいわゆる自由主義史観の思想家によく参照される。」こと自体は合意されるわけですよね。これのどこが「明らかに、一部の支持しか集めて無いというような表現」なのかはご説明いただかないと分かりませんが、いずれにしても「よく参照される」ということを「書いてはならない」という結論にはならないはずです。Iceboatさんの言われていることは、彼は全く当該問題や政治性と無縁である、という印象を保てということだと思いますが、それはいかがなものかと。明らかに彼の研究はその文脈で参照されることが多いわけですし、彼自身もそういう場でご活躍されているわけですから。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 14:29 (UTC)[返信]
秦さんの研究は政府資料でも、吉見さんの研究でも、海外の研究でも普通に引用されてますよ。それを、全部書かないのなら明らかにバイアスでしょ。だいたい、吉見さんが秦さんの研究を無視してるなど嘘でしょ。吉田証言については、秦さんの研究を受けて、検証を行ってるじゃないですか。あなたは、自分のコピーしてる文章についてどのような裏付けがあって、かいてるんですか?Iceboat 2007年4月29日 (日) 14:35 (UTC)[返信]
どう読んでも、単なる事実しか書いてないのですが・・・。これがバイアスだというのが既にバイアスだと思いますが、そこは百歩譲っても、「全部書かないのならバイアス」というのであれば、その「全部」を誰かが追記すればよいのであって、もとになる記述を削除するという理由にはなりません。あなたが述べた理由により当該部分を削除したのであれば、Wikipedia:中立的な観点の方針からいっても、問題があります。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 15:12 (UTC)[返信]
学問は、未知の問題を検討してるのですから、異論があるのは当然なのです。また、一致するところもあるのも当然です。どの点が異論があるんですか?あなたは、なぜそれを指摘できないんですか?本当にわかって書いてるんですか?Iceboat 2007年4月29日 (日) 15:19 (UTC)[返信]
論点を整理します。ここでは、「特に慰安婦ではいわゆる自由主義史観の思想家によく参照される。」という記述がなぜ削除されるべきかを議論していることをお忘れなく。Iceboatさんは、「全部書かなければバイアス」と削除理由を説明されましたが、それに対しては、記述自体が事実に誤りがないのであれば、編集(追記)で十分対応できるのであり、削除の理由にはならないとの反論を申し上げました。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 15:36 (UTC)[返信]

自由主義史観の思想家に良く参照されるだけではなく、吉田証言問題などでは必須文献です。明らかにバイアスがかかってますよ。全部書くんですか?研究者の名前、政府の審議会の名前とか。もうちょっと、自分のバイアスを自覚してください。これは辞典ですよ。Iceboat 2007年4月29日 (日) 19:55 (UTC)[返信]

だから、「自由主義史観の思想家に良く参照される」ことは共通認識ですよね。だったら、その箇所を削除しないでください。秦氏を語る上で辞典としてそれが必須の要素だと考える人がいるから、そういう文言が加えられたのであって、それがミスリーディングだと思うなら、編集で対応するのがWikipediaの手順です。もちろん私にもバイアスはありますが、ここでは別にバイアスが問題になっているわけではありませんよ。編集方法の問題です。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 20:15 (UTC)[返信]
だから、「思想」じゃないものを思想家が引用するというのがすでにミスリーディングでしょ。同一平面上の議論じゃないじゃないですか。じゃあ、金日成主義を信奉する団体がよく吉見を引用すると書いていいんですか?事実ですけど。Iceboat 2007年4月29日 (日) 20:18 (UTC)[返信]
「自由主義史観の思想家に良く参照される」とは、Iceboatさん自身がお書きになった言葉です。文脈でミスリーディングになるなら編集で対応すべきと言ってるのです。ここが共通認識だとすれば、「「思想」じゃないものを思想家が引用する」のが問題なのは、実際にそうだから仕方がないという別次元の問題ではありませんか。その記載を許さない(削除する)と言うのは、それこそIceboatさんが印象操作しようとしているのにほかなりませんよ。「思想家」という表現に対案を出していただいても構いませんよ。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 20:30 (UTC)[返信]
『「自由主義史観の思想家に良く参照される」とは、Iceboatさん自身がお書きになった言葉です。』? いや書いてませんよ。私は、思想と実証主義的学問とは分けてるつもりです。金日成主義の人間が吉見を良く引用しようが事実ならそれでいいと思います。だから、思想を学問に影響させようとする行為を問題にするんです。私が書いたとはどのことをいってるんですか?消さなかったとかですか?ほとんど削除してると思いましたが。Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:02 (UTC)[返信]
「自由主義史観の思想家に良く参照される」という事実はないとご主張されるのですか?「思想を学問に影響させようとする行為」(あるいは逆かもしれない)がもし社会に存在しているなら、それを指摘することは正当でしょう。しかも、本件はかなりの社会的インパクトでそれが存在していると、だから書くべき、むしろ書かないことは中立的観点からも問題だと申し上げているのです。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 21:12 (UTC)[返信]
「自由主義史観の思想家に良く参照される」という事実はないとご主張されるのですか?』? 話を変えないでください。さきに、間違いは謝ったらどうですか?『「自由主義史観の思想家に良く参照される」とは、Iceboatさん自身がお書きになった言葉です。』というのは虚偽でしょ?Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:26 (UTC)[返信]
『「思想を学問に影響させようとする行為」(あるいは逆かもしれない)がもし社会に存在しているなら、それを指摘することは正当でしょう。』。これも話を変えてますね。そうであるなら、指摘すればいいと思います。でも引用でしょ?そういう行為なんですか?それならそういう風にはっきり書くべきです。論証付きで。そうでなければ、あなたの記述自体が「「思想を学問に影響させようとする行為」そのものですよ。おわかりになってないようですが。Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:29 (UTC)[返信]
※すぐ揚げ足を取ろうとされるんですね。私も気をつけないと。2007年4月29日 (日) 19:55 (UTC)の発言で、書いていますね。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 21:29 (UTC)[返信]
残念ながら、自己の間違いを認められないようでは、議論者の資格はないですね。これ以上しても、論理的に整合的な議論はできないので、やめましょう。最低な行為です。もし、議論する気があるなら、指摘した間違いについて謝罪なりなんなりしてから呼びかけてください。Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:31 (UTC)[返信]
※指摘した間違い?ご自分で書かれていると上で指摘しているでしょう。それで「最低な行為」ですか。ここまで真摯に対応してきましたが、ガックリですね。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 21:41 (UTC)[返信]

ですから、ここでは合意を形成してみようと試みているわけですよ。「自由主義史観の思想家によく参照される」という事実は、同意されるんですか、されないんですか。大筋でも同意されるという前提であれば、この記述がミスリーディングだというなら、対案を示してください。なにも対案も示さず、全部ダメだダメだでは、それはもう「妨害工作」以上の何ものでもありませんよ。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 21:39 (UTC)[返信]

ああ、本文じゃなくて上で書いてるって意味ですか?それならそうですね。でも、上で書いてるのは、本文でかくことに同意してるわけではなく、反対理由を書くための口火として書いてるだけです。本文で書くことに同意するかどうかですが、これは、「『「思想を学問に影響させようとする行為」(あるいは逆かもしれない)がもし社会に存在しているなら、それを指摘することは正当でしょう。』。これも話を変えてますね。そうであるなら、指摘すればいいと思います。でも引用でしょ?そういう行為なんですか?それならそういう風にはっきり書くべきです。論証付きで。そうでなければ、あなたの記述自体が「「思想を学問に影響させようとする行為」そのものですよ。おわかりになってないようですが。」と、書いたとおりです。書くべきではないですね。もし、そのような関係があるならそのような関係の立証を付けて正面から書くべきです。Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:46 (UTC)[返信]
いや、だから対立点を整理しているんです。「自由主義史観の思想家によく参照される」という事実について争いがあるかどうかをまず確定したいと。争いがないなら、Iceboatさんの主張は「その事実はあるが、本文に書くべきでない」ということになります。しかし、事実が存在するのにあえてそれを書かないというのは理由が必要(例えばプライバシーの問題とか)。ミスリーディングかどうかという問題は、表現の是非の問題で、編集で解決すべきだし、対立する問題について一方の立場しか取り上げていないというなら、他方の主張を誰かが追記すべきであると。だから、削除される理由が合理的でないし、対案が欲しいと申し上げています。議論が堂々巡りになりましたので、今日はここまでにします。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 22:01 (UTC)[返信]
「自由主義史観の思想家によく参照される」という事実について争いがあるかどうかをまず確定したいと」といういみでしたら、争いがあり、かつ、否定です。つまり、(相対的に)良く引用されているわけではありません。ふつうに、どちらの派からも引用されてます。最初から書いているように、どちらの派からも無視できない仕事をしているからです。したがって、特定の派から(しかも思想家とか完全にバイアスかけてますが)良く引用されるという表現はバイアスがかかります。Iceboat 2007年4月29日 (日) 22:04 (UTC)[返信]

そもそも、「自由主義史観」とはいかなる「史観」で、「思想家」とは具体的に誰をさすのか。かような単純論法のくだらん記載はいい加減にしたらどうか。--異端審問官 2007年5月16日 (水) 06:01 (UTC)[返信]

秦氏の政治性について(中立的観点)[編集]

現在の記述には、秦氏の政治的活動に関する部分が記載されていません。記載しようとしても、ほんの少し政治性に触れただけで、上記の議論の通りIceboat さんにリバートされ続けています。しかし、秦氏を紹介する上で、彼の諸活動(例えば、【正論】秦郁彦 米下院の慰安婦決議阻止の妙案とか)とそれを巡る議論/反論に触れず、歴史学者として評価が高い(それについても議論あり。もちろん評価されている部分もありますし、そうじゃないところもあるということ。)ことのみを紹介するのは、それこそ「両方」の「一方」しか記載されていないことになります。その「もう一方」の記載を阻止されている状態ですので、中立的観点から問題があることを付記させていただきます。なお、これは個人に対する誹謗中傷ではなく、彼の活動を紹介しようというものにほかならず、これを正当な理由なく阻止しようとするのは印象操作以外の何ものでもありません。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 19:52 (UTC)[返信]

私は、その引用とかは反対しませんよ。あなたのバイアスを問題にしてるんです。自由主義史観の思想家に良く参照されるだけではなく、吉田証言問題などでは必須文献です。明らかにバイアスがかかってますよ。全部書くんですか?研究者の名前、政府の審議会の名前とか。もうちょっと、自分のバイアスを自覚してください。これは辞典ですよ。Iceboat 2007年4月29日 (日) 19:57 (UTC)[返信]
Iceboatさんは、「評価が高い」「必須」等の表現を復活させ、評価を含まない表現を削除されましたが、それはバイアスとは言わないんですか。争いがあるところを、中立的表現から一方的表現に変更しているんですよ。それはともかく、たとえバイアスのかかった表現でも、事実誤認でなければ編集で修正して対応できるはずです。自分のことを棚に上げて、いきなりの削除とバイアスの決めつけは、極めて失礼な態度ですよ。私個人に対する攻撃でなくて、内容を議論してください。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 20:52 (UTC)[返信]
実証主義的な面で秦の評価が高いのは事実です。軍事史などの面で争いがあるのなら別ですが。上野千鶴子の引用されてたのは完全に畑ちがいですよね。あれですか?(笑)。実証研究をやらない人間に無茶苦茶なことを言われてもそれを評価の対象にするべきだとは思えません。上野千鶴子こそ思想家と呼べるはずですが、あなたにとって彼女はどのような「学者」なのですか?Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:06 (UTC)[返信]
※上でも申し上げていますが、本項目の過去の履歴で指摘されていた「異論」を列挙しただけですから、お間違えのないよう。ただし、あなたの表現は上野氏に対する誹謗中傷に近いものがあります。彼女の意見なら無視していい、という理由はありません。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 21:20 (UTC)[返信]
どこが上野氏に対する誹謗中傷に近いのか具体的にお願いしますとおねがいしたいところですが、。火の鳥さんは自己の間違いを認められない方のようなので議論の継続は難しいようですね。いつでも、きちんとした対応ができるなら受け付けますので呼びかけてください。失礼します。Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:37 (UTC)[返信]
※「あれですか?(笑)」「実証研究をやらない人間」「無茶苦茶なこと」。少なくとも真っ当な議論のできる社会人が使う表現として適当ではないと思いますよ。匿名性があるとはいえ、マナーは守っていただきたく。--火の鳥 2007年4月29日 (日) 21:45 (UTC)[返信]
「上野千鶴子(ジェンダーとフェミニズム)行き過ぎた只の機械的な資料調べと批判 」こんなことを言ったとしたら、そりゃ無茶苦茶でしょ。実証研究をやってるなら分かるはずですが、資料調べに行き過ぎなど無いですよ。能力的な限界があるだけです。そのいみで、実証研究や統計資料をあつかったことのある人間なら笑っちゃってもおかしくないと思います。実証研究とはできたらすべてのデータを集めたいけれど現実にはできないと言うことの中での、苦労の問題ですから。つまり、データーによって真実に迫るのが実証研究なわけですが、真実はすべてのデーターを集めなければわからないのです。その場合、能力的な限界や資料の制約からどこかであきらめますが、真実そのものではない可能性が残るのです。だから、資料集めが行き過ぎだという批判は真実に近づかなくてもいいと言い換えることができるのです。あなたは、上野千鶴子さんのこの言葉を別の解釈できるんですか?Iceboat 2007年4月29日 (日) 21:51 (UTC)[返信]

秦郁彦が政治的であることは本人自身が諸君などで、和田一樹?なぞを批判する文脈で明らかになっていますね。相手を政治的だと貶す行為は、同時に秦が政治的であると読者には見えるということ。秦自身も自分が中立だとは言っておらず吉見などと対決姿勢まんまんで和田と談判してますから、自分でも偏っている?のは自覚してますよ。Aki10Tiaki 2007年5月4日 (金) 18:30 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年4月6日 (日) 05:44 (UTC)[返信]

政治的か否かという議論はしていません。記述がNPOVに反しないかだけです。Iceboat 2007年5月6日 (日) 00:25 (UTC)[返信]
  • 私は、かつて秦氏はある一定程度、中立的ではあったと思います。しかしながら、私も含めての話ですが、老化すると頑固になる傾向があります。秦さんの不安定な言動も、彼の年齢をみれば仕方ないかも知れませんね。--126.81.80.4 2009年3月6日 (金) 14:21 (UTC)[返信]

火の鳥さんの秦批判の論者の記述について[編集]

どうも、論者の説をまとめられているようですが該当部分を引用してください。秦の手法の何処が問題なのかよく分かりません。とくに、この場合のジェンダー的視点とはなんですか?Iceboat 2007年5月9日 (水) 12:07 (UTC)[返信]

お返事が遅くなりすみません。一冊の本を一文にまとめようとしているのですから苦労しますよ。上野氏の批判はジェンダー的視点からと一般的に言われることもありますし、本の内容もその表現で間違っていないと思いますので、そう表現したのです。Iceboatさんが当該本を読まれておられるのかどうか分かりませんが、秦の手法の問題点は書かれてあるとおりで、適切な表現があるというのであればその代案を下さればと思います。上野の言説も社会において一定の支持があるわけですから(多数派とはいいません)、代案も示さず削除だけされるのは他の立場の排除にほかならないと思います。ここは「そういう主張がある」というだけのところです。--火の鳥 2007年5月10日 (木) 21:18 (UTC)[返信]
秦の手法の何処が問題なのかを明確にかけずに印象操作に入るような行為はNPOVではありません。たとえば、永井の指摘は論証対象として何を選んでいるのかが不明確です。また、手法の問題を語っているのであれば、右派との結びつきが何を意味し、それが手法にどう影響しているかを書いてください。さらにいえば、ジェンダー的視点というのが一般的に言われているなどと言うこともありません。現に何を意味しているか、あなたが説明できないのは「一般」という意味内容を逸脱していることご自身が証明してしまっています。総じて、印象操作色がつよすぎてPOVです。あなたがまとめられないんでしたら、該当部分を抜き出されたらいいとおももいます。Iceboat 2007年5月11日 (金) 09:56 (UTC)[返信]
おっしゃっていることは、批判に対する「Iceboatさんの意見」で、内容の問題ですね。永井氏や前田氏に対する反論は彼らにいうべきであって、私が答えるというのも筋違いです。しかし、そのような意見に基づく編集は「あなたの意見の発表の場」で行うべきです。上野氏がジェンダーの視点といわれていることはないと断言されていますが、ではどう言われているというのですか。他人の編集への批判や論評ばかりではなく、具体的な代案をください。--火の鳥 2007年5月11日 (金) 11:32 (UTC)[返信]

「批判」の記述について[編集]

>総じて党派色の顕在化をためらわない左派的なアクティヴィストからの批判が多い。 とあるのですが、最初に挙げられている永井氏は、アクティヴィストとは言い難い人物ではないでしょうか。 上野氏や前田氏についてはアクティヴィストと評して差し支えないと思いますし、批判の多くがそれに類する人物からであることは同意しますが。 また、枝葉末節であると本人が述べている永井氏記述と、批判を主目的にした前田氏の記述を同列に並べるのも違和感を感じます。--ちゅうかく・じえいたい 2007年5月11日 (金) 18:02 (UTC)[返信]

秦氏に対する異論は各方面から存在しているわけですから、それを分類してまとめて書ければ望ましいと思います。しかしその後予想される編集合戦の可能性も含めて、そこまでやるのはかなりの労力が必要となるでしょう。妥協の産物が現在の状態というわけです。--火の鳥 2007年5月13日 (日) 12:32 (UTC)[返信]

[1]について。疑義が示されたり(批判者にそう映るという)政治的偏向が指摘されることはあっても、挙げた点に関し、例えばこの数値は間違っている、実際はこうだった、と完全に否定し、「論破」したものはありませんよね。--まひと 2007年5月13日 (日) 16:15 (UTC)[返信]

まひとさんのご見解は良く分かりました。ですから、その出典を書いてください。Wikipediaはあなたの分析を書くところではありません。ちなみに歴史学で「論破」というのも良く分--Miwa.SS 2007年5月14日 (月) 05:53 (UTC)からないところです。--火の鳥 2007年5月13日 (日) 16:39 (UTC)[返信]
厳密な論証により誤りを指摘し、秦説を否定しようとする反駁が見当たらない事実を記しました。--まひと 2007年5月14日 (月) 04:24 (UTC)[返信]
それを誰が主張しているのか?誰がそう指摘しているのかを例示しないと独自調査でしかありません。今のままでは全く出典が明記されておりません。--Miwa.SS 2007年5月14日 (月) 04:38 (UTC)[返信]
批判者の文献に、厳密な論証により誤りを指摘し、秦説を否定しようとする反駁が見当たらない事実を記したまでのことです。これはややこしいことですが、批判者がそう批判していない、ということです(笑)。「厳密な論証により誤りを指摘し、秦説を否定しようとする反駁が見当た」った場合、これは事実でないことになります。もしそのような例があった場合、もちろんこの記述は撤回されるべきです。--まひと 2007年5月14日 (月) 04:57 (UTC)[返信]

戻します。結論として個人の独自調査を発表と解釈してよろしいでしょうか?であるならば削除対象ですね。--Miwa.SS 2007年5月14日 (月) 05:53 (UTC)[返信]

これでよろしいでしょうか。--まひと 2007年5月14日 (月) 06:08 (UTC)[返信]
今のままではどれだけ書いても独自調査。出典を明記してください。--Miwa.SS 2007年5月14日 (月) 07:27 (UTC)[返信]
Wikipedia:独自研究は載せないも参考にしてください。今の記述が続くようなら全文削除対象でしょう。--Miwa.SS 2007年5月14日 (月) 13:20 (UTC)[返信]

勝手に介入するが、かような「批判」記事は、例えば「慰安婦問題」の記事に記載するような内容のモノで、ここの人物事典に書くようなものではあるまい。この記載をしている人物が、単に秦批判をしたいがための記載ということが一見明らかではないか。秦説の否定がどうだの、バカらしいと思わないのか。刊行されているマトモな人物事典がどのように記載されているか、一度読んでみた方がよい。百人斬りの話なども、人物事典にそぐわないものだが、どういう感覚でかような編集をしているのだろうか。党派色がどうだとか、かような記載をする御仁の党派色はどうなのか?追記だが、かような「批判」を延々と書きたければ、自分のHPでも作成して、延々とやってもらいたいものだ。前田朗氏の秦攻撃の文献を読んだことがあるが、「学術論文」なのかどうなのかは別として、この文が名誉毀損若しくは侮辱罪に該当しないか人ごとながらハラハラしたものだ。いずれにしても、少し頭冷やした方がいいね。--異端審問官 2007年5月16日 (水) 05:39 (UTC)[返信]

