ノート:板垣信安

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信安は嫡流にあたるか?[編集]

(現状独自研究ではありますが)以下の理由により、記事より「板垣氏嫡流」の文言を除去しました。

  • 板垣嫡流は信方から信憲に移り、信憲の代で一度断絶。これを信安が再興したもので、信憲からの継承ではなく、その点で信安は(再興後の)初代である。
  • 信安自身は信方の娘婿に過ぎず、血縁で言うならば(信方の)娘の子である修理亮からが嫡流と思われる。

従って、再度独自研究になりますが、影綱の考える板垣氏嫡流の推移は以下太字のようになります。

信方信憲(断絶)⇒信安(再興)-修理亮以下直系血族

これについて、議論の必要があればコメントをお願いいたします。--影綱 2009年6月25日 (木) 04:12 (UTC)[返信]

ええっと、これは嫡流の解釈によるのではないでしょうか?
  1. 養子などを考慮せずに実系の血統を重視。
  2. 血統にはさほどこだわらずに「家」の継承を重視。
1.の立場で考えると、武田氏支流の板垣氏の嫡流は信憲の死去により断絶し、加賀美氏支流の於曾氏の信安を加賀美氏流板垣氏の初代とみなす(武田氏流の板垣氏が初代の兼信から信憲まで実系で続いているのか未確認だが、少なくとも信安は兼信の実系子孫ではないはず)。この立場での板垣氏嫡流の推移は以下太字の通りです。
(源)清光-(武田)信義-(板垣)兼信・・・信方信憲(断絶)
(源)清光-(加賀美)遠光-(於曾)光経・・・源八郎-(板垣)信安-修理亮-以下直系血族
一方、2.の立場では
信方信憲信安修理亮以下直系血族
のように信安も嫡流と見なせるのではないかと考えます。つまり養子継承と同様の考え方です。
家名断絶後に再興した例では、実系の血統を重視してあくまでも別系統と見なすこともありますし(畠山氏など)、「家」の継承を重視して養子継承と同様に扱うこともあります(田村氏大炊御門家西洞院家など)。時代が下るほど血統よりも「家」の継承が重視される傾向が強くなるので、板垣氏の例でも信安は嫡流と言えるのではないでしょうか?この場合の嫡流という用語は単に本家筋という意味ですので。文献を見ても信安は加賀美氏流板垣氏ではなく武田氏支流の板垣氏という扱いです。
除去した記述を復帰させることはしませんが、「板垣氏嫡流」という記述があっても「甲斐源氏支流の於曾氏出身」という説明があるので、誤解を招くことはそれほど心配しなくても大丈夫なのではないかと思います。--まさふゆ 2009年6月25日 (木) 11:40 (UTC)[返信]
まさふゆさん、コメントを頂き有難う御座います。僕自身の考えだと1.に近い気がします。
ちなみに板垣氏は兼信から信憲まで、全てが長男と言うわけではありませんが、実子による相続で続いているようです。(「御侍中先祖書系圖牒」のweb版 [[1]]を参考にしました)
また、信安を「武田氏系板垣氏」として扱う事は異論がありませんし、その点での心配はしていないのですが、信憲から信安へ「相続」があった訳ではない、という点が少々引っかかる訳です。
とはいえ、他に例があるのであればそれを参考に、もう少し意見を募った上で戻すかどうか考えたいと思います。有難う御座いました。--影綱 2009年6月25日 (木) 21:17 (UTC)[返信]


議論を見て書き込みます。結論から言うと「板垣信安」に関しては嫡流と考えて良いと思います。
①に「武士」すなわち戦闘集団の一員という立場から言えば「いつ命を落とすかもしれない」という状況が常にあるわけで、血縁に固執した考えを持ってしまうと、妻・子のいない若武者などは(家の存続を考えれば)命をかけて戦うことが出来なくなってしまいます。また主君の立場から言うと(血縁の者しか相続をさせないなら)自分の軍隊がどんどん減ってしまうような不都合が生じます。よって、武勇を誇っていたが子の居ないまま、(残念ながら)討死した武士の場合は、主君が血縁が無くても同等の身分(家格)の者をその者の養子とさせて「家」を存続させるというのが当時の一般的な考え方でした。よって歴史的に見ても武士の世界では「血縁」の者よりも「家督」の相続者が重要視されます。
②に「嫡流」か「傍流」かは「血縁があるか無いかではなく」、「家督(あるいは死後相続をさす「跡目」)」を代々相続したかどうかという点にあります。分割相続でなくなった鎌倉中期以降は、兄弟が何人居たとしても、「家督」を継いだ者が「嫡流」で、それ以外は「傍流(あるいは「支流」)」と見なされます。
③にまた、「家督」を誰に継がせるかを決めるのは「父」ではなく「主君」にあります。江戸時代の系譜を見ても「父(何某)遺跡之内(何百何十)石を被 下置(くだしおかれ)」と記載されるのが常で、「主君」から賜った「家督」は「父」の死後(または隠居後)一旦、「主君」に戻され、また「主君」から「家督」の継承を許されて初めて「相続」をするというプロセスを繰り返します。極端に言うと「実子」が居ても「養子」が「家督」を継げば、その時点から「養子が嫡流」で「実子は傍流」と成ります。
④そこで「信安」の例を見ると武田晴信に仕えていた「信方」が戦死したあと「信憲」が、家督(正確には父の死後相続のため「跡式相続」または「遺跡(遺領)相続」という)を相続し(ここまでは異論が無いと思われますが)、「信憲」が改易された時点で一旦嫡流は断絶しています(信憲の死亡の時点ではありません)。しかし、「信憲」を改易させた武田晴信が、それほど年をあけず「信安」に「再興」させ、「信憲」の元家臣等を「信安」に附属させたらしき記述が『甲斐国志』にあるようですので、「信方信憲信安」という「家督」継承の流れで間違いないので信安が嫡流であると見て正しいと思われます。また、仮に「信憲」に子が居たとしても、「信憲」が改易され「信安」が「再興」した時点で「信憲」の子らは板垣家から見た場合「傍流」となるわけで、極端に言うと(前代に血縁があったとしても)、同じ名字や家紋の使用を許されない場合もあります。
⑤血縁がある方が「嫡流」その他が「傍流」というような考え方は「武士」としては異質な考え方であり、むしろ、「主君」の介入無く家長が「血縁」によって財産の相続人を決めていた「商家」や「農家」の家督相続の考え方に近いと思われます。--Sudo Kohei 2009年10月29日 (木) 21:07 (UTC)[返信]
Sudo Kohei さん、コメント有難う御座います。細かい説明を頂いて、納得がいきました。
ちなみに、信憲には実子がいますが、別姓で家を興しているので、傍流というより
「独立した別族」と考えた方がいいのでしょうね。
ともあれ、家督継承者である信安は嫡流に組み入れるのが正しいという結論のようですので、
その様に編集し、議論をクローズしたいと思います。
些細な疑問にお答え頂き、有難う御座いました。--影綱 2009年10月31日 (土) 00:08 (UTC)[返信]