ノート:李舜臣

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ノート来歴[編集]


日清戦争で日本軍の将軍(名前は忘れました)が彼の戦略を研究したそうです。

それは確か司馬遼太郎の小説の創作エピソードだったような。Hermeneus 2005年6月12日 (日) 04:41 (UTC)[返信]

168.126.251.117をブロックしたほうがいいかもねCommonsenses 2005年8月6日 (土) 08:34 (UTC)[返信]

>主として日本水軍の補給路を断つ戦術を展開し、戦術的な成功を収める。
これは戦術戦略といったほうが適切なのでは?--61.202.126.161 2005年11月27日 (日) 11:51 (UTC)[返信]

そうですね、後者の「戦術」はね。
[[李舜臣と日本海軍 言説四種]<--表に貼れないからここに貼っときます。

保護されているようですが、以下「本文」案です。新参者故、リンクなど行き届いてないと思いますが、妥当性を議論して下さい。yasumi 2006年3月14日 (火) 10:19 (UTC)[返信]

整理されていて、少なくとも現在のものよりは解りやすくて良いですね (^^)/。Kadzuwo 2006年4月9日 (日) 23:19 (UTC)[返信]
保護解除のためノート準備原稿を削除します。yasumi 2006年7月19日 (水) 05:53 (UTC)[返信]

曖昧さの回避をお願いします。[編集]

李舜臣: 武将 李舜臣: 駆逐艦

ここで曖昧さ回避記事にするより、Anotheruseテンプレで李舜臣 (駆逐艦)に誘導させたほうがいいと思う。--経済準学士 2006年7月11日 (火) 08:56 (UTC)[返信]

李舜臣の部下の李純信も発音は同じイ・スンシンなんですよね。SS-068潜水艦の綴りはLee Sun Sinですが、どちらなんでしょう?yasumi 2006年7月19日 (水) 05:53 (UTC)[返信]

李舜臣の他の項目(李舜臣 (宋)李舜臣 (明))に対し、本項にも李舜臣 (李氏朝鮮)のように平等な曖昧さ回避と改名は必要でしょうか?現状「李舜臣」へのウィキ内検索は72件あるようです。参考までにその検索に引っ掛かる李氏朝鮮の李舜臣への関連項目には不滅の李舜臣李舜臣級駆逐艦があるようです。yasumi 2009年1月24日 (土) 22:09 (UTC)[返信]

Wikipediaのルール的には曖昧さ回避や改名することも是かと思いますが、事なかれ主義的観点からすれば紛糾するであろうことは自明なので、むやみに火種を撒くこともないかな、という感じですが。 Jinzuu 2009年1月25日 (日) 12:43 (UTC)[返信]
現状はWikipedia:曖昧さ回避#曖昧さ回避ページを別に作らないもの(2)Otheruseslistを使う方法の手法で曖昧さ回避をしています。「李舜臣」と引くと李氏朝鮮の李舜臣へ飛ぶわけです。他に第一項目にはWikipedia:曖昧さ回避#平等な曖昧さ回避と言うのがあるのですが、記事のリンク比重的に無印李舜臣はこことして、当面はこのままとしましょうか?yasumi 2009年1月25日 (日) 13:08 (UTC)[返信]
個人的感想としては、通常日本語使用圏で「李舜臣」と言った場合には李氏朝鮮の李舜臣を指す場合が圧倒的に多いように思います(何といっても隣国の歴史ですし、日本の歴史にも密接な関係を有していますので)。駆逐艦も時代劇も李氏朝鮮の李舜臣から派生した用語ですし、比重的には無印がここという判断は妥当性があると思います。--ろう(Law soma) D C 2009年1月25日 (日) 23:40 (UTC)[返信]
”(李氏朝鮮)”をつけるかどうかに労力や時間を無駄に費やすこともないでしょうし、”代表的なトピック”扱いということで、差し当たってこのままでよろしいように思います。 Jinzuu 2009年1月26日 (月) 08:11 (UTC)[返信]

この記述削除をお願いします(Alcrad氏発議)[編集]

合意形成 忙しいため、多少時間が掛かるかも知りませんのでご理解して下さい。

以下はAlcrad氏の発議により記述削除すべき理由とその各項目です。


第一 史実と完全に異なる内容[編集]

生まれ[編集]