論議中に先に削除しておいてこのような意見を言われても説得力皆無ですし、このような大量削除はノートで論議を経てから行うべきでしょう。よってリバートさせていただきました。--Miwa.SS 2007年5月16日 (水) 07:29 (UTC)[返信]

あんたみたいのを相手にするのは大変根気がいるので、ご免被りたいのだが、いわゆる慰安婦論議というものは、日本国内ではほとんど決着を見ているモノであって、秦が主張している4点について説得力がある反駁は、誰かが書いていたが、皆無と言ってよい。さて、あんたが一生懸命ネットを検索して、何か攻撃の材料はないかと探している努力には脱帽するほかないのだが、永井氏の「ブログ」から引っ張り出してきた文章をあんた自身はよく読んだ上で記載しているのだろうか。永井氏が秦論文から引用したものは、そもそも「慰安婦はどのように集められたか」という論題であって、「どのように集められたか」を論じているのにもかかわらず、その主題から勝手に離れて、論理のすり替えを行って、集められ、実際に働き始めた後の話を論じているのであるから「論証手続き」もへったくれもない。こんな内容の記載はどんどん削除する。--異端審問官 2007年5月19日 (土) 13:21 (UTC)[返信]

この記述自体自分の書いたものでもありませんし、ここは秦についてのものであって慰安婦についてのものでもない。出典の明示してある秦個人への批判意見を掲載するのに不都合もなくこれを削除するルールもありません。よってリバートさせていただきます。--Miwa.SS 2007年5月19日 (土) 23:50 (UTC)[返信]

↑あんたさあ。論理のすり替えが明白な文章を、「百科事典」に記載する必要性がどこにあるのか?ルール云々以前の問題だと思うが。良識を疑う。--異端審問官 2007年5月21日 (月) 08:22 (UTC)[返信]

検証可能性の問題があります。出典として個人ブログは認められていません。コメントアウトいたしました。--Album 2007年5月20日 (日) 00:07 (UTC)[返信]
個人ブログのみであれば特に削除に異議はありません。ただ、「吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』(大月書店, 1997年)など参考」として、その本への個人的批判である「批判は慰安婦研究に対する党派色の強いものが多いが、議論の根幹に関わる「総数」、「民族構成」、「行政施策としての強制連行」に関する秦説について、厳密な論証により誤りを指摘し、これを否定しようとする反駁が見当たらないことが特徴である」は、本にこういった記述自体無く、完全な個人の感想文でありますので削除することに同意していただきたく思いますがいかがですか? --Miwa.SS 2007年5月20日 (日) 03:48 (UTC)[返信]
もちろんです。その場合、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないといったウィキペディアの方針に基づく除去である旨を明記して、除去されれば良いと思います。右派・中道・左派、何であろうと差別はありません。--Album 2007年5月20日 (日) 03:54 (UTC)[返信]
Albumさんが出典として個人ブログは認められていないとして削除した点ですが、Wikipedia:検証可能性によれば、「例外となりうるのは、関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいこともあり得ます。」とあります。永井氏は最近論文が両方の立場から頻繁に参照されており、当該問題に関しては著名な専門研究者の一人といってよく、上記要件を満たしていると考えますが、いかがでしょうか。もっとも、内容に関してこの批判を載せるべきかという議論はありうると思います。この部分が載っていたのは、「秦に対する異論は存在しない」としてリバートが繰り返され、編集合戦一歩手前になっていたため、取り急ぎ簡単にウェブ上で確認できるというソースを用いたものです。上野千鶴子の問題提起も一定のインパクトがあったわけですので、掲載してしかるべきかとも思いますが、それは実現できていません。いずれにしても、秦の観点に対する異論が多く存在していることは確かですので、評価が高いという点だけ残して、そちらの批判を示さない、そのような編集を阻止するというのはウィキペディアの方針に反していると考えています。--火の鳥 2007年5月21日 (月) 22:19 (UTC)[返信]

そもそもこの項はWikipedia:存命人物の伝記ですから、批判を書こうとすること自体に「目を光らせて(Wikipedia:存命人物の伝記)」いなければならないのです。まずそのことが我々の共通認識になっているでしょうか?つまりあなたは、「批判」に目を光らせていますか?--Album 2007年5月22日 (火) 13:38 (UTC)[返信]

よくWikipedia:存命人物の伝記をお読みになって下さい。根拠のない批判は記載すべきではないのは当然ですが、「著名性につりあう重要なもの」はむしろ明記すべきなのです。「その批判がごく少数の人々の見解に過ぎない」とご主張されるのでしょうか。しかし、「ごく少数の人々の見解」であれば、こんな激しい議論にはならないはずです。現在の記事は、彼を賛美する内容が中心ですから、そこまで書くなら同時に彼に対する強い批判が存在することを書いていかないと、中立的観点からは適当でないと言っているのです。そう思いませんか。--火の鳥 2007年5月22日 (火) 19:11 (UTC)[返信]
事実として、個人ブログによる、たった一名による批判ですね(ウィキペディアの批判的編集者が何人集まっても「多数・少数意見」の判断上は、意味がありません)。検証可能性の方針によれば、個人ブログを採用するのは「例外」であり、最も保守的編集が求められる「存命人物」の項目には著しく不適切であると考えます。ここも、コメント依頼が必要かもしれませんね。あるいはWikipedia:存命人物の伝記のノートで議論をすると、有意義かもしれません。--Album 2007年5月23日 (水) 06:50 (UTC)[返信]

途中からの割り込みで失礼しますが、永井氏のブログからの引用を載せる必要性が理解できません。上で異端審問官氏も言われているとおり、永井氏は秦氏の主張の論理をすり替えているか若しくは読み違いをしているようです。これは私も秦氏の著書の該当部分を読んで確認しました。また、前田氏の秦氏に対する批判も記載の必要性があるのかどうか。恐らく実際に読まれた方は少ないと思いますが、相当悪意に満ちているもので、「批判」というよりも「中傷」的な内容のものでした。国連の組織についての秦氏の理解が間違っているということも書かれていますが、これもウィキペディアに載せるような内容ではない気が個人的にはします。「批判」として載せるのであれば、枝葉末節の話よりも論争の大きな争点についてなどについて記載すべきであって、罵詈雑言の類を記載し始めたら収拾がつかなくなると思います。前田氏の文章に対しては秦氏も釈明の文章を出していることもあり、そうなると、こちらも記載せねば中立性に欠けやしないかとも思われます。さらにいえば、嶋津格氏のコメントも記載不要でしょう。どういう意図で書かれたかはわかりませんが、本にただ書いてある秦氏に対する好評価だからといって、こんなことはウィキペディアに書くべき事柄なのでしょうか。感想まで。--ラスプーチン 2007年5月31日 (木) 08:19 (UTC)[返信]

火の鳥さんは林氏や永井氏の発言のまとめ方が資料制約からくる方法論的な問題点を結論への肯定より重視するなどPOVだと思います。また、上述の通りブログの引用は必要ないと思います。とりあえず、NPOVな記述にしましたが、さらに削除するべきかと思います。Iceboat 2007年6月27日 (水) 03:13 (UTC)[返信]

あなたのいうNPOVは、NPOVではありません。秦氏の本に対する賛辞だけが書かれてありますが、同書に対する歴史学者の見解の大勢は、かなり批判的だと思っています。「評価が高い」というのも、NPOVかどうか以前に、事実に反していると思います。この記事を読んだ読者は、秦氏を非常に高い評価だけを受けてるように思うでしょう。ところが、実際はそうではないのです。内容によっては、高い評価を書けば十分という場合もあるでしょう。しかし、秦氏は、積極的に政治的な意見発信をしており、特に他者に対する批判も行っています。その著作に対しても激しい賛否両論があります。このような場合に、高い評価だけを書いて批判を一切許さないのは、明らかにミスリーディングであって、Wikipediaを印象操作の場として利用していることにほかならないのです。Iceboatさんは、私が抽象的に書いたらダメで具体例を示せと、そこで私が一例として永井教授の意見や、林教授の意見を載せれば、それらもNoだとおっしゃる。要するに、批判を載せる事自体に反対にしか思えません。なお、ブログ、ブログと言いますが、研究者が責任を持って発表している文章なのですよ。両切りの缶入りピースを愛好する愛煙家であるなどという根拠がどこにあるか分からない文章を載せる位なら、こちらを載せてしかるべきでしょう。それと、「林博史No」というのは、研究者として認めないという意味ですか。--火の鳥 2007年6月27日 (水) 05:05 (UTC)[返信]
火の鳥さんは、永井氏の方法論的な懐疑を内容に対する肯定の上位において結論だててますけど、そもそもそれがおかしいですよね。さらにいえば、なぜ、軍事面で広く評価されている人の歴史学的な著作を、刑法のような異分野の学者を持ち出してきて、しかも、慰安婦問題の著作だけで、評価できるんでしょうか?方法論的な懐疑なら、慰安婦だけじゃなくて軍事的な歴史的著作全般に対して当てはめなければおかしいはずです。火の鳥さんのPOVが強く現れていると思います。秦さんのほかの著作に対する論評にもふれなければおかしいでしょう。冷静にご自身のやってることを見てみてください。どうみてもおかしいのがわかるはずです。
>それと、「林博史No」というのは、研究者として認めないという意味ですか。
これは途中で送信しちゃったんです。林博史の・・です。だからこっちに書いたんですが。説明が必要でした。Iceboat 2007年6月27日 (水) 10:54 (UTC)[返信]
Iceboatさんのご意見は、つまり永井や前田の指摘の内容に対して「評価できるんでしょうか?」「おかしい」と言ってるわけで、それはあなたの個人的見解にほかならず、独自研究でしょう(大体、永井の指摘が内容に対する肯定という積極的評価に読めるんですか?)。具体例を示せと仰るので、示してみれば、それは全般的に当てはめてないからおかしいという。一体、全般的に当てはまる批判って何ですか。同じ歴史学者である林の批判は全般的といえるかもしれませんが、それは削除されていますね。もっと政治的といわれるような意見は沢山あるでしょうが、それを載せるとPOVだと仰られるでしょう。私自身としては、個別具体的な批判というより、当初は抽象的に批判や異論の存在を指摘すれば良いのではないかという意見であり、そこからIceboatさんとの話が始まって現在に至るわけで、私としても本意ではないですが、どうアプローチしても無駄のようです。代案を示してくださいといっているにもかかわらず、それもない。やっぱり、批判を載せる事は基本的に許さない姿勢であることがよく分かりました。ウィキペディアがそのように利用されるのは非常に悲しいですが、やりとりを残したことが無駄にならないことを祈るしかありません。--火の鳥 2007年6月28日 (木) 06:14 (UTC)[返信]
私の言っている趣旨がわかっておられないようですが、ある人の業績について、1.特定の批判者の一部についての判断を拡大し、2.さらに、その批判の趣旨をねじ曲げてしまっているなら、問題ですよね。火の鳥さんはそういうことをしておられると言っているのです。なぜ、軍事史の専門家である秦の業績について慰安婦だけで全否定できるのか、慰安婦問題についての結論の妥当性を認めたいることを重視せず、方法論的な疑義を指摘したのをねじ曲げ全体を否定しようとするのか?そういう疑問に答えられないなら、POVであるとしか言いようがありません。秦についてその業績の全体を評価しようとする趣旨にならないのは明らかに、火の鳥さんが特定の関心から秦をディスグレイドしようとしているように見えます。全体的な評価が出来ないなら、そのような限定的なレベルでの批判であることを明示するのが最低限の義務でしょう。火の鳥さんはNPOVを根本的に理解しておらず、ウィキペディアの精神がわかっておられないようで、悲しいです。Iceboat 2007年6月28日 (木) 16:20 (UTC)[返信]
あのねえ、だから仰っていることは、限定的な批判というあなたが勝手に決めつけた理由だけで、たとえそれが存在することがソースによって確認され、歴史学者の正当な批判であっても、載せることを許さないということでしょう。NPOVを根本的に理解していないのはあなたの方ですね。もっとも、それが限定的とも少数派とも独自説とも私はまったく思いませんがね。言っておきますが、私は秦の業績をディスグレイドするのが目的ではなく、読者に公平な情報を提供することが目的です。批判はあくまで批判であって、それを見てディスグレイドするかどうかは読者の判断なのです。その判断の前提になる情報すら提供されておらず、非常にミスリーディングな内容になっている、その部分を問題にしているのです。編集者が誰もいないのでそうなっているならば、それはそれで仕方ないという意見になるかもしれませんが、編集者がいるにもかかわらず、その編集が秦を支持する方々によって強硬に阻止されている、そういう状況だから悲しいと申し上げているのです。--火の鳥 2007年6月28日 (木) 16:52 (UTC)[返信]
軍事史の専門家として評価されている秦氏の一部を取り出して徹底的にディスグレイドし、さらに、限定的な領域に対する批判であることも明示せず、引用の趣旨も歪曲していたら、火の鳥さんはNPOVを根本的に理解しておらず、ウィキペディアの精神がわかっておられないと判断せざるを得ません。さらにいえば、読者と編集者はウィキにおいては両方をかねているのです。私も読者の一人として、これはPOVだと判断せざるを得ませんといっているわけです。私だけではなく、上にかかれているように、この論評自体を書くことがPOVだという趣旨もあげられているにもかかわらず、火の鳥さんがPOVの編集を続けられると宣言されるのは残念です。NPOVを理解し、きちんとした編集をされることを切に望みます。残念です。Iceboat 2007年6月29日 (金) 04:20 (UTC)[返信]

秦の「評価」として記載されている部分の全面削除を提案したい。秦氏が関わったあるいは論説がある多くの史的部門の中で、単なる慰安婦論議だけに特化して「評価」などと記載する必要性が理解できない。人物事典を書くつもりなら、刊行されている人物事典や紳士録が、いかなる記述でなされているか、よく読んでから書いてみるのも勉強ではないか。ちなみに、横レスとなるが、秦が缶ピース好きだというのは、文藝春秋の「日本の論点」というのに書いてあった気がするぞ。--異端審問官 2007年7月5日 (木) 08:22 (UTC)[返信]

反対します。他の件の評価を書き加えればよろしい。--Miwa.SS 2007年7月5日 (木) 09:47 (UTC)[返信]

朱徳蘭はその台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない

=>朱徳蘭があげている研究書は以下、

2研究成果(p14~16) これまでに発表された慰安婦問題に関する研究は文書資料集、証言集、回顧録、口述歴史、歴史文学および学術研究等300件以上、に及ぶが、・・・・

さらに学術研究書としては研究者が叙述した資料集、回顧録、口述歴史等の資料を性別、民族別に分類し、歴史教育、歴史認識、基本的人権、帝国主義などいった幅広い観点から分析、考察を行った研究成果がある。主な作品を以下にあげる。

1倉橋正直、従軍慰安婦問題の歴史的研究
2川田文子、戦争と性
3吉見義明、従軍慰安婦
4吉見義明・林博史、共同研究・日本軍慰安婦
5ジョージ・ヒックス、性の奴隷従軍慰安婦
6金冨子・梁澄子他、もっと知りたい「慰安婦」問題
7鈴木裕子、「慰安婦」問題と戦後責任
8荒井信一、西野瑠美子・前田朗、従軍慰安婦と歴史認識
9鈴木裕子、戦争責任とジェンダー
10前田朗、戦争犯罪と人権
11日本戦争責任センター編、シンポジウム ナショナリズムと「慰安婦」問題
12蘇智良、慰安婦研究
13蘇智良・栄維木・陳麗菲編、滔天罪藝二戦時期的日軍”慰安婦”制度
14VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態1-朝鮮・台湾・日本編
15VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態2-中国・東南アジア・太平洋編
16尹明淑、日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦

以上の学術研究書の共通点として、・・・・

なお朱徳蘭は、日本で学んだ台湾の大学研究者で、その著書は台湾の慰安婦について、日本軍文書の研究、当時慰安所経営をした台湾人業者の研究、元慰安婦に取材した実態の研究をふくむ総合的な研究書である。また著書の中で秦の本は引用されていないRanchtodinn 2007年9月17日 (月) 03:19 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

Ranchtodinnさんへ。 ある一人の研究者の著書で引用されていないということで、「他の研究者からほとんど参照されておらず」ということにはなりません。だいたい、「吉見義明は雑誌「世界」2007年5月号でほぼ完全に論駁している」とあなた自身が書いてるじゃないですか。これは、参照されていることそのものですよ。さらに、主要な論点、つまり、慰安婦強制連行の有無について、論駁に成功しているかどうかは多数意見は意見は否定的です。吉見はこの点では秦の批判を受け入れた上で論点を変えているだけです。ですから、完全に論駁されているなどという結論は無理でしょう。総じて、Ranchtodinnさんの論理にはちょっと無理があるとおもいます。黒潮 2007年9月17日 (月) 09:45 (UTC)[返信]
横からちらちら見ていて思うんだけれども、Ranchtodinnさんの先のコメントは「ある一人の研究者の著書で引用されていない」ということではなくて、列挙した論文・研究書に全く秦研究が引用されていないと言っているのでは? それと批判するために取り上げているのは、あまり意味ある研究ではないということであって、肯定的引用とは雲泥の差があると感じます。さらに「論駁に成功しているかどうかは多数意見は意見は否定的です」と書くのなら、その典拠も必要でしょう。無論査読論文や研究書の中にということですが。
もしRanchtodinnさんの意図を当方が誤っていないので有れば、論破するのは比較的容易です。黒潮さんが信頼できる情報源とされる査読論文の中から、5,6つほど肯定的に秦研究を引用している例を挙げれば済むことです。できればRanchtodinnさんが挙げた研究数を超えることが望ましい。あるいは鵜呑みにせず挙げられた研究を全て調べ直し、本当に肯定的引用がないか確認する作業も必要かと。上記の作業がなければ、さきのリバートには賛成致しかねます。--Tears for Asia 2007年9月17日 (月) 15:08 (UTC)[返信]
Ranchtodinnさんはそもそも列挙していませんし、吉見自体が秦の研究を参照しているのも、明白です。一般に、論争では全面肯定も全面否定もむしろ珍しいわけですから、吉見が部分的に認めている部分でTears for Asiaさんの要求を満たしています。あと、挙証責任は書く側にあるのです。お忘れ無きよう。Ranchtodinnさんがした主張は、かなり徹底的な論文論述の検索が必要なものですが、彼がそれをした形跡はありませんし、自身が吉見の論述を持ち出したことで自分で矛盾しています。そして、論証にも成功してませんから、継続するのは無理です。あなたの名前が一つの主張だと思って反論しますが、簡単に、アジアに涙するのもいいですが、事実に基づかない行為は新た犠牲者を産み続けるのです。黒潮 2007年9月17日 (月) 15:21 (UTC)[返信]

「評価する」「参照する」という言葉の意味が判っていない人がいますね。本文で評価とは研究結果として価値があるという肯定的な評価でしょう。学術書の場合、他の研究者から参照される(他の研究者の研究書の中で引用される)事が、価値のある研究であるという評価の一つの指標となっています。これは研究者の価値を定める方法としてかなり意味があります。また吉見義明は「世界」2007年5月号で秦郁彦など右派の主張を批判したのであって、秦郁彦自身の名前はありませんし、もちろんこれは「否定的な評価」です。また朱徳蘭のあげた16冊は実際には慰安婦関係の研究書の大部分です、これはたしか慰安所のノートに、研究書のリストがあるので確認できます。またこれらの研究書でもほとんど秦の本は参照されていません。さらに加えて、もし評価されていないという事を書きたいのであれば、参照可能な出典を示して書くべきであり、他者の出典の明確な記述を具体的な理由もなく削除するのは、少なくともより多くの知識を持つ他の執筆者を妨害する行為です。Ranchtodinn 2007年9月17日 (月) 15:44 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

Ranchtodinnさん。あなたが右派の主張を批判したといっている右派とは誰のことですか?あと、ウィキペディアでは学術書だけが情報源ではありません。一般雑誌も情報源です。学者が中立であるという幻想はもはや誰も持っていません。朱徳蘭さんとう、特定の人間があげた本に参照されていなければ、あなたのような結論を書けるのであれば、逆に秦の本にあげられていない朱徳蘭をけなすことも出来ます。WP:NPOVを熟読されることをお勧めします。黒潮 2007年9月18日 (火) 01:36 (UTC)[返信]

Tears for Asiaさんの「信頼できる情報源とされる査読論文の中から、5,6つほど肯定的に秦研究を引用している例を挙げれば済む」には賛成ですね。しかしその記述は、本文の「評価」欄に書くべきでしょう。少なくとも私の「批判」記述を削除するためには、私の書いている事になんらかの間違いがある事を示すべきです。なんにせよ多くの情報が必要であり自分が読んでもいない「世界」の記事を理由に削除しないでいただきたいRanchtodinn 2007年9月17日 (月) 15:55 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

黒潮さんへ。「挙証責任は書く側にある」といわれますが、Ranchtodinnさんは複数の研究を挙げています。さきに言われているように「論駁に成功しているかどうかは多数意見は否定的です」という通りで有れば、反証を非常に容易でしょう。躊躇せず、ノートに論文名を挙げて良いと思います。それこそ16どころではないのでしょう。先にも言いましたとおり、秦研究について肯定的引用をしている研究を挙げる、あるいは朱徳蘭に関し不備を見つけるというどちらかの作業をしない限り、その意見を受け容れるしかないと思います。研究にこう書いてあるという事実に依拠しないで加筆するのは独自の研究と判断されるでしょうし、それこそ「事実に基づかない行為」にあたり、「新た犠牲者」(=この記事)を生み出すでしょう。
後、当方のユーザネームについて、表に出さない限りどう思われてもかまいませんが、記事の精錬に関連しないことに言及するのはやめましょう。それを言及することで、周囲からどう思われるか自省した方が良いかと感じます。--Tears for Asia 2007年9月17日 (月) 17:05 (UTC)[返信]
「Ranchtodinnさんは複数の研究を挙げています。」とTears for Asiaさんはおっしゃいますが、複数とは朱徳蘭のことですか?単数は複数を含むんでしょうか?Ranchtodinnさんがあげたのは一人ですよ。どうしようもなく、論理が出来ない人が編集に参加しないでいただきたい。無茶苦茶です。あと、ユーザーネームについてですが、関係ないならそれでいいです。しかし、名前自体に特権的な立場性を表示しているようにみえて傲慢だと感じてしまい言及してしまいました。私たちは、アジア人の一員で、アジアに涙するような立場ではありません。私たちが自身がおなじアジア人として今歴史を作っているのです。はっきりといえば、北朝鮮を放置しているものは人殺しをしているのと同じなのです。彼らの現在の人権状況を考ているとは言い難い、いわゆる、北朝鮮や社民党のような独裁主義くさくってどうしてもふれてしまいました。失礼しました。黒潮 2007年9月18日 (火) 01:36 (UTC)[返信]
どうもよくおわかりになっていないようですが、もしRanchtodinnさんが言われるとおり朱徳蘭氏の研究を肯定的に16人もの研究者が引用しているとすれば、それは朱徳蘭氏と同様の考えを持った人が十六人いるということです。「胃ガンの原因の多くはピロリ菌である」という箇所に、否定せずに研究名が載っていたら、それは同じ考えをもつ研究だということを意味します。朱徳蘭氏だけということにはなりません。ですから、それ以上に秦研究を支持する研究を列挙するか、さきの16人の研究について不備を見つけるしかないといっています。
これはユーザーネームの件やあなたの政治姿勢を持ち込もうとする件にも関わることですが、上でいっているのは、単なる検証可能性のための手続きであって、それ以上でもそれ以下でもありません。秦研究が広く学会で支持されているというのなら、それを肯定する研究を挙げればよろしいだけです。北朝鮮を放置するかどうかとは、直接関係有りません。政治的立場を検証可能性の有無よりも優先させるのはWikipediaでは誤りです。
ユーザネームの件ですが、前回のまま触れずにいくのなら水に流そうと思っていたのですが、繰り返されるので謝罪を要求します。当方がユーザーネームにどういう思いを込めているかは、正確に人に分かるとは思えませんし、そちらの勝手な思いこみで誹謗されるのはマナー違反の極みでしょう。すくなくとも当方は涙するときに、優越感にひたって涙するわけではありません。あなたはそういう意味で涙するのかもしれませんが。--Tears for Asia 2007年9月18日 (火) 04:09 (UTC)[返信]
Tears for Asiaさんは、「どうもよくおわかりになっていないようですが、もしRanchtodinnさんが言われるとおり朱徳蘭氏の研究を肯定的に16人もの研究者が引用しているとすれば」と、書いているということは、16人が実際に引用されていないことはわかってるんですよね。それで「検証可能性のための手続きであって」などというのは頭が痛いです。16人の論文を実際に引用しなければウィキペディアの検証可能性はみたしていません。友達の友達は皆友達だみたいなことをおっしゃっているでしょうか。頭痛がします。
ユーザーネームについてですが、謝罪はすでにしています。その上で、腹が立つことを連想させると書いているだけです。よくお読みになってください。偽善者を連想したことについて、あなたに謝罪する理由はありません。黒潮 2007年9月18日 (火) 08:33 (UTC)[返信]

追記します。未だに出典を明記した具体的な記述を理由もなく消す人がいますね、やめてください。簡単に言って秦郁彦の本は慰安婦「研究者」からは肯定的に評価されていません。これを出典を伴って書いたのが私の記述です。追記すると

1研究者に、慰安婦肯定派/否定派の派閥はなく、秦以外の研究者全員をながめて彼の本はほとんど引用されていません
2上記の事を私は自分で確認しています。即ちほとんどの本には目を通しています。これを参照可能な出典で示すため本文のような記述になっています。
3私が朱徳蘭の本を引用したのそれが最も新しい研究書であり、かつ研究書のレビューを行っていたからです。専門研究ではこうしたレビュー自体がある程度の研究成果=知的生産と見なされています。なぜならかなり多くの関係書を読み専門知識を背景にした判断が必要だからです。
4同様なレビューをした吉見義明の記事も既に追記しています。Ranchtodinn 2007年9月19日 (水) 03:48 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]
研究者って何を指すのでしょうかね?秦の慰安婦研究を評価する学者は確かに存在しますよ。だいたい御両者とも編集に必死ですけど、すぐ下に林博史関東学院大学教授がその手法を批判する記述もあり、永井和京都大学教授のある程度評価する意見もあります。その一点だけでも、全肯定全否定だけしかないとは思えないんですけど?--Miwa.SS 2007年9月19日 (水) 05:16 (UTC)[返信]
同意です。Ranchtodinnさんにもそういう風に書いていただきたいんですが。両方出さないとWP:NPOVが破られますから。Miwa.SSさんの編集もリバートましたけど、両方ふれられているのはいいとおもいます。ただ、まとめ方がおかしかったので同意できませんでしたが。RanchtodinnさんはなんでこうPOVの書き方にこだわるのでしょうか。そもそも、ウィキペディアでは研究者の出版論文と一般紙の論文は二次情報として等価かですが、傾向としてはむしろ後者のほうが重要視されます。アクセスの容易さが後者のほうが上ですから。一般紙を完全に無視したRanchtodinnさんの記述はそれだけでも問題が多いです。黒潮 2007年9月19日 (水) 05:50 (UTC)[返信]

それぞれの主張にそれぞれの立場からの賛否があることは東大で行われた一連の慰安婦問題公開ゼミでも明白なことです(『慰安婦問題という問い―東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』参照のこと)。秦への賛同者もいれば批判者もいる。秦の慰安婦問題調査で一番責められている点は、慰安婦当人と現地人、軍人には聞いても、業者への聞き取りを一切していない点。それは当人も認めていて危ないからととめられた残念だったと言っている。そういった率直な意見も公開ゼミでは出ている。学会だの研究者だのいうのならこういった資料にも当たったうえで肯定否定すればいい。ウィキペディアでの編集で何が一番おかしいかといえば、ネット上にあるそれぞれの主張する立場に沿った切り貼りされた要約だけをもっててまるで原本を読んだかのごとくそれを出典として記述する行為ですね。最近つくづく思う機会が多いので。本当に出典書籍、論文他を熟読して書いているのかなと。 --Miwa.SS 2007年9月20日 (木) 01:06 (UTC)[返信]

秦さんが業者への聞き取りもしようとしたというのは興味深いですね。慰安婦問題では日本政府の強制連行を主張する立場でもそうじゃない立場でも、その核心は業者の行動だったはずです。それの直接証拠が欠けているのはなぜだろうかと思っていたのですが、一研究者の立場では、たしかに業者といういちばん直接行為者に近い立場の聞き取りは危険だというのはわかる気がします。彼らがどちらの立場にしろ、犯罪に近いのは明らかですから。逆にいえば、直接行為者である業者に対して調査せずに、日本政府の責任を語る人たちは、犯罪でいえば、正犯のいない教唆犯のようなもので、立証に欠けるわけですが、そこら辺の意識がまるでないのが不思議です。秦さんがその点について調査を考えていたというのは、秦さんの調査に対する信頼度を上げる事実だと思います。貴重な情報ありがとうございました。切り張りについても同意です。断片的「記述」をつかった、POVが横行するのはすごく残念です。黒潮 2007年9月20日 (木) 03:40 (UTC)[返信]

追記2回目、なんの理由もなく出典が明示された具体的な記述を削除しないで下さい。これは単純に言って辞書の情報を低下させる行為です。何かPOVがどうのと書いている人がいるようですが、なぜPOVなのか理由がありません。私の記述は単に事実を書いただけです。Ranchtodinn 2007年9月20日 (木) 05:18 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

「従軍慰安婦に関する秦の説はその他の研究者からほとんど参照されておらず、内容が参考にすべきものと評価されているとは言い難い。」という記述は事実と違うからでは?実際、評価している歴史家もいますから。貴方がこの記述を加えたいのならまず、ほとんど参照にされていないということを事実として証明する客観的資料を出してください。秦の対立者の著作だけでは何の証明にもなりませんよ。まあ、だからといって真逆に編集するのも極端だとは思いますけどね。『慰安婦問題という問い―東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』をぜひご一読ください。安価な本のわりに秦から吉見、村山富市、石原信雄までが個別に出た東大ゼミの記録で参考になると思いますよ。--Miwa.SS 2007年9月20日 (木) 07:09 (UTC)[返信]
Miwa.SSさんに同意します。さらにいえば、Ranchtodinnさんの主張は吉見自体が秦の研究を全く参照していないかのような書き方をしていますが、慰安婦強制連行の証言をした、吉田清治に対して、上杉聰とともに吉見義明・中央大学教授は、吉田と面談し、その結果、秦の論拠だけで吉田の証言を嘘と断定することはできないが、歴史証言としては採用できない、とするなど明らかに参照しており、かつ、この点について、秦と同様の結論にいたっています。Ranchtodinnさんの主張は明白に間違っているばかりか、WP:NPOVにも反しています。このまま、根拠無くリバートを繰り返されるのであれば、Ranchtodinnさんをあらしと見ざるを得ません。黒潮 2007年9月20日 (木) 07:39 (UTC)[返信]

Miwa.SSさん あなたは研究書を読んだ事がないのでそのような(常識のない)疑問を持つのでしょう。「研究者と」なんの形容詞もなく書けば慰安婦という歴史的事実に関する研究者以外ないでしょう。それは慰安婦に関して、日本政府や軍の資料、その他の歴史的文献、慰安所など物理的な物品、元慰安婦、元兵士などに取材し、それを検討し、結果を公開している人間でしょう。 あなたのあげた本は大学生相手の討論会を収録しただけです。その本で研究者と言えるのは秦郁彦と吉見義明だけでしょう。大沼保昭氏は戦争責任の研究者であっても慰安婦研究者ではありません。 さらに加えて、私は「ほとんど」と書いており、数少ないが引用されていることも承知しています。それがどのように引用されるかも知っていますよ。従って、私の記述には間違いはないでしょう。

黒潮さん あなたも研究書を読んだこく、研究者の評価でいう「引用」「参照」の意味がわかっていないようですね。あなたの例では相手を批判するために相手の本を引用して発言を明記したら、批判する相手を「肯定的に評価した」事になってしまいます。馬鹿馬鹿しい。また研究書ではこれは多くの場合おきません、なぜなら研究書で他人の説を批判してもそれ自体が研究成果とは見なされにくく、新規の発見を主張する著作(慰安婦研究では多くがこれですが)ではやりにくいからです。これは実際に研究書を読めばわかることです。 追加、「秦郁彦に反対する人の本だけあげてもわからん」と書いた人がいますが、簡単に言って秦郁彦に賛成している研究者はいません。これは研究書を読めばわかることです。従って「研究者は秦をほとんど参照しない」という記述はどこも間違っていません。Ranchtodinn 2007年9月21日 (金) 16:55 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

Ranchtodinnさんは誤解なさっているようですが、ウィキペディアは研究者の多数意見を紹介するところではありません。また、研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません。あまりにもWP:NPOVについて、Ranchtodinnさんは無知なのでもはや荒らしになっています。Ranchtodinnさんは特定の研究者と近い人なんでしょうか。研究者がNPOVであるとかいうのは共産主義や金日成主義の「研究」をみればわかるとおり、すでに否定されているのであり、そういう経験の上にたって、WP:NPOVが、成立していると思うんですけど、どうもRanchtodinnさんは研究者の特定の記述をつかって自身の意見を主張したいようですね。WP:NPOVの「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな。」という、簡単なことがわからないのであれば、しばらく編集をおやめになったほうがいいと思います。黒潮 2007年9月21日 (金) 17:44 (UTC)[返信]
「その本で研究者と言えるのは秦郁彦と吉見義明だけでしょう」。和田春樹すら無視するのですか?関連で一番安い資料をあげたのですが本当に読んでいるのでしょうかね?--Miwa.SS 2007年9月21日 (金) 22:00 (UTC)[返信]
単純論法の馬鹿げた議論にはあんまり関わりたくはないが、『簡単に言って秦郁彦に賛成している研究者はいません。これは研究書を読めばわかることです。従って「研究者は秦をほとんど参照しない」という記述はどこも間違っていません』ということだが、秦郁彦の「いかなる主張」に賛成している研究者はいないのか?例えば、慰安婦の構成では日本人が多いという秦の主張に賛成していないということなのか?さらに言えば、その「研究者」というのは誰をさしているのか?醜い争いだねえ。--異端審問官 2007年9月22日 (土) 16:12 (UTC)[返信]
「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」について。信頼できる情報源をよく読むこと。専門家と非専門家とは同一視できない。以下はその抜き書き。
編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません。学術的な主題についてはどんな分野でも、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度を持っています。例えば歴史では、アメリカン・ヒストリカル・レビュー (American Historical Review) 誌は毎年約 1,000 冊の書籍を査読しています。アメリカ歴史学会の史学文献に関する指針(1995年)では、歴史の全分野に関する27,000 冊の書籍と記事についての評価をまとめています。権威ある情報源を見つけるために、編集者はこのよう公表物を探し出して利用すべきです。権威ある情報源の間での不一致は記事中で示されるべきです。
以上から見て明らかなように、歴史学においては査読論文もしくはそれをまとめた研究書を参照して加筆する姿勢が正しい。中立に関する基本原則も、専門家と非専門家の意見を一緒くたにして設定するものではない。ホロコーストを見れば分かるように、ホロコースト否定派に同じだけのスペースを与えてはいえない。そもそも専門家の意見を書かない百科事典にどれほどの価値があるのだろう。さらに歴史学分野については特に言及している。
歴史の情報については他にも多くの情報源がありますが、権威はさまざまです。最近の傾向は、歴史的な事項に特化した百科事典が急増していることです。学者に記事執筆を依頼した専門家によって編集されており、品質を維持するためにそれぞれの記事がレビューされています。これらは、ウィキペディアのための権威があると考えられます。ブリタニカ百科事典やエンカルタのような総合百科事典は、専門家によって執筆されて参照先を含む署名入りの記事もあります。しかし署名のない記事はフリーランスの人によりひとまとめに書かれたものであり、注意が必要です。
ここで議論している人たちは、基本的なルールを見落としていると感じざるを得ない。異議があるというので有れば、Wikipedia:井戸端などで専門家と非専門家の意見をひとしなみに扱うべきか否か問うてみてはどうか。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 03:02 (UTC)--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 03:11 (UTC)[返信]
1.残念ながら、もっとも権威があるのが専門家のレビューではないのが、日本の北朝鮮や朝鮮問題の研究の現実です。それはごく最近まで、金正日主義研究が影響力をもっていたことからも明らかでしょう。
2.210.132.220.191さんのいっていることは「もっとも権威のある」の解釈で専門家の判断をするときに主観が入ることがわかっていません。この抜き書きも解釈についいて個人の編集者の判断のちがいを述べた上での記述です。つまり権威の判断は変わりうるのです。文章をよくお読みになってください。
3.また、残念ながら日本の現実は学問における「権威」を評価できるような学会を持っていない分野があるといわざるをえません。あなたは、そのことをよくわかっているはずです。210.132.220.191さんは金正日主義研究が客観性を維持しようとする学問だと思いますか?このように学問をおとしめてきたのは学者自身が行ってきたことですから、私はそのことの結果の責任を彼らに負わすべきだと思います。つまり、とても客観的ではない記述については評価しないということです。
編集者は一般にはStormfrontやアル・カイダ、イギリスのSocialist Workers Partyのように広く過激派として知られている政治団体を使うことは避けるべきです。こうした団体は、一次情報源、すなわち彼ら自身の情報源や独自の活動や視点の情報源としてしか使えませんし、そうした場合でも注意深く慎重でなければなりません。Wikipedia:信頼できる情報源より)
4.210.132.220.191さんは、この問題で、誰が権威だというのでしょうか?そして、あなたの権威の選択からみて、客観的にこの記事は妥当だと判断しているのでしょうか?その論理も不明です。
5.私がいっているのは、"「言及していない」=評価しない"では"ない"という当たり前の事実のみです。
よく、読み返されることをお勧めします。黒潮 2007年9月22日 (土) 04:06 (UTC)[返信]
1.非常に残念ながら、「権威があるのが専門家のレビューではないのが、日本の北朝鮮や朝鮮問題の研究の現実」というのは黒潮氏の個人的な見方に過ぎません。従ってWikipediaのルールを無視するような権威もありません。Wikipediaで加筆する限り、ルールに従い、専門家と非専門家を区別して書いてください。
2と3.「もっとも権威のある」はさきに示した信頼できる情報源の一語ですが、その選定についても「分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度」とすぐ後に書いています。加筆者の勝手な選定を認めていません。この場合、査読制度をもっている雑誌やそこに発表された論文をまとめたものを選べばよいのです。それでも不安だというので有れば、歴史学会には『史学雑誌 回顧と展望』など一年間の研究動向をまとめたものがあるので、それを参照するなどしておけばよいだけです。無論可能で有れば、中国や韓国の史学会の研究動向をまとめたものを使用できれば、なお良いことはいうまでもない。「残念ながら日本の現実は学問における「権威」を評価できるような学会を持っていない分野があるといわざるをえません」というコメントは単にあなたの一見解に過ぎない。個人ルールで、簡単にWikipediaのルールを破らないように。
決して北朝鮮を支持しているわけではないが、誰を過激派とみなすかは非常に主観的で容易に持ち出すべきものではない。上での発言は単なるレッテル張りに過ぎないと感じる。それと安易にあらしという言葉を使わないように。Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:個人攻撃はしないをよく読み直すべき。
4と5.何か勘違いしているようであるが、はじめに書いたように、あなたの「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」についてコメントを書いています。この記事との関連で言えば、ノートで論じるので有れば、専門家と非専門家を分けて論じるべきことを言っています。つまり査読雑誌に発表されていないものは、専門家と同格に扱うべきではないということです。それに個人的には、単なる引用しているかどうかは不毛なので、もっと限定して従軍慰安婦の招集・管理に国家が関与してはいないというのが秦説の最大の特徴なのだから、それに絞って賛意を示しているか否かについて加筆しないと、ただただ茫洋曖昧なものになると感じる。
総じて言えばWikipediaのルールをつまみ食いして都合の良いところだけを使うのでなく、全体をきっちり理解し、信頼できる情報源やマナー関連を何度も読み直すことをお勧めしたい。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 09:09 (UTC)[返信]
「慰安婦の招集・管理に国家が関与してはいないというのが秦説の最大の特徴」ということだが、この根拠を示されたい。要は出典ということ。--異端審問官 2007年9月22日 (土) 16:12 (UTC)[返信]
私がいっているのは、結局のところ、「"「言及していない」=評価しない"では"ない"という当たり前の事実のみです。」。あとは、あなたにおつきあいしただけです。ウィキペディアでは書く方に立証責任があります。具体的、学会、査読雑誌などを持ち出して、立証しておられるわけではないので、そもそもが、あなたのは反論になっていません。反論になっていないのに、なんでつきあったのかといえば、いわゆる疑似科学と同じ問題が、社会科学の領域でも存在し、それが放置されているという事実があることを指摘したかったからです。こういう馬鹿なことが続いている社会で、学会や研究者を名乗ること自体が、馬鹿にされる対象でもあることもある、専門家の判断がまともであるというのは、一般に承認されていることでもなく、ある集団を外部から見たときに批判されることもあり得るのだということをいったのみです。もちろん、そうじゃない立派な学会もいっぱいあるのは知っていますが、具体的に書かない限り、言説の証明にはなりません。おわかりですか?さらに、あなたは、「ルールに従い、専門家と非専門家を区別して書いてください」とかかれていますが、ウィキペディアは研究者を特別視するルールを持っていません。いまどき学会は誰でも作れます。そのようななかで、「権威ある情報源を見つけるために、編集者はこのよう公表物を探し出して利用すべき(Wikipedia:信頼できる情報源より)」なのであり、学会のレビューだからといってすべてが権威があるわけでもないのです。さらに、「権威ある情報源の間での不一致は記事中で示されるべきです。(Wikipedia:信頼できる情報源より)」と述べられているとおり、権威同士に矛盾があることも当然あります。さらにいえば、繰り返しますが、あなたは論争点についてわかっていません。具体的に述べているわけでもなく、かつ、引用が適切になされているわけでもない、記事について、よくわかりもせず、反対者を論難していることになります。もう一回、問題になっている記事をお読みください。そこに、「権威ある学会のレビュー」に基づいた記事があるでしょうか?ないですよね。そこにあるのは、ある一人の人のある論文における学者同士の参照の欠如の例示です。一般にそれはほとんど何も意味しません。黒潮 2007年9月22日 (土) 10:26 (UTC)[返信]
繰り返しますが、わたしの指摘はあなたの「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」というWikipediaにおける姿勢についてです。「専門家の判断がまともであるというのは、一般に承認されていることでもなく、ある集団を外部から見たときに批判されることもあり得るのだということをいったのみです」ということがありえても、それをWikipediaの一執筆者が勝手にルール超えて適用することはできません。適用する前にルールを変えるか、自己の考えを変えるしか有りません。「具体的」ということを繰り返していますが、具体的なあなたのコメントについて述べているのです。話をすり替えないように。
また「ウィキペディアは研究者を特別視するルールを持っていません」というのも牽強付会です。信頼できる情報源に「学者に記事執筆を依頼した専門家によって編集されており、品質を維持するためにそれぞれの記事がレビューされています。これらは、ウィキペディアのための権威があると考えられます」とあります。何度も引用しなくとも分かると思いますが。さらに都合良く解釈しているようですが、「権威ある情報源を見つけるために、編集者はこのよう公表物を探し出して利用すべき」とあるのでしょう。探せばよいだけでは。なぜ「学会のレビューだからといってすべてが権威があるわけでもない」という結論に飛躍するのでしょう。先に挙げた史学雑誌は明治から続く雑誌で、日本における歴史学では非常に権威があります。そこで取り上げられている研究から、秦説を採用している研究があるかどうか探るのに何ら問題ないと思いますが。あなたは歴史学における権威をごくごく個人的な主観で設定し、学会で認められているものを不当に排除しているに過ぎません。そして「権威ある情報源の間での不一致は記事中で示されるべきです」という箇所を引用していますが、引用句のとおり不一致というのは権威ある情報源の間に限定されるのです。その情報源とは査読誌や研究書を指すのです。手前勝手なマイルールを持ち出し、Wikipediaをかき乱すのはやめていただきたい。
ついでに、この記事そのものについてコメントがほしいらしいので、少し言わせてもらうと、あなたは9/21のMiwa.SS氏の加筆を消去しているけれど、あの箇所は復活させるべきと考える。
あと何度も推敲して版を重ねているようですが、プレヴュー機能を活用してください。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 11:29 (UTC)[返信]
1.まず、「「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」というWikipediaにおける姿勢についてです。」ですが。これについては、そのとおりなのです。不思議に思われのかもしれませんが、ウィキペディアでは研究者をジャーナリストなどの著作と比べてより尊重することはありません。あくまでも、その人物の信頼性に依拠するからです。ふつうに考えても、同一人物がジャーナリストをやめて大学につとめたらその信頼性があがるということはないのはわかりますよね。「自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者や、自己公表物を制作している著名な職業ジャーナリストの場合」は信頼できるというようにあくまで、記事の権威、信頼性は、個人の力量や学会の力量に比例するのであって、「研究者」という名前が与えるのではありません。
2.「ウィキペディアは研究者を特別視するルールを持っていません」これもそのとおりです。信頼できる情報源に「学者に記事執筆を依頼した専門家によって編集されており、品質を維持するためにそれぞれの記事がレビューされています。これらは、ウィキペディアのための権威があると考えられます」これは例示です。さらにいえば、「権威ある情報源を見つけるために、編集者はこのよう公表物を探し出して利用すべき」なのであって、どのようなレビューでも権威があるとはいっていないのはわかりますよね。
3.あなたは、「研究者の特権性」を主張したいみたいですが、研究者が権威を帯びるのはその言説によってであり、学会が権威を帯びるのもその言説の蓄積によってであるということを忘れないでください。忘れられる人間が増えれば増えるほど、研究者に属するものにとってははた迷惑になります。研究者も学会も歴史的に批判されているからこそ、信頼できるかどうかが決まるのです。
4.編集についてなんくせつける、あなたは、どうもIDもっているみたいですが、なぜつかわないのでしょうか?どうも、継続した議論を避けたいのでしょうか?あんまり、推奨される行為ではありません。再考してください。黒潮 2007年9月22日 (土) 11:46 (UTC)[返信]
やはり勘違いしているようですね。「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」とあなたは書いたのであって「研究者をジャーナリストよりも尊重することもありません」ではありません。何に書かれたのかということが重要なのです。その違いをよくよく再考することを勧めます。それにわたしは研究者で有れば何でも良いと言っているわけではありません。「どのようなレビューでも権威がある」とも言ってもいません。大学教授で有ればそれを即採用して良いはずがないでしょう。研究を発表しても全く学会では反応のない人もいます。何冊も本を書いていて印税は入ってくるんだけど、研究史整理でさっぱり名前が載らない人だっています。だから何度も言っているように『史学雑誌』のように第三者がまとめた研究を整理したものを参照しては、といっているのです。ここの記事を例にすれば、従軍慰安婦研究分野で取り上げられている研究の中に秦説(国家の関与は無かった)という部分を採用している研究があるのか/ないのかを調べ、解釈を交えず事実を書けばよいのではどうですか、と言っているのです。わたしは、あなたのように自分の主観だけでどれを情報源にするかどうかを言っているのではありません。Wikipediaの執筆者は匿名で、文責を十分取ることができません。ですから信頼できる情報源に絞る必要があるのです。あなたが研究者や査読雑誌を否定的に見ていることは十二分に分かりました。ですがそれをWikipediaに持ち込まないでください、といっているのです。さきのコメントで「研究者が権威を帯びるのはその言説によってであり、学会が権威を帯びるのもその言説の蓄積によってであるということを忘れないでください」と書いていますが、その権威というのは加筆する人間が主観で選ぶわけではありません。それとも『史学雑誌』は権威がない、あるいは足りないということを言外に言っているのですか。
また「なんくせ」ということばを使用していますが、何度言ってもマナーを守る気がないようですね。非常に遺憾です。あまり感心できる姿勢ではないですね。
そんなに「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」という意見に固執するのなら、前に述べたように井戸端ででも尋ねてみますか。加筆において査読論文・研究書とそれ以外の著作を同列に扱うことは是か非か、とでもタイトルつけて。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 12:36 (UTC)[返信]
「研究者を新聞や雑誌の記事よりも尊重することもありません」とあなたは書いたのであって「研究者をジャーナリストよりも尊重することもありません」とわたしはかきましたし、書いた内容が重要なのはその通りです。そのうえで、これはおなじことを書いているのです。WP:RSでは、雑誌の記事を査読論文より尊重するということはありません。あくまでも、その書いた人間や状況の比較です。それがわからないようでは話になりません。「研究者だから新聞や雑誌よりも信頼できるということはない」し、学会の雑誌だからといって信頼できるわけでもないというそのままの趣旨です。それ以外でもそれ以下でもありません。それから、繰り返しますが、記事は書く側が立証責任があるのです。それが欠けていることについて批判しているのであって、わたしはこの記事の該当部分で自分の立証をしているわけではありません。したがって、あなたの情報源についての記述についても本来的はずれです。わたしに書く義務などありません。史学雑誌を批判しているわけでもありません。学術系の学会雑誌にも信頼できないものが当然あるという当たり前のことを書いたにすぎません。非常に、論理のできないひとが史学系の学会にいるのかなとは思いますが、あなたの論理の変遷も「歴史学においては査読論文もしくはそれをまとめた研究書を参照して加筆する姿勢が正しい。」という、これから、「何に書かれたのかということが重要なのです。」に、変遷するもの見苦しい限りです。だいたい、この程度の匿名の議論でIDも出せないようでは、期待するべきではないのかもしれませんが。情けないですね。黒潮 2007年9月22日 (土) 13:52 (UTC)[返信]
本当にお話になりませんね。わたしが書いたのは「何に書かれたのかということが重要」と書いたのです。「何が」ではありません。よりはっきり言えば「査読誌に発表したものか否か」が重要なのです。前回のコメントでは内容に言及していません。内容が良いか/悪いかはWikipediaの参加者には判断することはできません。それは加筆者の意見を書くこと、あるいはそれに立って加筆編集することであって、ルールに抵触します。こんな短いコメントを読み誤らないでください。無論研究者その人の信用性云々も、単なる主観に過ぎないと申し上げています。「一般的には査読された公表物はもっとも信頼できると考えられ、権威づけられた専門家による公表物がそれに次ぎます。」(信頼できる情報源)とあるように、加筆者は査読研究に基づいて加筆するよう努力するべきです。そういう観点に立つことで、この項目の編集方針すべきでしょうと言っているのです。
それと「記事は書く側が立証責任があるのです」というコメントについてですが、わたしはこれからの編集方針において『史学雑誌』など、あるいは『史林』でもいいですが、そういう学会の中でも権威あるものが有意義だと挙げている研究に限定すれば百科事典の信頼性が高まりますよ、と述べているのです。あなた自身のこの項目における編集については、Miwa.SS氏の加筆を消去したことが賛成できないと述べているだけです。わたしの提案をすり替えないでください。いいですか、『史学雑誌』などで言及されている研究はそれなりに意義ある研究と見なすことができます。この中で触れられている研究だけにすれば、(秦の賛同者/批判者共に)慰安婦研究者以外がそれを書いているのですから、反対者だけの研究を挙げているとか、その逆とかはなく、ある程度の客観性が担保されるのです。
論旨に変化はありません。あなたが読みとれないだけです。本当にこの程度の量の文章も読みとれないとは、頭が痛い。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 14:36 (UTC)[返信]
ほんとうにくどいですね。だから、査読されている雑誌がすべて信頼されるわけではないと、さっきからいっているのです。『「査読誌に発表したものか否か」が重要なの』ではないのです。査読されていても信頼に足らない雑誌はあるという簡単な事実を述べているにすぎません。繰り返していいますが、金日成主義を研究している人たちの雑誌が存在し、それが査読されていたとして、それが金正日の行動についての資料になるかということです。朝鮮史に関して、特に、拉致問題に関しては、そもそもが、査読された雑誌で最初にこの問題が持ち出されたわけでもありません。また、朝鮮戦争でどちらが最初に攻撃したかについて、長い間議論が続いていたのもよく知られた事実です。このような状況だからこそ、査読されているという「形式」では信頼できない、分野になっているのです。これは、この分野の研究者の責任でもあり、また政治の直接の影響がある分野だったからでもありますが、学会の中立性信頼性が特に問題があると考えられる領域だからです。その現実をそのままいっているにすぎません。ほんとうにくどいですね。『査読されたいるかどうか』がこの領域では信頼につながらないという現実をそのまま描いているだけです。それから、あなたは前言を翻して、Miwa.SS氏の加筆を消去したことを問題にしましたが、これについても、査読された雑誌の一論文にふれられていないから重要でないなどという話には全くなりません。馬鹿でもわかります。テーマが重ならない部分について引用することを控えることもあれば、引用しないことが一つの政治性を表している場合もあります。多様な理由がある引用しないという事実を「重要でない」と結論づけるのは編集者の「意見」です。もっと現実をよく見ましょう。それからしか始まりません。黒潮 2007年9月22日 (土) 15:54 (UTC)[返信]

インデント戻します。読み違えた上で何を言い出すのやら。だからあなたが査読制度に疑問をもっていようと、それをWikipediaに持ち込むなといっているのです。やるのなら、Wikipediaのルール改定を発議し、変えてからしてくれと言っているのです。あなた個人が金日成にどういう思い入れをもっていても、関係有りません。その思いをみんなが正確に共有できるわけではありません。その研究が有用かどうかについて、マイルールを持ち出さないでいただきたい。
さらに先のコメントでは、査読雑誌に掲載されるときの調査だけで良しとしているのはありません。さらに付言して「それでも不安だというので有れば、歴史学会には『史学雑誌 回顧と展望』など一年間の研究動向をまとめたものがあるので、それを参照するなどしておけばよいだけです」と述べています。いいですか、私の言っていることでは二重にチェックしていることになるのですよ。しかもあなた自身は『史学雑誌 回顧と展望』について「史学雑誌を批判しているわけでもありません」と述べているのだから、それを参照することになんの障害もないのでしょう。
あなたに倣って、「具体的に」尋ねますが、あなたはこの記事において『史学雑誌 回顧と展望』や他の権威ある雑誌を活用することには反対なのですか。もし反対だとして、それは「査読されてい(る)雑誌がすべて信頼されるわけではない」からなのですか。それとも賛成なのでしょうか。
そして「あなたは前言を翻して、Miwa.SS氏の加筆を消去したことを問題にしましたが」という箇所について。ほんの少し前の経緯をもう忘れたのですか。さきにあなたがこの記事について「具体的に述べているわけでもなく」というから言及したのですよ。それまではあなたの執筆姿勢に限定していると繰り返し述べています。
さらにさらに。Miwa.SS氏の挙げた論文で足りないと言うので有れば、探してくればよいでしょう。それこそ上で述べたように『史学雑誌 回顧と展望』を複数年めくって。毎年執筆者がかわるので、同じ人間の偏向が毎年繰り返されることもないですし。そもそもWikipediaでは、そんなに簡単に消去することを推奨していません。

Wikipedia:中立的な観点 — もし偏った記述を投稿した人が今後その記述を変更することがないだろうと考えられるのであれば、その記述を本文からは消してノートのページにコピーするという方法をとってきました。(ですが、完全に削除するという方法はとりません。)しかし、この方法は、多かれ少なかれ最後の手段として用いられるべきであって、決して、偏った記述をした人への罰のように行われるべきではありません。

はっきり言いますが、あなたのその安易な削除姿勢が編集合戦をもたらした要因の一つと考えます。決して他の方だけの問題ではありません。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 16:39 (UTC)[返信]

いいですか?もう一回いますよ。ウィキペディアでは査読された雑誌がすべて信頼できるという、表現をしていません。一般的に、例示されているだけです。ですから、査読雑誌だからといって、形式的にそうじゃない出版物より上であるという態度をとっているわけではありません。これは私のいっていることと矛盾しません。わたしは、査読されている雑誌のなかに信頼できないものもあるという事実をいっているにすぎません。さらに具体的な史学雑誌のどの部分が信頼できるか出来ないかなどという話もしていません。ようするに、単に、「参照されていない」という事実から、「重要でない」と結論づけるのは論理の飛躍であると述べているにすぎません。もう一回繰り返しますよ。
1.査読されてる雑誌であるから、そうでない雑誌よりも「いつも」信頼できるという断定をウィキペディアしていない。
2.ある「参照されていない」という事実から、「重要でない」という結論を得るのは無理である。
ということをいっているのです。具体的なある査読制度について疑問を持っているわけでもないのです。史学雑誌がどうのこうのといっておられるようですが、そんなことは全くいっていません。どうしようもない嘘がばらまかれた査読雑誌が日本には過去存在していたことを前提にはなしているだけです。さらに、削除するなということですが、そもそも、重要でないという結論が否定されるのになぜ、その理由付けをのこすのかがわかりません。あなたが実証するならまだしも、自分がやらないことについて人にやれというのは頭がおかしいとしか思えません。ウィキペディアは記述する側に立証責任があるのであり、それがみたされない場合は消去は当然されます。このケースでは重要でないというのは無理があると私は、指摘しています。それをなんとかできるとあなたが思っているなら、「自分でやりなさい。」この二つについてきちんと反論してください。あなたのは反論にもなっていないし、ウィキペディアの方針も理解していません。黒潮 2007年9月22日 (土) 17:08 (UTC)[返信]

<保護になった経緯です>やれやれ、ほとんど知識もない人間のrevert行為のため保護になってしまいましたね。なぜ保護になったかまとめておきましょう。現状の本文から削除されたのは以下です。

従軍慰安婦に関する秦の説はその他の研究者からほとんど参照されておらず、内容が参考にすべきものと評価されているとは言い難い。(例えば朱徳蘭はその台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない)

  • ①これを挿入したのはranchtodinnであり、削除したのは黒潮Miwa.SSです。
  • ②この記述は、参照できる出典をともなった具体的なもので、POVではありません。そもそも本文が「肯定」「否定」に別れているので、秦を否定すること自体POVではないでしょう。
  • ③この記述の意味は、秦郁彦の慰安婦に関する研究、即ち「慰安婦と戦場の性」が専門家には相手にされていない事です。研究者を評価する指標の一つに、他の研究者の論文から参照されている回数があり、それを使いました。秦郁彦は「慰安婦と戦場の性」以外慰安婦関係での研究はなく、かつその本は研究者には「ほとんど」参照されていません。これは私が多くの研究書を読んだので確かです。
  • ④上記を参照できる出典を伴って示したのが、(例えば朱徳蘭はその台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。)です。この本では、慰安婦研究書の振り返りを行っており、主な研究書を16冊あげていますが、そこには秦の本はなく無視されています。朱徳蘭があげている本は、

1倉橋正直、従軍慰安婦問題の歴史的研究 2川田文子、戦争と性 3吉見義明、従軍慰安婦 4吉見義明・林博史、共同研究・日本軍慰安婦 5ジョージ・ヒックス、性の奴隷従軍慰安婦 6金冨子・梁澄子他、もっと知りたい「慰安婦」問題 7鈴木裕子、「慰安婦」問題と戦後責任 8荒井信一、西野瑠美子・前田朗、従軍慰安婦と歴史認識 9鈴木裕子、戦争責任とジェンダー 10前田朗、戦争犯罪と人権 11日本戦争責任センター編、シンポジウム ナショナリズムと「慰安婦」問題 12蘇智良、慰安婦研究 13蘇智良・栄維木・陳麗菲編、滔天罪藝二戦時期的日軍”慰安婦”制度 14VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態1-朝鮮・台湾・日本編 15VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態2-中国・東南アジア・太平洋編 16尹明淑、日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 「慰安所:ノート」にある文献リストを見るとわかるように、これは実際には慰安婦研究書の大部分です。

  • ⑤秦郁彦と反対する立場の人の本だからでは?という疑問を持つ人がいるようですが、研究書を読めば判るように慰安婦研究者で「慰安婦は志願だ、日本人が多い」と主張する人は秦以外いません。従って、「全ての慰安婦研究者から秦郁彦は無視されている」と言って良いでしょう。
  • ⑥大沼保昭の本などをあげて秦が参照されているという人がいますが、大沼保昭は慰安婦賠償には関わっていますが自身は戦争責任が専門で慰安婦研究はしていません。又、大沼保昭はその著書(「慰安婦」問題とは何だったのか)で、事実関係についてははっきり秦郁彦の主張を否定しています。
  • ⑦日本では西岡力など秦郁彦を引用し、慰安婦を主題とした本を書いている人がいますが、彼ら歴史修正主義者で慰安婦研究者と言える人は、秦郁彦以外いません。従って秦の本は他の研究者からほぼ無視されていると言えます。
  • 黒潮Miwa.SSらが研究書をまったく読んでいないのは明らかです。十分情報を持っている人間の執筆をこうした知識のない人が削除するのは、ウイキペデアの質を低下させる行為で、それはウイキペデアの定義からすれば黒潮Miwa.SSの行為は荒らしに近いと思います。またこうした削除を容認し、保護をかける管理者の認識も怪しいものです。
  • ⑨まったく知らない人は、メインの慰安婦研究書はどれでそこでの秦の扱いはどうなのか?という疑問がわくのかもしれません。私見ではメインの研究書は吉見義明の「従軍慰安婦」、VAWW-NETジャパン他の「『慰安婦』戦時性暴力の実態1&2」、石田米子・内田知行の「黄土の村の性暴力」、尹明淑の「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」でしょう。これらでの秦の扱いは無視に近い。博士論文であり査読された論文である尹明淑の「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」では、秦の本は本格的な研究が始まる前の状況を描写した本として引用されています。
  • ⑩『史学雑誌 回顧と展望』の活用を提案している方がいますが提案した人がやるべきでしょう。また前述のように、慰安婦研究で研究者が2派に別れているような状況はなく、単に秦が1冊へんな本を書いただけなので、そうした学会全体のレビューではまったく触れられずはっきりしないでしょう。
  • ⑪通常新聞は例えば新規の歴史的文書(日本軍の命令書など)が発見されてもその意味は自分では断定せず、研究者の言葉を伝える形で「意味」を伝えます。従って研究者とジャーナリズムを同列に論ずるのは慰安婦研究の場合、論外です。読売新聞が秦と同様な内容を大々的に解説記事として書いていますがその根拠(文書・証言など)はありません。なぜか慰安婦に関してはこうした異常自体がおきていますね。
  • ⑫保護されると1年くらいは解除されないようですね、1年後に覚えていればまた直しますが、私でなくても私の上記の記述に同意された他の方が、執筆してくれるとありがたいですね。Ranchtodinn 2007年9月22日 (土) 16:36 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]
  • Ranchtodinnさんは、そもそも論理がわかっていないので論外なのですが。仕方ないので繰り返します。『ある研究者の特定の論文で参照されいないことから、「重要でない」と結論付けるのは無理です。』おわかりにならないようですが。また、「歴史修正主義者で慰安婦研究者と言える人は、秦郁彦以外いません」と書かれた時点で、すでに学会がある種の政治イデオロギーで支配されているとRanchtodinnさんは見ているようですが、学会はそういう場所では本来ないのです。歴史はもちろん事実か基準に成らなければならない場所です。あるべき事実をつくるのではなく、過去どうだったかが問題にされなければなりません。また、「⑥大沼保昭の本などをあげて秦が参照されているという人がいますが」と書いていますが、Ranchtodinnさんは、参照するかどうかについてもことばを一義的に使っていないことがわかります。はっきりいって、論理性が全く成立していません。言葉の定義を一つの論旨のなかで変えてしまうのは、最悪です。この場合、参照していることになってしまいますから、結論は反対していうなどということで問題は治癒されません。総じて、Ranchtodinnさんのような方が学会の関係者であるなら、その学会は中立性客観性に問題があると見なさざるを得ません。まあ、どちらにしろ、Ranchtodinnさんの行動はかなり、参考になりますが。黒潮 2007年9月22日 (土) 17:22 (UTC)[返信]
異端審問官氏へ。慰安婦問題について秦氏自身が「慰安婦問題の最大争点は韓国挺対協と挺身隊研究会による第一次報告書の監修者だった鄭鐘星女子が指摘するように、彼女たちの「動員」に際し、官憲による組織的な強制連行があったか無かったかであった」(『慰安婦と戦場の性』)で書いていますが、その最大争点について、現在では無かったという立場を秦氏が取っているためです。ところであなたは何が秦説の最大特徴だと思っているのですか。お聞かせください。あと、コメントを途中に挿入するのは遠慮してもらえませんか、時系列がわかりにくくて、あなたのコメントを見落としてました。
黒潮氏へ。何度でも繰り返しますが、
編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません。学術的な主題についてはどんな分野でも、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度を持っています。
情報源は、専門分野外よりも専門分野内の方がより信頼できます
とあるように、査読誌以外のものを優先するべきとも書いていません。「査読雑誌だからといって、形式的にそうじゃない出版物より上であるという態度をとっているわけではありません」というのは全く理解していないと言うしか有りません。Wikipediaでは明らかに査読誌を優先させるべきだと言っています。学術関係以外ではなかなか査読誌を参照することは難しいでしょう。しかし歴史学には査読誌が複数有ります。さらにそれについて有望なものをピックアップして論じるものもある。それを活用することこそが百科事典としての価値を高めるのです。査読雑誌に信頼できないものが、仮にあったとしても、査読誌以外のものをより根底的に利用することを示唆するものでは決してありません。「編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません」とルールにあるように複数の査読誌を活用すればよいのです。ある査読誌が信用できるか否かは、あなたの主観に過ぎないのであって、それでWikipediaのルールを逸脱する理由にはなり得ません。反論してないと感じるのは、あなたがマイルールに固執するからに他なりません。
それとわたしは「従軍慰安婦研究分野で取り上げられている研究の中に秦説(国家の関与は無かった)という部分を採用している研究があるのか/ないのかを調べ、解釈を交えず事実を書けばよいのではどうですか」と提案したのであって「重要でない」と書け、とかそこまで具体的な言及は一度もしていません。それはノートで話し合えばよい。従軍慰安婦研究において、重要とされる研究を挙げ、それに秦説がどう使われているか、参照しているのならそう書き、そうでないならその書名・論文名をあげればよいのです。
さらに質問に答えていないのは、そちらです。再度聞きますが、この記事において『史学雑誌』等の歴史学で権威ある認められる査読雑誌を活用することに反対なのですか。
最後に「Ranchtodinnさんのような方が学会の関係者であるなら、その学会は中立性客観性に問題があると見なさざるを得ません」と書かれていますが、そういう推測に基づいた個人攻撃は控えてください。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 18:00 (UTC)[返信]
210.132.220.191さん。あなたは、「編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません。学術的な主題についてはどんな分野でも、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度を持っています。」と何回も引用していますが、これは、一般論としてのべられてているのだって、特定の領域、特定の学問ですべて成立するという断定をしているわけではありません。何回もいいますが、朝鮮史では、朝鮮戦争の開始側が南北どちらかであったかについて激しい論争があり、以前はむしろ南側が侵攻したというのが有力でした。また、金日成主義の研究をする学会が現実に存在していました。そうしたなかでどれが妥当か権威があるかというのを編集者が選択するべきだということを述べているのです。形式的に学会側がいつでも妥当であるなどということは事実として無かったのです。その現実をもとに、私たちは判断する必要があります。それから、あなたは、まだ、ある論文でふれられていないからといって、それが、重要でないという判断を妥当だという証明をしていません。撤回されたのでしょうか?それならそれではっきりと宣言されることを求めます。黒潮 2007年9月22日 (土) 18:12 (UTC)[返信]
いいですか、ルールというのは特に断りがなければ、ある特定なものに限定されるものではなく、全てに適用されるのです。「歴史についての調査は」とあれば、歴史学分野を特に対象にしていることになりますが。そしてどれが特定かどうかなど、そもそも一加筆者が決定するものでもありません。そんな権限は管理者の方々といえど、そうそう決められないでしょう。決めようとしても合議して長時間かかるでしょう。学術分野と非学術分野におけるWikipedia:検証可能性を分けていないことからもそれは明らかです。金日成主義の研究をする学会が現実に存在してそれを忌避しようと、あなたと同じ価値観を他の人が共有しているわけではありません。他の人はもしかしたら反歴史修正主義の立場から典拠を持ち出すことだって十分あり得ます。どちらが権威があるか、信頼できるかなどは、それだけでは主観に依るのであって、水掛け論に陥るのが関の山です。その結果が記事のリバート合戦の上での保護という顛末です。だからこそ信頼を勝ち得ている情報源を複数つきあわせることによって、明確に言えば査読制度をもっている雑誌や研究書をもって基準とするのです。よいですか、『史学雑誌』などの研究史論文などを活用すれば、そういう主観的な争いを避けることができるのです。確認していないが、もし吉見氏などが執筆者でしたら、その年の『史学雑誌』を採用するのを見送っても良いですよ、わたしは。他の人はどうか知りませんが。
これも繰り返しですが、「ある論文でふれられていないからといって、それが、重要でないという判断を妥当だ」と言っているわけでありません。よく読み直すように。わたしが言っているのは、まず慰安婦研究で重要なものを査読誌における引用の多さから特定する、それで不安であるのなら『史学雑誌-回顧と展望-』等を活用し特定すればよいといっているのです。秦氏の『慰安婦と戦場の性』は1999年刊行なので、2000年以降のものを参照すればよいだけです。撤回も何もありません。勝手に誤読しないで頂きたい。加筆されたものを安易に削除するのでなく、生かすべく編集するよう願います。
それとあなたの編集を見ていて思ったのですが、9/20の「従軍慰安婦などに関する秦の説を真っ向から否定する論はあまり無いが、方法論的な疑義を示す論者は存在する」という風に戻していますが、どういう典拠があるのですか。最初に書かれたのがあなたではないにしても、同意して戻したのですから典拠を知っているんですよね。特に「真っ向から否定する論はあまり無い」という箇所に興味があります。何か統計的なものを見たのですか。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 18:44 (UTC)[返信]
いいですか?これはルールではなく例示です。そこをあなたは誤解してます。朝鮮史では、大失敗した過去があり、また現在もおかしな学会が存続している分野です。WP:RSは、学会には相対的に権威がある雑誌があるといってるだけで、すべての査読誌が権威があるなどとはいっていません。わたしは、それをいってるだけです。また、証明責任は書く側にあり、それが不十分なら削除されます。証明するなら「あなたがしなさい」。繰り返しになりますがしょうがないですね。理解力がない人にはわかるまで書くしかありません。黒潮 2007年9月22日 (土) 18:55 (UTC)[返信]
何をおっしゃるやら。方針を例示と置き換えても意味ありません。「四つ角に行き当たったら、右折してください」という例示がもし有れば、それに従うよう求められているのです。直進とか左折して良いと言うことにはなりません。どういおうと、自分勝手に例外を設け、それを他者に強いることはできません。
それとこちらの質問には一向に答えませんね。その部分について対話拒否されているのですかね。仮にあなたの言うとおり、前の版で不備があっても、それ以前の版にも不備があるので有れば、それも修正すべきなのでは。それを修正しないということは、何らかの典拠を知っていると言うことになります。出し惜しみせず「真っ向から否定する論はあまり無い」という箇所を修正しなかった根拠を教えてほしいですね。『史学雑誌』活用の件もよろしく。
まぁ、噛んで含めるように言わないといけない人もいることを知っていますので、何度でも繰り返しますかね。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 19:10 (UTC)[返信]
「一般には」という言葉をルールと読み替える弱い頭では理解できないのかもしれませんね。残念です。ルールとはそんなものではありません。
それから、また話をづらしてますね。前の版にある不備を指摘してリバートしたら、あとの版について立証しなければならないという義務などありません。それはあなたが修正したときに私が、やるかやらないかを決めることです。理由付けが欠けると思われるなら修正すればよろしいでしょう。いずれにしろ、この版について、私は証明が出来ていないので削除しました。それにつて、証明が足りないことをあなたは受け入れているようですが、わたしには、証明する義務などありません。もし立証が可能だと思われるんであれば、あなたがおやりになってください。私は不可能だと思いますが。それでは、よろしく。黒潮 2007年9月22日 (土) 19:18 (UTC)[返信]
はぁ、「何に書かれたのかということが重要」というのを「何が書かれたのかということが重要」と読み誤ったり、マイルールを脳内変換して導き出したりされるようでは、ご理解いただくのは無理かもしれませんね。ずらしてないことをずらした主張するあたりもどうかと。修正しないと言うことは、それが妥当であるという判断を含みます。それが妥当でないのを知りつつ修正しないので有れば、それはダブルスタンダードに他なりません。この件からも分かりますが、あなたはルールよりもご自分の主観を優先して編集する傾向があります。にもかかわらずノートで人様を「あらしと見ざるを得ません」と書いてみたり、どういえばよいのやら。それでさきの「真っ向から否定する論はあまり無い」という箇所は妥当だと思っているんですか、いないんですか。『史学雑誌』を活用するのはどうなんですか。あなたが「具体的」な言及がお好きらしいから、申し上げているのに答えられませんね。こちらは、ずらしとかいうより対話拒否と言いたいのですが。--210.132.220.191 2007年9月22日 (土) 19:40 (UTC)[返信]
くりかえしますが。「一般には」という言葉を「ルール」と読み替える弱い頭では理解できないのかもしれませんね。残念です。ルールとはそんなものではありません。そして、ウィキペディアでは査読雑誌が「すべて」まともであるなどという断定をしていません。「一般」と、「特殊」という言葉を辞書で引いてください。
それから、また話をづらしてますね。前の版にある不備を指摘してリバートしたら、あとの版について立証しなければならないという義務などありません。それはあなたが修正したときに私が、やるかやらないかを決めることです。理由付けが欠けると思われるなら修正すればよろしいでしょう。そもそも、公知の事実と立証を必要とする事実のさかい目がどこにあるかなど、社会的にしか決まりません。あなたがそれが欠けていると思うならそれを指摘すればいいことです。ここは幼稚園ですか?
いずれにしろ、この版について、私は証明が出来ていないので削除しました。それについて、証明が足りないことをあなたは受け入れているようですが、わたしには、証明する義務などありません。もし立証が可能だと思われるんであれば、あなたが「『史学雑誌』」等をつかって、自由におやりになればいいでしょう。(CMですか?)記事を書くことを人に命令する資格はあなたには(誰にも)ありません。ウィキペディアは自由意志でやっているものです。
見苦しいですよ。黒潮 2007年9月23日 (日) 04:59 (UTC)[返信]
意味が通じていないようなので、再度問いたいが、「慰安婦の招集・管理に国家が関与してはいないというのが秦説の最大の特徴」ということだが、この根拠を示されたい。「慰安婦の招集・管理」というのはどういう意味で使っているのかよく分からないので、正確に回答して頂きたい。--異端審問官 2007年9月23日 (日) 08:21 (UTC)[返信]
黒潮氏へ。本当に同語反復ですねぇ。何の説明にもなっていない。だから特殊を誰がどういう資格でどのように設定できるのですか。あなたのいう北朝鮮がどうのこうのというのを理由に、手前勝手に特殊化することなどできるわけないでしょう。「公知の事実と立証を必要とする事実のさかい目がどこにあるかなど、社会的にしか決まりません」といっている時点で、検証可能性を理解していませんね。参加者にはいろんな人がいる。専門的な人もいれば、そうでない人もいますし、様々な立場の人がいるでしょう。しかし本名で活動しているのはない以上、文責を完全に果たすことは出来ません。加筆者の判断が正しいかどうかの判断は難しい。それでより専門知識をもった人が下した判断、ここでは査読誌に優先的地位を与え担保にしようというのがWikipediaで決められたことです。しかしあなたは査読誌にも偏向があるといわれる。だったら他の権威ある査読誌でカバーしましょうと述べているのです。査読雑誌に権威を認め、尊重するというのは、Wikipediaでは広く見られますし、査読誌とそうでないものを一緒くたに加筆することは信用性を貶めます。信頼できる情報源を幾度も繰り返し読むことを推奨します。
ずらしていると感じるのは、こちらなんですけどね。たとえば前の版に戻そうとして、それにも不備を見つけた場合、さらに戻るか、加筆して修正するのがふつうです。前の版になにも修正を加えていないので有れば、それに妥当性を認めていると見なされます。リバートという行為に説明を求めた場合、消去した加筆の妥当性の有無とともに、なぜ前の版が妥当かということの説明も必要です。大抵は検証可能性を満たしているから、というのが理由ですが、今回の場合、それに疑問があるので、こうして根拠を伺っているのです。それを「証明する義務などありません」などと逃げ口上を言うのは、対話拒否以外考えられませんね。今回あなたを含む人のリバート合戦が基で保護になったのに、無責任極まりない。編集に対し尋ねられたらちゃんと答えるのが、マナーですし、義務でもあります。自由意志だから答えなくていい、て、それこそ「ここは幼稚園ですか」と言いたい気分です。
それで再度伺いますが、あなたが戻した「真っ向から否定する論はあまり無い」というのは妥当だと思っているのですか、そうじゃないんですか。言っておきますが、こうしてある編集についてノートで尋ねることは、新たな編集合戦を防ぐために推奨されていることなのですよ。あいも変わらず、こちらの質問にきちんと答えないし、どちらが「見苦しい」ですかね。とりあえず、先のコメントを見る限り『史学雑誌』を活用して、従軍慰安婦の重要研究と目されるものをピックアップし、それに挙げられた査読論文に秦説が採用されているかどうか、の事実を書いてもかまわないのですね。
後ね、もう一度言いますが、プレヴュー機能を使って推敲してから投稿して下さい。短い文章しか書いてないんだから。少々の誤字脱字の揚げ足を取ったりしませんよ。ここまでで、私が11回のコメントに対し、41回もしています。明らかに推敲不足です。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすとうルールを知らないわけじゃないんでしょう。
それと余談ながら、『史学雑誌』は確かに会員費を取りますが、CMの必要などありません。それぐらいの権威や著名性は有しています。
異端審問官氏へ。「招集」というのは、従軍慰安婦を「慰安婦狩り」とか人さらいのように強制的に集めること、あるいは募集を指します。すなわち「狭義の強制連行」と言われるものです。「管理」とは慰安所における慰安婦の管理を指します。これら「招集」・「管理」についてどの程度国や軍が関与していたかというのが問題となっているのは分かりますね。「招集」でいえば強制的なものだったのか、単に募集だったのか、あるいは募集だったとしても虚偽広告で集めたのか、色々説がありますが、秦氏は「従軍慰安婦たちの春秋」下(1992)において、民間業者が集めてくる以上強制連行ではなかったと述べています。「管理」については、やはり同文で「輸送関係を除くと業者との非公式な談合にゆだねていた」と述べ、さらにドイツ軍に比べると関与は低いと言っています。つまり国や軍の関与を低く見ています。
ところで何か別に特徴があると言われたいのですか。もしそうでしたら根拠と共に、こちらの質問にも答えてほしいんですが。--210.132.220.191 2007年9月23日 (日) 09:52 (UTC)[返信]
すみません。もうこれで210.132.220.191さんに対して何回おなじことをいったかわからないのですが。そろそろ馬鹿の壁というしかないのかなあ。査読雑誌が「一般」的に信頼できるということと、「特殊」な信頼できない査読雑誌が存在するということは全然矛盾しません。
あと、わたしが削除した記述以外について問題があるとあなたが思うならあなたがそれを妥当だと思うように改変すればいいでしょう。わたしがそれをどうしようとあなたに関係はありません。あなたが、私にとって他者であり、私にとって「公知の事実」だとおもうことがあなたには違うというならそれはわたしにはわからないからです。わかります?
とにかく、私は論理的に論証になってないから削除したので、あなたが積極的に論証できるというならやってください。ただし、論証が可能だとはとても思えませんが。他人に行動を求める権限はあなたにも誰にもありません。がんばってください。黒潮 2007年9月23日 (日) 18:59 (UTC)[返信]
横槍失礼します。質問ですが。普通、学術的に査読雑誌は信頼できるものとされます。『「特殊」な信頼できない査読雑誌が存在する』かもしれませんが、その査読雑誌が信頼できないというのは「どこの誰が」言っているのですか?らりた 2007年9月25日 (火) 13:33 (UTC)[返信]
「一般」に査読雑誌が信頼できるということをWP:RSが、述べているということと、「特殊」な信頼できない査読雑誌が存在するという主張は矛盾しないというだけの話です。横やりをいれるなら最初からきちん読んでください。黒潮 2007年9月25日 (火) 16:13 (UTC)[返信]
>「特殊」な信頼できない査読雑誌が存在するという主張は矛盾しない
という命題がまあ是としても、ここで挙げられた朱徳蘭氏の研究史のまとめが信頼できないという命題とはまるで関係がありません。「専門家の中にもトンデモな人がいる」「だから専門家○○は信頼できない」などという論理が通用しないことは明らかでしょう。
つまりその朱徳蘭氏の慰安婦問題に関する研究史のまとめが「信頼できない」とする黒潮さんの主張は何にも基づいていない個人的意見に過ぎません。それを「個人的意見」ではないと主張なさるならどなたかが文責を持った文章を出典として挙げて下さい。らりた 2007年9月26日 (水) 11:35 (UTC)[返信]

らりたさん。この二つの話は別の話です。そして両方とも真です。

1.査読されてる雑誌であるから、そうでない雑誌よりも「いつも」信頼できるという断定をウィキペディアしていない。
2.ある論文で「参照されていない」という事実から、「重要でない」という結論を得るのは無理である。

2.のコロラリーである「朱徳蘭さんの論文で参照していないという事実から重要でないという結論は導き出せない」というのは1.と独立した結論です。もう一回、最初から読み直してください。無茶苦茶です。おなじことを何回もいわせないでください。黒潮 2007年9月26日 (水) 13:00 (UTC)[返信]

確かに誤読をしていたようで、その点お詫びします。しかしそうすると「査読されてる雑誌であるから、そうでない雑誌よりも『いつも』信頼できるという断定をウィキペディアしていない」という文言は「何の意味も無い」としか言い様がありません。それをは是としても、だから朝鮮史の学界が云々などというのとは何ら結びつかないのは変わっていません。
とりあえず朱徳蘭氏が重要とは看做していないというのは事実ですからそれを書いておいてはいかがでしょうか。また210.132.220.191さんのおっしゃるように「回顧と展望」を参照するのが一番手っ取り早いと思います。「回顧と展望」はその論文が注目に値するかどうかということを判断する目安として日本で最も信頼が置かれているものと言えます。
また「真っ向から否定する論はあまり無い」ということに付いて黒潮さんは責任を持たないということなので、でしたら削除して構わないということですね。ウィキペディアでは典拠の無い文章は削除されても文句は言えません。らりた 2007年9月26日 (水) 13:25 (UTC)[返信]
この領域がひどい捏造がまかり通っていた領域であるということは、この議論の背景にはすごく重要です。ただし結論とは関係がありませんが。上に書いたとおり拉致を暴いたのも査読雑誌ではありませんし、それどころか、むしろ、韓国が朝鮮戦争を始めたとする間違った議論が長い間有力だった領域だからこそ、「例外」が重要だということです。
それから、もう何回もふれていますが、「朱徳蘭氏が重要とは看做していないというのは事実」ではありません。ある論文で参照されていないから重要でないという結論は出ません。これは論文を書いたり読んだりしたことがあるなら当たり前のことです。そう書いているなら引用すればいいだけの話です。参照していないから「重要でない」と結論づけるのは独自の研究WP:ORです。
また、「真っ向から否定する論はあまり無い」というのを根拠無く削除したら、反対するでしょうね。これは否定するのは簡単ですから。つまり、真っ向から結論を否定する論文を出せばいいからです。秦の結論では、日本政府による慰安婦強制連行=慰安婦の動員はなかったというのが最も重要な結論ですから、それについて、真っ向から否定する論文や論者を持ってくればいいだけです。
黒潮 2007年9月26日 (水) 18:50 (UTC)[返信]
ダブルスタンダード以外の何者でもない。論外。「真っ向から否定する論はあまり無い」を削除するのに、検証可能性を提示できない人間が「真っ向から結論を否定する論文を出せばいい」というのはもう話にならない。典拠は加筆・あるいは当該箇所を残そうとする人間にこそ提出義務がある。自分で何度も上で言っているのに、何を言うやら。この点もダブルスタンダードだが、それを言うならRanchtodinnさんの意見「「朱徳蘭さんの論文で参照していないという事実から重要でない」に対しても、重要だという論文を挙げればよいのでは?。Ranchtodinnさんの加筆に対しては、論証せずにリバートしながら、「真っ向から否定する論はあまり無い」の削除に関しては、人に典拠提示を求めるのもダブルスタンダード。自分の都合のいいようにルールを解釈しているとしか言いようがない。
そもそもMiwa.SSさんが9/21に「真っ向から否定する論はあまり無い」を修正して加筆された「従軍慰安婦に関する秦の研究内容を参考にすべきものとは評価しない研究者もいる。例えば朱徳蘭はその台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない」というのは事実をそのまま書いているだけであって、何ら削除されるような筋合いでもない。何か事実認定に誤りが有るとでもいうのかな。210.132.220.191改め--218.41.212.194 2007年9月27日 (木) 11:55 (UTC)[返信]
「この領域がひどい捏造がまかり通っていた領域であるということ」に付いて言及しているどなたかが文責を負った文章を提示してください。でなければ個人的意見の範疇を出ません。
>ある論文で参照されていないから重要でないという結論は出ません。これは論文を書いたり読んだりしたことがあるなら当たり前のことです
これはまるっきり逆です。論文が「他の研究者にどれだけ引用されているか」は論文の価値・重要性を図る最も大きなバロメーターです。それこそ「これは論文を書いたり読んだりしたことがあるなら当たり前のことです」が。CiNiiで「被引用文献」という情報を示していることからもそれは明らかです。
論文を書くに当たり、先行研究を逐一調べ、その執筆者が纏めた簡単な研究史を提示しているのが一般的です(提示していない論文もたくさんありますがね)。そしてそこに名前が挙げられないということはその執筆者が取り上げる価値を認めなかったからに他なりません。
>根拠無く削除したら、反対するでしょうね
出展を示す義務は「記述を削除しようとする側」ではなく「記述を残そうとする側」にあります。あなたがその記述を残したいと思うなら出典を示す義務があります。そして出典が示されないならば削除されても文句は言えません。その際、削除する側に出展を示す義務はありません。
最後になりましたが、「1999年の歴史学界-回顧と展望-」には秦郁彦氏の本は挙がっていなかったということを報告しておきます。私が見逃した可能性ももちろんありますが。らりた 2007年9月27日 (木) 12:03 (UTC)[返信]
らりたさん。話を広げるつもりはありませんが一つだけいっておくと、「真っ向から否定する論理はあまり無い」を削除するには、「真っ向から否定する論理」を複数、あげるのが、反証です。これにたいして、重要ではないの理由付けには「ある」論文で参照されていないことは反証ではありません。このちがいわかります?後者は、一種の虱潰しに近い要請があります。
史学雑誌というある雑誌で参照されていないことは、秦の「国家による慰安婦強制連行の否定」という大きな論点について史学雑誌がカバーしていないこと、つまり史学雑誌のバイアスを示しているとは思いますが、この点についての論点を正面からあげて論じている議論が欠けていることは、この問題が重要でないということにはなりません。慰安婦のいわゆる「広義の」強制の論点とつながる論点にしぼるのは、慰安婦強制連行がないという前提の元に問題になるからです。秦の結論を背景にしていながら、それを重要でないということは無理です。黒潮 2007年9月28日 (金) 08:38 (UTC)[返信]
らりたさんのご意見に全く同意。というかWikipediaのルールを正しく理解していれば、それ以外の意見はありえんと思うけれども。同意を表明するだけでは芸がないので、調査報告をば。『史学雑誌-回顧と展望-』2000年以降のものにおいて、特に言及されている従軍慰安婦研究は以下の通り。
2001
  • VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録』全五巻
  • 「特集 中国上海・南京の日本軍慰安所」(『季刊戦争責任研究』27)
2004
  • 尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店)
2006
  • 早川紀代編『植民地と戦争責任』(吉川弘文館)
    • 特に所収の藤永壮「植民地公娼制度と日本軍‘慰安婦’制度」、樋口雄一ほか「総力戦体制と植民地」に触れる。
以上のように、Ranchtodinnさんの挙げたものも含まれている。最も秦さんの著作が1999年刊行なので、2000年以前は調査対象としていないだけで、Ranchtodinnさんの挙げたもののうち『史学雑誌』が触れていないものでも、従軍慰安婦研究においてそれらが重要視されていることには、個人的に異論はない。が、2000年以降で査読誌で特に注目に値するとされたのは、上の諸研究となる。まぁ、信用できないとか、見落としがあるのだろうと思う人は、自分で調べ直してください。後は上記の著作の中に秦さんの主張、国家や軍の関与は低かった、がどれほど参照されているかということを調査する必要があるけれど、Ranchtodinnさんの言うとおりだとVAWW-NET Japan本と尹明淑本には無いと言うことになるかな。もし残りのものにも秦説を採用しているものがないなら、「これら従軍慰安婦研究で重要視されている研究では秦説を採用していない」とでも書いとけばよいかと思う。210.132.220.191改め--218.41.212.194 2007年9月27日 (木) 12:32 (UTC)[返信]
ある論点を問題にする論文であげられていないから重要でないということはほかの論点を議論している論文には当てはまりません。また、何回もいうようですが、「ある」論文であげられていないから重要でないというような結論にはなりません。黒潮 2007年9月28日 (金) 08:38 (UTC)[返信]
保護になってしまったので静観していましたが、210.132.220.191さんやらりたさんのご意見に同意します。黒潮さんの「論理」は論理ではありませんよ。遂にひどいダブスタをご自分で露呈されてしまいました。でも十分目的は達成されてるんです。自分の思想と異なる記述を防止できればそれでいいのですから。私も同じようなことを何回と繰り返しましたが説得しようと思っても無駄です。保護になっている現状、これ以上続けてもコミュニティが疲弊するだけなので、そろそろそのリソースを別のところへ向けた方がよいかもしれません。--火の鳥 2007年9月28日 (金) 00:54 (UTC)[返信]

火の鳥さんへ= 「>そろそろそのリソースを別のところへ向けた方がよい」 あなたはヒドイ事をコメントするのですね。黒潮氏のような知識もない人の執筆妨害行為を肯定するのですか?210.132.220.191さんのしようとしているのは黒潮氏に、彼の間違いを認めさせ、それにより保護になっている「秦郁彦」を解除させ、辞書記述を健全な状態に戻すことでしょう。それには労力がいる、その労力を自ら払っている人を賞賛するどころか、もうやめろと書く。210.132.220.191さんのあげた『史学雑誌』の記載事項は少し調べれば、黒潮氏により削除された本文が正しかった事を支持する新たな事実になる、そうした建設的な行為をもあなたは否定するのですか?もしあなたが210.132.220.191さんに同意するなら、黒潮氏を批判し彼にこそ自分の行為を非を認めさせるよう要求すべきです。Ranchtodinn 2007年9月28日 (金) 05:25 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

史学雑誌絶対主義みたいなこといってますが、秦の慰安婦におけるもっとも大きな論点は慰安婦の国家による強制連行を支えるとされた吉田証言の否定をつうじた、慰安婦強制連行の否定です。この点に関して、真っ正面から秦を否定する論文を出すのでなければそもそもが、論争に成っていません。イメージ操作で秦を否定するのは、無理ですよ。黒潮 2007年9月28日 (金) 08:38 (UTC)[返信]

*建設的コメント1:さて、210.132.220.191さんの提起した『史学雑誌』が取り上げた慰安婦関係の研究ではどうか?この4冊の中で私が秦郁彦の本の引用有無を調べていないのは『季刊戦争責任研究』(27) 2000年春季と『植民地と戦争責任』です。今日『植民地と戦争責任』について調べましたが、秦の引用はありませんでした。・・・即ち、この本[2]には参考文献リストがあり、藤永壮および樋口雄一他の4論文で引用されている文献は、合計21冊ですが秦郁彦の本はありません。また内容を一通り読みましたが秦文献の引用はありませんでした。Ranchtodinn 2007年9月28日 (金) 11:49 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

*建設的コメント2:『歴史学研究』2007年9月号で慰安婦研究者 林博史氏がは寄稿しており[3]雑誌『歴史学研究』での慰安婦研究の記載状況をこう書いている。「『歴史学研究』のバックナンバーを見てみても90年代においては資料文献紹介で「慰安婦」問題の共同研究の成果(*1)が1冊紹介されているだけで、数多くの成果が出されたにも関わらず書評で取り上げられた文献は皆無である。2004年になってようやく1冊(*2)が取り上げられただけである」となっており、秦郁彦の本は取り上げられていないことがわかる。(*1=共同研究日本軍慰安婦 大月書店 1995、*2=日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 明石書店 2003のこと)Ranchtodinn 2007年9月28日 (金) 11:49 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

*建設的コメント3:ここでの今までの議論とこうした知識に基づけばやはり黒潮氏の削除は間違いなのは明らかです。削除された記述は歴史学研究書や専門雑誌などに実際に書かれていることであり、それを削除すべき理由を黒潮氏はあげていない、従って黒潮氏は削除復活に合意すべきです。Ranchtodinn 2007年9月28日 (金) 11:49 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

何度も言っていますが、「ある論文」で研究史を纏めるにあたり、秦氏の論文が取り上げられていないとすれば、それはその「ある論文」の執筆者が秦氏の論文を重要ではないと看做しているからに他なりません。その執筆者の不手際により見逃していたなどという理由が無い限りは、それ以外の結論は出ません
そして、朱氏・吉見氏・史学雑誌の三者は秦氏の論文を重要ではないと看做している明白な事実です。これをウィキペディアに載せることを妨げるためには、朱氏・吉見氏・史学雑誌の三者の考えを「信用できない」とする証拠が必要です。
付け加えて
>真っ向から否定する論理はあまり無い
という文章を書こうとする者は何らかの出典に基づいて「真っ向から否定する論理はあまり無い」ということを証明する義務があります。
真っ向から否定する論理がある
という文章を書こうとする者は何らかの出典に基づいて「真っ向から否定する論理がある」ということを証明する義務があります。
上の両者共に証明できない場合は「何も書かない」というのが事実に即した記述です。黒潮さんの言っているのは裁判の論理と言う奴でそれを歴史学に持ち込むのはタブーです。らりた 2007年9月28日 (金) 12:01 (UTC)[返信]

*建設的なコメント4:私はこのノートでの議論は大変重要だし建設的だと思います。なぜか?それは私の書いた「秦郁彦の慰安婦に関する本が他の全ての研究者から無視されている」という情報が、今現在大変重要だと考えるからです。ウイキペディアではある事項について2派の対立がある場合、公平性が求められ、断定的に書く事がしにくくなっています。これは教科書でも同じです。沖縄戦の集団自決で日本軍の強制の有無について文科省やいわゆる右派の論者はさも盛んな議論があり対立があるように言います。しかし実はまったく議論はなく全ての研究者が強制だとしています。・・・同じような事が慰安婦研究でもおきており、秦郁彦を除く全ての研究者が日本軍の強制連行や酷い扱いを認めているのに、ここウイキペディアではそれを書きにくい。つまり今議論になっている事項はこうした歴史論争においてはかなり重要で、実際それで教科書などが書き変わる原因になっているのです。ですから、ここで黒潮氏の間違いを明確にし、秦郁彦の本が研究者にほとんど無視されているという結論を出すことは大変建設的で有意義だと思われるのです。Ranchtodinn 2007年9月28日 (金) 16:11 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

「全ての研究者から無視されている」は明らかに言いすぎで、また極論から極論へと走っているようですね。史学にしても代々木が全てではないでしょうに。また、政府機関が委託し公式に認定している内容すら代々木が認めないと「全ての」になるのは大いに疑問ですね。だから最初から研究家の定義を説明してくださいと言っているのに。結局は代々木が全てって主張でしょ?それで「全て」とやられるんじゃあね。もうちょっと中立的に書けませんか?右端から左端へと極論ばかりで現実を無視してもね。事実だけを淡々と書けばいい。--Miwa.SS 2007年9月29日 (土) 00:17 (UTC)[返信]
Ranchtodinnさんの仰っていることは分かりますし、議論を重ねることは建設的で有意義だと思いますが、今の議論の枠組みの中で黒潮氏を説得しようとしても無理だということです。そりゃ私だって黒潮氏の言うことが正しいとは全く思っていませんが、ここで同意しようと努力しても無駄な可能性が高いと思います。それは日本版ウィキペディアの限界でもあります。しかしウィキペディアには無数の記事がありますから、そのパワーは他の記事の充実に向けてくださった方がいいのではと思います。別にこれは黒潮氏のやり方を認めたということでは全くありません。--火の鳥 2007年9月29日 (土) 04:01 (UTC)[返信]
記述した個人への意見や批判なら、その人のノートでどうぞ。--Miwa.SS 2007年9月29日 (土) 06:05 (UTC)[返信]
いや、要するに議論をそろそろ止めるか、仕切り直した方がいいという全体に対する意見です。なのでここに書いてます。--火の鳥 2007年9月29日 (土) 11:49 (UTC)[返信]

*Miwa.SSさんへ= ほとんど全ての研究書を参照し、研究書のレビューを読んだ結果「全ての研究者から無視されている」は明らかです。しかし私は本文にそこまでは書かなかった。Miwa.SSさんが否定したいなら論拠を具体的に示してください。慰安婦の存在に関して激しい論争があり研究者に2派が存在するだろうという事自体が、いわゆる右派のもたらした幻想です。これを今までの研究書の羅列とそこでの秦郁彦の無視が、「具体的に」示している訳です。研究者とは「慰安婦の歴史的事実に関する研究者」であり、当然西岡力などは自分で何かを提示した事はなく入りません。事実だけを淡々と書いた場合、削除された私の本文の記述のようになります。Ranchtodinn 2007年10月2日 (火) 02:08 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

何度も質問しているのですが、まず研究者とは何を指すのか?その定義をお示しください。だいたい評価している実例も本文中に示されているではないですか。学閥黙殺を疑いますね。政府委員や防衛省の委託を受けている学者先生には評価する人も多いんですけどね。ただ、それらをあげても貴方のいう研究者の定義から外れていては意味が無いのでまず貴方の研究者の定義を教えてください。--Miwa.SS 2007年10

月2日 (火) 04:17 (UTC)

MiwaSSさんへ。=やれやれあなたは1冊も研究書も読まないまま議論に参加しているようでね。何度も書いているように慰安婦の研究者とは「慰安婦の歴史的事実に関する研究者」です、この言葉で表現した場合、常識的かつ一般的でしょう。嶋津格は学識経験者であっても慰安婦の研究者ではありません。慰安婦に関しては政治家、学者、ジャーナリストなど多くの方が発言していますが、研究者とそうした人を区別できていない事自体が、あなたが研究書を読んでいない事の証拠に見えます。なぜなら研究書を読んでいればそこには新奇の発見(文書・証言・事物)や論考(当時の社会の他の事物との関係に基づく検討)が記載されており、西岡力などのただ「証拠がない」という意見表明とは異なることがわかるでしょう。Ranchtodinn 2007年10月3日 (水) 01:40 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

私が全くあげてもいない西岡力など取り上げて人を見下したご意見を述べられている点でもうどうかと思いますけどね。貴方の本質は黒潮氏と何ら変わらない。「慰安婦の歴史的事実に関する研究者」ならそのように書けばいいですし「その他の研究者」などといくらでも拡大解釈できる表現にすべきではありません。「ほとんど」を「全く」に書き換える理由にもなっていません。--Miwa.SS 2007年10月3日 (水) 03:59 (UTC)[返信]
Miwa.SS さんのRanchtodinnさんの定義が不鮮明であるという主張に同意します。とくに、Ranchtodinnさんの独りよがりの論理と不誠実性は、下記の通り問題ですが、さらに、内容について、もし、Ranchtodinnさんが「研究者」の定義を絞って「慰安婦研究者」として記載するというなら「秦が他の『慰安婦研究者』まったく参照されていない」というときの『慰安婦研究者』の定義とくに外延をはっきりさせてください。また、その場合、慰安婦強制連行がなかったということについて、吉見義明が秦の研究をうけて、吉田証言を調査しているのは参照されてないという事実に真っ向から反しますがそのことはどう説明するのでしょうか。吉見義明は『慰安婦研究者』ではないのですか?黒潮 2007年10月3日 (水) 11:35 (UTC)[返信]

Miwa.SSさんへ、=では「慰安婦という歴史的事実に関する研究者」では秦郁彦を肯定的に評価している人間はいないで同意されますね。また「従軍慰安婦に関する秦の説はその他の研究者(歴史的事実に関するもの)からほとんど参照されておらず、内容が参考にすべきものと評価されているとは言い難い。ならOKだということですね。Ranchtodinn 2007年10月5日 (金) 07:38 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

逆提案。以下のように記述してはどうですか?
  • 慰安婦に関する秦の調査は、慰安婦の歴史的事実に関する研究を発表している研究者からは、ほとんど参照されておらず、秦の調査内容が参考にすべきものと評価されているとは言い難い。例えば朱徳蘭は、その台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない。
  • 「方法論的な疑義を示す論者が存在する」は林氏の前へ移動。
--Miwa.SS 2007年10月5日 (金) 09:00 (UTC)[返信]
吉田証言と狭義の強制性についての秦のフィールドワークの重要性を、それについて正面から検討していない資料から否定するのは無理です。論点を分けて記述するべきでしょう。以下のように提案します。
  • 慰安婦に関する秦の調査は、吉田証言を否定し、慰安婦強制連行(吉見のいうところの狭義の強制)の論拠を否定した。慰安婦強制連行を正面から肯定した議論は以後でていない。しかし、慰安婦に対する社会的強制(吉見のいうところの広義の強制)を問題とし慰安婦の歴史的事実に関する研究を発表している研究者からは、秦の慰安婦の実体に関する記述はほとんど参照されておらず、秦の調査内容は事実上無視されている。例えば朱徳蘭は、その台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない。特に、日本人が慰安婦の多数を占めたというような秦の記述は事実上、無視されている。
黒潮 2007年10月5日 (金) 10:44 (UTC)[返信]

:Miwa.SSさんの案に賛成します、議論を経て非常に正確な表現になったと思います。/また黒潮さんの案には反対です。理由は、1上記の文は「否定」欄に書くものであり否定的な内容を書くべきだから=内容説明自体は別の場所に書くべき、2秦の強制連行の証拠はないという意見については、歴史学見地から「軍政府の書類のみに歴史学的資料を求めるべきではない」という議論(例えば「シンポジウム:ナショナリズムと「慰安婦」問題」2003年)と正面から批判する主張(例えば吉見義明の雑誌「世界」掲載論文2007年5月号)が行われており秦の主張は厳しく批判されているから、。以上Ranchtodinn 2007年10月9日 (火) 02:27 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

議論をよくよんでおられないようです。1.について。否定欄に書くための文章ではありません。秦の慰安婦の研究の評価について、他の研究者の参照についてふれるべきだという話で進んでいる議論です。最初から読み直してください。2.について、「「軍政府の書類のみに歴史学的資料を求めるべきではない」という議論」をふまえても、慰安婦強制連行を支える資料が存在しないという事実を覆せていないからこそ、強制連行の存在は証明されてないという事実認識が通説なのです。そもそも、資料の範囲を変えようという議論はなんら、証明行為ではありません。Ranchtodinn さんは残念ながら、議論をすり替える行為をされています。以上、好意的にとってもあなたのいってることは議論がかみ合ってません。最初から読み直してから議論に参加されることをことをお勧めします。黒潮 2008年1月13日 (日) 18:56 (UTC)[返信]

『慰安婦と戦場の性』について[編集]

同書をはじめとして各所で引用されている

Composite Report on three Korean Navy Civilians List No. 78, dated 28 March 1945, "Special Questions on Koreans" (U.S. National Archives)

という文書について、アメリカ国立公文書記録管理局(United States National Archives and Records Administration, NARA)に問い合わせたところ「当方の保管記録には当該文書の存在を確認できない」との回答があったことから、同文書を引用している者に対して文書の公開を要請する動きがある。

--試案橋 2007年8月25日 (土) 07:08 (UTC)[返信]

黒潮さんの削除編集に関する保護の解除依頼への移行[編集]

(保護解除依頼への移行)さて多くの意見表明がありましたが、黒潮さんの削除は間違いであった、彼はまともに議論に応じておらず自分の編集の正しさをここで説明できなかった点で、みなさんは一致したようですね。私は黒潮さんに上記への意見表明を求めましたが、未だありません。これは黒潮さんも、自分の説明がまったくナンセンスであり有効ではなかったと自覚し、反論を断念した為と思います。であれば、私の削除された本文記述の復活で同意したと見なせると思います。さすればノートで同意が得られたものとして保護解除依頼に移行したいと思いますが如何でしょうか?Ranchtodinn 2007年10月3日 (水) 01:47 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:21 (UTC)[返信]

上記、私の示したように「その他の研究者」を「慰安婦の歴史的事実に関する研究者」に書き換えるなら賛同いたしますがそうでないなら合意自体に反対いたします。--Miwa.SS 2007年10月3日 (水) 04:04 (UTC)[返信]
Ranchtodinnさんは、 Miwa.SSさんが他の研究者が秦を参照していると主張しているにもかかわらず、私以外、そういう主張はないという虚偽の記述を私のノートにされました[[4]]。このような、不誠実な行為がこの記事のedit warの根本にあるとかんがえられるので、Ranchtodinnさんがその点について謝罪されることが、保護解除の前提として必要と考えます。まず、Ranchtodinnさんがそのことについて、誠実に謝罪されることを求めます。
さらに、内容について、もし、Ranchtodinnさんが「研究者」の定義を絞って「慰安婦研究者」として記載するというなら「秦が他の『慰安婦研究者』まったく参照されていない」というときの『慰安婦研究者』の定義とくに外延をはっきりさせてください。また、その場合、慰安婦強制連行がなかったということについて、吉見義明が秦の研究をうけて、吉田証言を調査しているのは参照されてないという事実に真っ向から反しますがそのことはどう説明するのでしょうか。吉見義明は『慰安婦研究者』ではないのですか?黒潮 2007年10月3日 (水) 11:20 (UTC)[返信]
黒潮さんの削除は間違いであったには賛成いたします。朱氏・吉見氏・史学雑誌の三者の具体的記述を取り上げて、とりあえずその点だけの記述で妥協していただけないでしょうか。それだけでも十分な記述になりえると思いますが。それとですが、黒潮さんに当たりましてはMiwa.SSさんがどうだなどという話よりもご自分がこれまでに主張してきたことの論拠を探すことが先決と思いますよ。らりた 2007年10月3日 (水) 11:40 (UTC)[返信]
らりたさんへ。わたしが主要にいっているのは「2.ある論文で「参照されていない」という事実から、「重要でない」という結論を得るのは無理である。」というものですが、これにどのような論拠が必要なんでしょうか?秦のフィールドワークで慰安婦強制連行説の論拠が否定され、その後、「狭義の強制」を、吉見義明らが主張し、その説の流れのなかで秦の説が参照されないからといって、秦のフィールドワークの重要性を否定するのは無理です。具体的な反論をらりたさんに求めます。黒潮 2007年10月3日 (水) 11:54 (UTC)[返信]
何度も言ってますけど、朱氏・吉見氏は「研究史を纏めるに当たり、秦氏を取り上げていない。」かつ「史学雑誌は回顧と展望で秦氏の論を取り上げていない」。これから導かれる結論は「朱氏・吉見氏・史学雑誌の三者は秦氏の論を重要ではないと看做している」以外に出てきません。もう一度繰り返しますが「「研究史を纏めるに当たり」であり、貴方の言うような「その説の流れのなかで」ではありません。研究史というからには主要な研究は全て挙げるのが当たり前です。
「朱氏・吉見氏・史学雑誌の三者は秦氏の論を重要ではないと看做している」という結論を「史学雑誌のバイアス」などという言葉で否定したいならばその根拠を示してくださいと言っています。あまり同じ事を繰り返させないで下さい。らりた 2007年10月3日 (水) 12:02 (UTC)[返信]
史学雑誌、吉見、朱といった具体的名前を出して、その人達が秦の研究を取り上げていないということと、秦の研究が重要でないという事実は導けません。何回もいうようですが、研究の方向性を大きく変えた秦のフィールドワークを重要でないというのは無理です。史学雑誌のバイアスというよりも、むしろ、史学雑誌の年報をそのような重要性の視点から取り上げるあなたに問題があるのだろうとおもいます。なぜなら、史学雑誌の年報は年報である以上、その年の研究をその年の視点から見ているからです。それ以後の視点の変化は、その対象になっていません。秦のフィールドワークを吉見が追試しているという事実があるにもかかわらず、「重要」でないとか、吉田証言を否定したことで研究の流れが大きく変わったことを重要でないとかいうのは無理です。秦の研究の重要性はその点に存在するのであり、吉見などがその「広義の強制性」の検討で彼を取り上げないことは彼の立場としてありうるとしても、そのことで「狭義の強制性」、慰安婦強制連行の根拠の否定という彼の研究の重要性は否定できないといっているわけです。さて、ここまで、書いてあなたがまだ、らりたさんが秦が重要でないというのならその論証を求めます。黒潮 2007年10月3日 (水) 12:26 (UTC)[返信]
「研究の方向性を大きく変えた」・「吉田証言を否定したことで研究の流れが大きく変わった」・「吉見などがその「広義の強制性」の検討で彼を取り上げない」とかいうことがあなたの個人的意見に過ぎないといっているのです。それを理由に挙げたいならば第三者に検証可能なソースを示してくださいと言っています。そのソースが示されない限りはもうこれ以上はあなたの意見には反応しないことにします。らりた 2007年10月3日 (水) 12:34 (UTC)[返信]
わたしがいっているのは、「重要でない」という本文についての論拠です。史学雑誌、吉見、朱が、「慰安婦強制連行の狭義の強制性」について論文で肯定してるのならそれを書けばいいでしょう。吉田証言について論点にしていないそれらで参照されていないからいって、吉田証言についての秦のフィールドワークの重要性は否定できません。ウィキペディアは記述する側に論証責任があります。あなたが、「重要でない」ということを論証する必要があるのです。くりかえますが、あなたが、「重要でない」ということを論証する必要があるのです。黒潮 2007年10月3日 (水) 12:40 (UTC)[返信]
らりたさんがつかわれているレトリックは吉田証言と狭義の強制性についての秦のフィールドワークの重要性を、それについて正面から検討していない資料から否定するというものです。慰安婦問題には多くの論点があり、論点はうつりかわっています。一部の論点から全部の重要性を否定するのは無理です。わたしが、もとめているのは吉田証言と狭義の強制性の有無を検討した論点で秦のフィールドワークが重要でないというソースです。黒潮 2007年10月3日 (水) 12:46 (UTC)[返信]
「参照されていない」という事実を書くのは、秦の研究の性格を示す上で十分意味があると思います。「重要でない」とまで書かなくても。その方向でどうでしょうか。「秦のフィールドワークが重要でない」とはっきり正面から否定するソースなんてあるわけないので、黒潮さんがそれを求めることは「もうこの点では議論しない」と言うのと同義ですよ(仮にあってもそれは違うと仰られるでしょう)。--火の鳥 2007年10月7日 (日) 10:35 (UTC)[返信]

火の鳥さんに、同意します。私は、「重要でない」という記述を、WP:ORとして反対したのであって、「参照されていない」という事実の記述については反対していません。参照されていないという事実は、「学閥による無視」でも発生する、学問の健全性をゆがめることもある重要な事実ですので、記載することは必要だと思います。記述内容については、上で議論されています。そちらでどうぞ。一応こんな感じです。

「吉田証言と狭義の強制性についての秦のフィールドワークの重要性を、それについて正面から検討していない資料から否定するのは無理です。論点を分けて記述するべきでしょう。以下のように提案します。
  • 慰安婦に関する秦の調査は、吉田証言を否定し、慰安婦強制連行(吉見のいうところの狭義の強制)の論拠を否定した。慰安婦強制連行を正面から肯定した議論は以後でていない。しかし、慰安婦に対する社会的強制(吉見のいうところの広義の強制)を問題とし慰安婦の歴史的事実に関する研究を発表している研究者からは、秦の慰安婦の実体に関する記述はほとんど参照されておらず、秦の調査内容は事実上無視されている。例えば朱徳蘭は、その台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない。特に、日本人が慰安婦の多数を占めたというような秦の記述は事実上、無視されている。」

黒潮 2007年10月7日 (日) 20:16 (UTC)[返信]

  • どうやら「参照されていない」という事を書く点では合意ができそうですね。前前節でMiwaSSさんから厳格な表現の案が出ていますので、この文章を挿入することで保護解除依頼を出したいのですが如何でしょうか?以下[5]でありますRanchtodinn 2007年10月9日 (火) 02:44 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:21 (UTC)[返信]
特に異論はありません。--Miwa.SS 2007年10月9日 (火) 22:03 (UTC)[返信]
Miwa.SSさんの表現は論点を絞っておらず同意できません。以下のように提案します。
  • 慰安婦に関する秦の調査は、吉田証言を否定し、慰安婦強制連行(吉見のいうところの狭義の強制)の論拠を否定した。慰安婦強制連行を正面から肯定した議論は以後でていない。しかし、慰安婦に対する社会的強制(吉見のいうところの広義の強制)を問題とし慰安婦の歴史的事実に関する研究を発表している研究者からは、秦の慰安婦の実体に関する記述はほとんど参照されておらず、秦の調査内容は事実上無視されている。例えば朱徳蘭は、その台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない。特に、日本人が慰安婦の多数を占めたというような秦の記述は事実上、無視されている。」黒潮 2007年10月17日 (水) 10:51 (UTC)[返信]
まずアジア女性基金は「研究者」ではありません、基金は1997年に『「慰安婦」関係文献目録』でそこまでの全ての慰安婦関連の文献目録を出したように、慰安婦関係組織として広く文献を集め広報しています。そしてたしかに秦の2万人説は他にこういうものを唱える人がいないのでよく露出していますが、それが研究者に肯定的に評価されている例を私は知りません。最後に「ほとんど」であって「全く」ではない、尹明淑が参照している例が既にRanchtodinnにより示されています。Ranchtodinn 2007年10月10日 (水) 16:03 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:21 (UTC)[返信]
アジア女性基金は慰安婦の歴史資料を収集、整理し歴史の教訓とすることを事業内容の一つとしており、基金内部に慰安婦関連資料委員会を設置しています。委員会は歴史学者を中心に作られ、多くの歴史資料を発掘、整理し研究を行いその成果を公表しています。彼らは慰安婦の歴史的事実に関する研究者と言えるのではないでしょうか。203.135.210.84 2007年10月10日 (水) 22:14 (UTC)[返信]
そうですね。その構成メンバーは参照してると言えると思います。黒潮 2007年10月17日 (水) 10:11 (UTC)[返信]
Miwa.SSさんの表現は論点を絞っておらず同意できません。以下のように提案します。
  • 「慰安婦に関する秦の調査は、吉田証言を否定し、慰安婦強制連行(吉見のいうところの狭義の強制)の論拠を否定した。慰安婦強制連行を正面から肯定した議論は以後でていない。しかし、慰安婦に対する社会的強制(吉見のいうところの広義の強制)を問題とし慰安婦の歴史的事実に関する研究を発表している一部の研究者からは、秦の慰安婦の実体に関する記述はほとんど参照されておらず、秦の調査内容は事実上無視されている。例えば朱徳蘭は、その台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない。特に、日本人が慰安婦の多数を占めたというような秦の記述は彼らからは、事実上、無視されている。一方で、慰安婦の歴史資料を収集、整理し歴史の教訓とすることを事業内容の一つとしており、基金内部に慰安婦関連資料委員会を設置しているアジア女性基金は、秦の研究もとりあげている。」黒潮 2007年10月17日 (水) 10:51 (UTC)[返信]


アジア女性基金及びアジア女性基金資料委員会については和田春樹の項目参照にしたんじゃなかったのでしょうかね。こちらでも書くの?履歴違反にならなけりゃいいけど。--Miwa.SS 2007年10月17日 (水) 12:10 (UTC)[返信]
参照してるかどうかだけですから、履歴違反には成らないでしょう。別に内容の重複については制限内ですし。黒潮 2007年10月17日 (水) 15:20 (UTC)[返信]

この項目の議論が反映されていなかったのでとりあえずそれらしいのにしておきました。細かい部分あったら直してください。MKurum 2007年12月29日 (土) 06:56 (UTC)WP:OZUに付き--Klsasa 2008年3月28日 (金) 17:21 (UTC)[返信]

議論を反映しておきました。黒潮 2008年1月5日 (土) 05:06 (UTC)[返信]

秦を評価すべき点[編集]

歴史(特に近代史)になると、いわゆる権力側(保守陣営)とそれに反対する側(マルクス系教授陣営)にわかれ、その個々の著書・主張を見ていくと一方の観点からでしか歴史検証ができない。例えば南京虐殺・慰安婦・集団自決についてすべて強制としている人間とすべて強制ではないとする人間ばかり。歴史を研究する者ではなく、政治やイデオロギー論者と化している。そんな研究者ばかりだ。しかし秦はどちらにつくこともなく、「事実」を求める。ある歴史検証では権力側に近い論を(例:慰安婦検証)、ある歴史検証ではその逆側が主張する内容に近い論(富田メモは本物/東條死刑は当然等)時にはその中間(南京虐殺人数等)。だからこそ彼は人気があり、一般世論から信頼性も高く、一般社会でも知名度が高いのだ。(個人的作文失礼)210.252.203.215 2007年10月10日 (水) 07:44 (UTC)[返信]

だいたい同意です。秦に関しては、参照しない方が異常だと思います。その事態をきちんと書くことは意味があるでしょう。独裁国家に近い学者の近現代史の歪曲は歴史学者の内部にも当然巣くっているのは、東アジアに独裁国家がある限りこの領域の宿命だとおもいます。朝鮮戦争の開始が韓国側かどうかなどを議論していたのはちょっとまえです。黒潮 2007年10月17日 (水) 10:11 (UTC)[返信]

出典を求めている内容[編集]

秦氏の研究に対して、林氏らがその学術研究の手法を批判しているとの記述の後に、「大きな論点についての説得的な反証はなされず」との記述があります。このように書いている以上、歴史学上の学術研究の論点が、「慰安婦の多数が日本人であったことなど」であるとする出典の提示を求めます。(通常、学術研究上の論点は、結論ではなくて、その手法である場合が多いので、結論が論点であるとするならば、出典の提示が必要です。)

慰安婦の民族構成が大きな論点なのは、日本人が多数を占める場合に朝鮮人慰安婦への広義の強制などの論拠が弱くなる点で明白だと思います。吉見も民族構成に言及してると思います。黒潮 2008年1月4日 (金) 07:55 (UTC)[返信]
黒潮氏が「明白だと思う」かどうかが問題なのではなくて、また、多くの人がどのように思っているのかが問題なのではなくて、記事や情報が検証可能であることが必要であるため、出典の明示を求めます。--Lib 1964 2008年1月7日 (月) 07:02 (UTC)[返信]
慰安婦研究者のほぼすべてが民族構成に言及している以上、重要であるのは明白でしょう。些末な論点とは言い換えればふれる人が少ない論点です。些末な論点とされる本文の記述について複数が熱心に論じていれば些末ではないと言えるでしょう。民族構成については吉見その他も言及してますから論証については十分ですから立証責任はLib 1964さんにうつっています。Lib 1964さんが些末でないと論証されればいいと思います。黒潮 2008年1月7日 (月) 18:54 (UTC)[返信]

次に、「著作の末節的な批判」とありますが、これは、秦氏の本は学術研究成果ではなくて、単なるプロパガンダ本であるとの意味でしょうか。学術研究では、その手法が重要視されます。秦氏の著書は、手法が問題とされるような学術研究とはとてもいえない代物であるとの意味に取れる表現ですが、もしそうならば、出典を求めます。 --Lib 1964 2007年12月27日 (木) 23:39 (UTC)[返信]

「著作の末節的な批判」を「組織的強制連行の有無などの主要論点以外の批判」に変更すればよいか。--218.42.3.250 2008年1月5日 (土) 08:43 (UTC)[返信]
大論点についてその手法に問題があるのではなく細かい間違いについて指摘しているということで意味がとれるでしょう。読解力に問題があるのではないでしょうか。黒潮 2008年1月4日 (金) 07:55 (UTC)[返信]

「昭和史に数多くの著作がある。客観的な実証を重んじる実証史家として知られ、史料の発掘・研究だけでなく、慰安婦などの研究に際しては、現地での詳細な証拠と証言の収集によって検証している。」と有りますが、下の方には、「証言の一部分だけを抜き取って都合よく引用していること、などの点を指摘して批判している」となっており、「検証している」と矛盾しています。「検証している」と断言するならば、その根拠となる出典を明示してください。

あんまり言いたくはないのだが、林が示している論で、秦の論点全体の論証が狂うものなのかどうか。一部の林のような指摘があっても、それはおかしくない。あなたの言いぐさだと、一部にでも林のいうような話があれば「検証している」とはいえなくなる。そうすると、神にでもならない限り「検証した」などいえなくなるのではないか。--218.42.3.250 2008年1月5日 (土) 08:43 (UTC)[返信]

記述が誤りだとかどうかの問題ではなくて、出典の明示を求めています。学会等で、秦氏の業績として「検証している」とする説が多いのならば、そのうちの代表的な2,3の論文を出典として記載すれば充分でしょう。秦氏の業績を「検証している」とする記述に出典がないのでは、業績評価の検証が困難です。検証が可能であるために、出典の明示を求めます。--Lib 1964 2008年1月7日 (月) 07:02 (UTC)[返信]

「この分野におけるパイオニア的名著であると評価されている」の意味が不明です。歴史学会等で多くの研究者から評価されているならば、その出典を示してください。また、評価されて何らかの賞を受賞したのならば、具体的な記述にしてください。また、Wikipediaのノートの議論や、井戸端会議で素人から評価されているというだけの話ならば、削除してください。

誰が記載したのかは知らないがタイトルは『廬溝橋事件』ではなく、『廬溝橋事件の研究』が正しい。それと、これは名著ではあるかもしれないが、発行年から考えても「パイオニア的」ではない。それ以前にも寺平忠輔氏の労作などがあり、パイオニアとはいえない。その代わり処女作『日中戦争史』については、膨大な一次資料を蒐集・駆使して作成されており、著名な故・信夫清三郎教授も賛辞したくらいのものであるから、「古典的名著」とはいえる。「古典的名著」は復刊の際のパンフ(池井優慶大教授)。当時は秦氏の『日中戦争史』を引用しない文献は少なかった。
そういうことなら、Referenceに著名な教授の賛辞を出典として掲載してください。それで充分です。--Lib 1964 2008年1月7日 (月) 07:02 (UTC)[返信]


「研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版され、現在でも開戦外交史研究の決定版とされる」「東京大学出版会より刊行した事典類は実証研究の必須の資料となっている」とあります。私は専門家でないので詳しいことは知らないのですが、「決定版とされる」「必須の資料となっている」との記述は、疑問です。正しい記述であるならば、その出典を明示してください。

『太平洋戦争への道』全8巻は日本国際政治学会がまとめ上げたものであり、英訳版も出た通史である。多少なりとも日本外交史を大学レベルで学んだものであれば、知らない者はいないくらいの有名なシリーズであるが、新装版刊行に際して「開戦外交史の通史としてこれをしのぐものは現れていない」と、朝日新聞社が社と表明するくらいのものであるから、決定版としても言い過ぎではなかろう。もっとも、「現在でも」というところは不要かもしれない。秦氏の編纂した事典については、正確であり、他の代用品がほとんどないことから、研究者であればたいていは持っている。加藤陽子東大准教授なども軍人や官僚についての調べものでは、秦の事典を「まず手に取」れと勧めている。まあ、常識的なことではあるのだが、わざわざ削除する必要はないとは思うが、おまかせする。--218.42.3.250 2008年1月5日 (土) 08:43 (UTC)[返信]
加藤陽子東大准教授などがすすめているのならば、その論文などをReferenceに出典として掲載してください。--Lib 1964 2008年1月7日 (月) 07:02 (UTC)[返信]
記事に掲載するほどのことではないので、記載しないが、加藤さんの「推薦」ということであれば、氏のHPに出ているよ。--異端審問官 2008年1月7日 (月) 10:51 (UTC)[返信]


「昭和史の争点をあげ、他の研究者との対立を恐れない視点を提示した手法は多くの読者を集めた」の記述は、本当でしょうか。特定の手法によって読者を集めたのか、別の理由で読者を集めたのか、どのように検証したのでしょう。具体的な根拠があっての記述と思いますが、出典の明示をお願いします。  -- Lib 1964 2007年12月29日 (土) 09:38 (UTC)[返信]

なお、秦氏のタバコの銘柄については氏の論文「禁酒法の愚行に学び、「分煙」で平和共存をはかろうではないか」(『日本の論点』文藝春秋1999)参照。とにもかくにも、このノートでのやりとりも、本当に枝葉の争いで醜い。記事に出ているが、林博史氏の秦攻撃は10年以上も前のマレーシア虐殺事件論争まで遡ることができる。秦氏と林氏の論争については『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)等を参照。これを見れば、林氏の研究態度・手法にも相当問題がありそうだが、こんなクダ巻きの話を記事にし始めたらきりがないので打ち止め。Lib 1964氏が秦氏を憎んでいるのはよく分かったが、言いがかり的なやりとりは止めて、もう少し建設的で和気藹々と記事を作っていけないものか。--218.42.3.250 2008年1月5日 (土) 08:43 (UTC)[返信]


ウィキペディアでは記事や情報が検証可能であることが必要です(これは、ウィキペディアのポリシー)。検証可能性にも、「記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記するべきです」と書かれています。特に、研究の評価に関係することは、出典が記載されていない場合、ウィキペディア閲覧者が独自に検証することは、多くの場合困難です。利用者の便を考えた場合、出典の明示は欠かせません。秦が好きか嫌いかではなくて、ウィキペディアの多くの読者が記述の正当性の検証が可能であるために、出典の明示を求めます。(記述は正確なのだろうと思っているから、出典の明示を求めています。誤りだと思ったら削除します。)--Lib 1964 2008年1月7日 (月) 07:02 (UTC)[返信]

一言。歴史学の方法論に誤りがあるという指摘は根源的な批判であり、そこが誤っていればそこから出てきた結論全てが否定されると同じことです。たとえて言うならば数学者の理論に対して「計算のやり方が間違っている」と指摘するようなものであり、当然そこから出てきた結論には信頼が置けないことになります。にも関わらず「著作の末節的な批判が多数」などとは完全に事実に反することです。61.209.180.182 2008年1月13日 (日) 01:16 (UTC)[返信]

一言。数学者は計算間違えをしないのでしょうか?歴史学者は間違えを侵さないのでしょうか?証明しようとする事実について適用された方法で間違えが見つかった場合と他の部分での間違えは根本的に違います。残念ながら、61.209.180.182さんの議論はためにする議論の域をでていません。黒潮 2008年1月13日 (日) 19:06 (UTC)[返信]

あなたの言っている意味がさっぱり解りません。些細な間違いがあるからどうだなどといっているのではなく、本文中に「証言の一部分だけを抜き取って都合よく引用していること」「結論に至る論証の手続きについて実証史家としては問題がある」とありますが、これは秦氏の「歴史学上の手続きに問題がある」と指摘しているのです。私は別に秦氏の結論が誤りであると言っている訳ではありませんよ。繰り返しますが「歴史学上の手続きに問題がある」と指摘されるということは「根源的な批判」であり、これを「末節的な批判」などとは完全な誤謬であるということです。例え出発点と結論が正しかったとしても途中の手続きに問題がある場合にはその論文は評価されません。学術論文を書く際には何よりその手続きが重視されます。それを理解してくださいと言っています。61.209.180.182 2008年1月15日 (火) 05:20 (UTC)[返信]
下にも書きましたけど、論証は歴史的事実に関するものである以上、真か偽かあるいは不可知かにわかれます。そして、その論証のそれぞれは基本的に「独立事象」です。裁判でもそうですが、すべての論証について証明が成功するとか失敗するとかは論争的な問題ではあまりないのです。同じ手法をとって同じ間違えをしているという「証明」がない以上、あなたのやっていることは「印象操作」です。分かってやっているのですか?黒潮 2008年1月19日 (土) 02:42 (UTC)[返信]
黒潮氏へ。大学院時代は数学専攻だったので一言コメントします。数学者の論証に誤りがあった場合、結論は、無効です。手法の誤りは致命的です。計算間違えをした結論は無効であり、論証の誤り・計算間違いの指摘は、本質的に重要です。でも、こんな不毛な議論を続けないで、出典を明示すれば、それでよいのではないでしょうか。「記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記するべきです」。なぜ、出典を提示しないのですか。--Lib 1964 2008年1月16日 (水) 03:05 (UTC)[返信]
何いってるかさっぱり分かりません。私はある分野の研究者ですけど、そもそも、結論の分かっている分野についてやるのは「研究」ではありません。数学も同じでしょう。結論が分かっていないから説の対立があるのです。ですから、研究者が間違えてもそれは挑戦の結果であってそれ自体がそしられるわけではありません。論証について間違えていたら「その結論」についてのみ否定されるので、ほかの論証の価値とは別問題です。あなたは「研究」とは何であるかが分かっておられないと思います。わたしがいっているのはそういう趣旨です。黒潮 2008年1月19日 (土) 02:09 (UTC)[返信]

「言及はない」までの記載は理解できますが、その後に続く文を記載するならば出典をお願いします。http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6&diff=17306452&oldid=17255793 210.231.14.237 2008年1月15日 (火) 16:01 (UTC)[返信]

明らかに解っていないのは黒潮さんの方です。「挑戦の結果であって」などとは何を言っているのですか?何度も言いますが、「歴史学の手続きをきちんと踏んでいない」という批判は「歴史学者としての姿勢」という極めて根源的なことに対する批判です。「歴史学の手続き」を守らない人間は「歴史学者と名乗る資格が無い」とすら言い得るのです。
もちろん個々の事柄に付いて「手続き」を逸脱してしまうことは良くあることですからそこまで言い切るのはあまりに極端ですが。この場合、秦氏の慰安婦問題に関する論考は「手続き」を踏んでいないことが多く、信頼できないという批判が出ているわけです。それは末節的な批判などとは到底言えません。
で、ウィキペディアでは記述を付けようとする側が出典を提示する義務があります。Lib 1964さんもおっしゃられている通り、「秦氏の慰安婦問題に対する批判は末節的」であるという信頼できる出典を示してください。それが無い以上はこの文は削除されるべきです。61.209.181.79 2008年1月19日 (土) 15:13 (UTC)[返信]
残念ですが、ある論点について実証された結果がほかの論点の方法的過誤によって否定されることはあり得ません。あなたの論法には、まるで、結論が最初から分かっているかのようなよく社会主義国家のような独裁主義的な風潮の元で行われた論法を想起させるものがありますが、たとえば、慰安婦強制連行における吉田証言の否定などのようにそれ自体が強固に実証されている場合にはそのような論法で否定するのは無理です。歴史学は独善的な「倫理」ではないのです。具体的に、否定したいのであれば反証をあげることを求めます。黒潮 2008年1月20日 (日) 02:23 (UTC)[返信]
IP変わっていますが、61.209.181.79です。
なにやら訳のわからないことを必死になって述べていますが・・・。何度も繰り返していますが、私の言っていることは「林氏らの批判は細部の間違いがどうこうと言っている訳ではなく、秦氏の歴史学者としての姿勢そのものを批判している」と言っているのです。まあ、どうにも黒潮氏には理解していただけない(理解しようとしていない)ようなのでこれ以上は繰り返しません。
私の求めるのは「秦氏に対する批判は末節的」ということに言及している出典を提示してくださいということです。それが無い限りは件の文は削除されます。これはウィキペディアのルールです219.66.73.195 2008年1月27日 (日) 01:15 (UTC)[返信]

秦氏は著名な歴史学者であることは間違いないが、219.66.73.195氏がいうように「評価」にあたる記載は慎んだほうがよいだろう。とはいえ、秦氏が著名な歴史学者であり、その業績は東大で学位をとったくらいであるのだから、言葉があまって「歴史学者と名乗る資格がない」などということはないだろう。実際に、秦氏に対する批判といっても、秦氏の全業績の中の一部に過ぎず、秦氏が著名な学者であって、それなりの業績を残しているのは認めなければならない。林氏の秦氏に対する批判も、業績すべてを言っているわけではないのだから、あたかもすべてであるような書き方をするのは好ましくないし、一方の意見だけを取り上げるのは中立性に欠けるともいえる。「手法が間違っている」というのであれば、「どこのどういう部分が間違っている」のかが明らかにされなければ、読者をミスリードするだけだ。興味深いのは、秦氏も林氏の「手法」についての批判を行っていることだ。218.42.3.250氏も述べているが、『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)を読むと、林氏がかなり叩かれているが、そういった複雑なお互いの関係もあることが容易に推察される。しかし、そんなことを林氏の記事に記載すべきなのかどうかはわからないが。ともあれ、「手法が間違っていれば結果も間違い」という話は注意が必要だ。というのも、「手法が間違っている」というのも、「結果が間違っている」というのも、歴史学論争でいえば、それは一つの「仮説」であって、絶対にそうだとは神ならぬ人が言えることではない。そういう「説」が一部にあるというに過ぎない。いずれにしても、現存している人の記事は名誉を重んじて慎重に記載すべきだという、まあ感想まで。では。--太郎次郎 2008年1月29日 (火) 08:55 (UTC)[返信]

慰安婦の論議に相当「特化」した編集になっていて、歪ですね。ええっと、秦さんの人物評で「秦さんは客観的な実証を重んじ、左右に偏向しない現代史家で、第二次世界大戦史などを専門にされています。」という自由民主党本部の紹介文があります。保守派の秦さん的にはまあイイかなと。慰安婦問題を取り上げたNHKの特集番組に、この問題で批判的な立場の学者として出演した秦さんが自民党のプロジェクトチームの講師として呼ばれた際の紹介文ですね。http://www.jimin.jp/jimin/mail_mag/bn/170210.html--呪縛 2008年1月31日 (木) 08:36 (UTC)[返信]

>「手法が間違っている」というのも、「結果が間違っている」というのも、歴史学論争でいえば、それは一つの「仮説」であって、絶対にそうだとは神ならぬ人が言えることではない。そういう「説」が一部にあるというに過ぎない。
確かにそうでしょう。それをいちいち記載すべきとは私も思っていません。別に私はそう記載しろと言っている訳ではありません。私は
>もっとも、いずれの論も、秦の提唱する組織的強制連行がなかったとする事実や、慰安婦の多数が日本人であったことなど、大きな論点についての説得的な反証はなされず、著作の末節的な批判が多数である。
という文章を削除せよと言っているのです。これは林氏らによる批判が「末節的」であるという林氏らに対する批評になっており、出典が無い限りはこれは記載すべきではないと主張しております。言うまでも無く「林氏らによる批判が『末節的』」ということは自明の理でもなく、何ら出典に担保された記述でもありません。これは明らかに削除されるべきと思います。219.66.73.195 2008年2月2日 (土) 12:31 (UTC)[返信]
とりあえず「もっとも・・・著作の末節的な批判が多数である。」の文章に対して{{要出典}}タグの貼り付けを保護ページの編集依頼に出しました。219.66.73.195 2008年2月2日 (土) 12:47 (UTC)[返信]

原文を参照して―数字批判の掲載価値[編集]

 自分もつい数字を気にするので、今後も混乱しないようにここに書いておきます。
 永井の、慰安婦推計についての秦批判。
 かなり文脈の解釈が変ですね。

 秦は、他人のものを含め(自分なりに修正したりして)た5つの計算方法を本の中で並べていて、最後の計算方法があいまいに過ぎるために、ここに自身のおおざっぱな計算を置いています。 永井は、そこが基本的な計算が違い、その計算こそが秦の主張であるとし、これを基本に文の順序を遡って、あれこれと間違いや矛盾があり誤謬が重なっていると論じています。 しかし、本の文脈上の集束点は、最後の‘どの計算も「似たりよったりなので」’という点にあり、その一つの計算だけを秦の基本だとして他の計算方法の部分まで全体が秦の混乱で書かれているかのように永井が展開させていくのは、彼の秦への疑いか歪みの文章としか読めませんね。
 より詳しくは――、最後の部分の秦の間違いは二つの要素があり、×と÷を差し引きした後、3倍の違いが残りますが、これは、それ以前の部分で別の計算方法の紹介のところで、‘内地よりも3倍の仕事量は妥当だろう’、と述べています。永井もそこの箇所について秦がわかっているはずだと書いたりしているので、秦は最後の追加文のときにおかしな計算をしただけと見るのが、本に書かれた順に即した読み取り方です。―― 間違った理由をどう推測するかは自由ですが、主観の範囲です。
--如月の弥 2008年11月17日 (月) 11:22 (UTC)[返信]

永井和についての改訂理由(2008年10月25日)[編集]

 「慰安婦と戦場の性」という本では、明確な論理展開を持って自説を主張するということはされていません。いろんなデータを並べて、いろんな解釈がありそうな雰囲気の中で、この辺が妥当だろうということをまとめに持ってきているだけで、普通に読めばとても「実証、論証の確実な結論のつもりで書いてある」とは取れません。 さらに本全体として、対立的な意見でも大して条件やら検証やらの理屈をつけずに、認定して並べています。 「百科全書」のような書き方なのですよ。

 また、この本では慰安婦の数について多くの他説の数字も並べていますが、大して論破しようとはしていません。いろいろ並べているという程度です。
 (挿入訂正。改めて確認すると、一応、「七つの争点」という項目の中で他人の意見をかんたんに批評しています。一部致命的な指摘もあるので対立者たちには気に触ることでしょう。しかしそれを含めて、「いろいろな計算方法を試してみたが、・・こんなところが妥当な感じ?かなあ・・」程度にしか読めませんね。--如月の弥 2008年11月5日 (水) 11:38 (UTC) )[返信]

 それなのに永井和が、秦がそれを実証・強く主張しようとしているかのように解釈して批判するのは、彼が昔の始めから対立的立場を意識して読んでいるからです。それは本文に書きました。 秦の百科全書的な書き方、というものが理解できないか、ごまかしとみなしてのことでしょう。

 また、こういうブログで質問に答えた程度の文は、どの程度の責任の自覚を持って発表されているのか疑問です。 (ウィキの検証可能の基準は、‘評判のよさ’というあいまいなもので、基準のサンプルを機械的にぞんざいに使って決定していいなどというなら、三位一体の基準ということを尊重してないようです。)

 それを取り上げるのは、編集者の「微妙な裁量」に属すわけであり、また「独自調査の禁止」では表現に注意することも含まれているので、つまり、掲載と取り扱いを含めた微妙な判断が必要です。  つまり、私の書いたような、本を直接読んだ結果で、掲載価値を判断することが必要になるケースです。

 あまり編集に参加できないので、たまたま今回書きましたが、リバートに反論しないとしても仮同意とは受け取らないでください。--如月の弥 2008年10月25日 (土) 05:00 (UTC)[返信]


 また、林博史については、かなりひどい捏造的論法がありますが、これは昔から有名なので、彼の主観として冷めた扱いの掲載をするべきでしょうか。

 いまはその整理ができませんが、ひとつここに書いておくと、シンガポール陥落後に喜んで応募した慰安婦が、成り行きで縛られて相手をさせられようとした、という件。

 秦は、軍が慰問団を拘束して慰安婦にしたことも同じ項目に並べたり、別の項目でフィリピンでそうとうな犯罪があったことも書いています。ここだけ隠したとは思いにくいですね。むしろ・・・、一番目の兵である気の弱い目撃者が逃げ帰ったあと、次番の人間は黙って続けたでしょうか? 次の人間が驚いてすぐ後ろのみんなに知らせたとしたら、はたして何も知らずに「白人慰安婦様はおれらをなめてんのか、(←自己修正) 中国戦線の慰安婦は次々とわしらを処理したじゃないか、さっさとやらせろ!」と吼えていただろう兵たちも、驚いて他の慰安婦の順番待ちに移った者が続出し、結局やめたかもしれない。 この慰安婦に前借はなかったから次の日からやめたかもしれない。 ・・などと本に書いたら、「秦は人でなし」呼ばわりされたでしょうね。真相は全く不明です。

 それより、林博史は、このような強制は軍律違反で運営規則違反なこと、あくまでも上官のいない殺気立った戦闘直後の例外だったこと、をわからなくして、日本軍のやり方として語っています。こっちの方が確実にひどい。実際、マイナーな場かネットでしか発表してないですね。 つまりこういうものをウィキが宣伝するのはどうかと思うのです。 --如月の弥 2008年10月25日 (土) 05:00 (UTC)--如月の弥 2008年10月25日 (土) 09:20 (UTC)[返信]
不適切部分を 取消線 で自己修正。--如月の弥 2008年12月18日 (木) 12:58 (UTC)[返信]

11月11日のリバートへの反論。[編集]

 219.66.72.40氏の意見への反論。
>「批判と非難とは違う」。
 どういう言葉の違いなのか不明。

>「かってに誤読と決めつけない」。
 かってに、掲載可能な価値があると決めつけないこと。 検証可能性はただの必要条件にすぎず、ブログで別の質問に答えるときの勢いに乗ったヨタ発言でも、学者であれば無条件に載せていいというものではありません。
 永井和自身が根拠も示さずに、結果的には秦の予想が正しいだろうと書いている。つまり永井和自身が同じことをやっているわけです。それなのに、秦への批判が意見として成立すると矛盾なく言えますか?
 言えるとしたら、永井は自信をもっては示さずに、秦が自信を持って数字を示している点が間違いだと言うこともできるでしょうが、原文はそのようには取れません。そのような永井の文章感覚的主観を、学者の意見として掲載するというのですか?--如月の弥 2008年11月12日 (水) 08:47 (UTC)[返信]

掲載承認について[編集]

 永井がブログに書いたのは、土日の休日です。かつ、アマチュアとのやり取りで枝葉として出てきたことです。これでは秦の本を確認しながら責任ある文章を書いていると想像できないので、掲載不適格と見なしました。
 ただ、もう一度見直すと、なにやらこのブログは以前削除されていたのを、このテーマを引き継いで再開したと思われる始まり方をしています。かつ、秦の他の点についても、このブログで批判を続けています。なので、議論サンプルとして掲載してもよい範囲かと思います。
 まあ、ここの内容(慰安婦と戦場の性p382~p387)を具体的に書くと、
 秦がまともな資料や証言がないながら比較的信用のできるものを上げてみて、それも内容がバラバラで全体はつかめないとして、バッと別のことを結論めいて書いています。 秦はこの本の後書きで『論争の終結を控えた現在の時点』『百科全書」のような性格の作品』と書いていて、根拠と論理を組み立てて主張するための本ではありません。
 それを永井は、『自分が根拠にあげている資料からは必ずしも直接には引き出せないことを結論している』『論証手続きには、いささか無理がある』『実証史家の手法として』 と書いているのは、対立意識で誤読しているようなものだと思いますがね。・・尤も結論が同じだから、わかっててわざと曲解して叩いているのか・・   私なら、「自分の推論に役立たない、むしろ対立者に有利なものを、信用できるとして掲載した」秦の姿勢に、信用度のプラスポイントをあげますがね。

 数字の問題は、今のテーマではありませんでしたね。(数字は、秦もいい加減ですが、永井も文脈をねじ曲げてます)--如月の弥 2008年11月17日 (月) 10:44 (UTC)--如月の弥 2008年11月17日 (月) 17:03 (UTC)[返信]