現北朝鮮領の開城に生まれた//と記述されていますが、李舜臣が生まれた故郷は現ソウルの仁峴洞である。

提案文は翻訳不良ですが「漢城の乾川洞に生まれた」に改正することを提案します。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
ちょっと調べればすぐ分かるものなのに。。漢城の乾川洞が現の“仁峴洞”ですよ?alcrad 2006年10月18日 (水) 11:12 (UTC)[返信]

露梁海戦 概要[編集]

他に明水軍副将を初めとする明・朝鮮水軍の主たる将が多数戦死し大きな被害を出したため後退する島津水軍を追撃することは出来なかった。孤立していた小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が解けたので海路脱出に成功し無事日本へ帰国することができた。//歴史歪曲がなにかカンペキに見せますね。これは簡単な知識でも分かるものですが。。日本の本では記述され本ですくないんでしょう。李舜臣の最後の戦いで、日本の艦隊400隻あまりを撃沈され、わずか50隻でやっと帰国するこどができた戦いです。この戦闘で李舜臣は戦死するが、接触戦闘ではなく、追撃する途中である。だからあの者が書いたことは創作である。alcrad

日本の艦隊数及び残存数は推定数であり、泗川城からの島津約7千の撤退時に使われた船舶数が170隻と言われており立花・宗・寺沢などの加勢を加えたとしても露梁海峡に突入させた急造艦隊の隻数として妥当性のない数字と考えられます。また、李舜臣の戦死は観音浦辺りでの島津艦隊の一斉射撃戦術によるものであり、追撃戦とはいえません。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
400余りか、200隻あるかは今後調査します間違いがあれば正しく直します。それが歴史を学ぶ人としての望ましいと思います。韓国の記録たけの物なら、とくに日本の古代史“日本書紀”ように世界で受け入れなくなったんでしょう。それに“露梁海戰”は後退する日本軍を打つ作戦であり、李舜臣が考案した、朝明のX字陣にかかった日本軍のほとんど壊滅しますが、記録でかれは向こう側にあっさりと抜け出す侍部隊を追撃する途中戦死たのは事実たと思います、彼の死について日本はどのように書かれているかは目に見えますが?alcrad 2006年10月18日 (水) 11:55 (UTC)[返信]
つまり妥当な根拠もなく書き換えようとしていたのですか?
島津軍が壊滅したとは韓国側の妄想戦果です。朝鮮側の勝ち戦で大敗したのであれば逃げ場がないために戦死するしかありません、日本軍が壊滅した根拠などどこにあるのですか?露梁海戦で島津軍の誰が戦死したのですか?島津軍は苦戦はしましたが追撃も受けず、無事に日本に帰っています。海流と海戦により観音浦へ押し込まれたて昌善島へ上陸し帰還した部隊は400人と言われていますが、これも明・朝鮮水軍に決定力がない傍証となります。この海戦だけでなく管理責任のない朝鮮側の日本艦隊数には批判が必要であり、額面通り受け取れません。
露梁海戦は孤立した小西軍の撤退を支援するため、順天倭城の包囲を解くために急造水軍で進出した島津軍を明・朝鮮水軍が露梁海峡で迎撃した海戦です。貴方の認識は間違っています。
また他の朝鮮軍と同じく、李舜臣は明軍の指揮下として動いた一武将に過ぎません。yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
妥当な根拠もなく書き換えようとしていたのはあなたですが、それに歴史にも存在しない、空想をかいたのは、あなたですよ?200席が400隻、記憶が多少ずれたかも知らないことと、妄想で書くのは違います。当時朝鮮軍の規模は日本軍の半分ぐらい、これも戦争が起こる前なら、全国合わせても2万くらいで急に変遷された、新規部隊であり、代償が前に立たないと兵士を動かすことはできません。それ他にも李舜臣は傷を負った戦闘もあるし、また李舜臣に限った例でもないいんです、それに李舜臣は追撃する途中戦死した以外記録はないんですが?日本の資料ですごいですね、創造で歴史も書けるなんで。alcrd 2006年10月19日 (木) 03:19 (UTC)[返信]
“海流と海戦により観音浦へ押し込まれたて昌善島へ上陸し帰還した部隊は400人と言われていますが、これも明・朝鮮水軍に決定力がない傍証となります。”//あの失礼ですが、馬鹿ですか?50隻で400人なら、ほぼ8人くらいしか乗っていないことになりますが?ふつう1隻当たり150~200人が乗りますが。170隻だとすれば。。。それと7千人の中400人が帰国したことはほとんど壊滅ですが、命を落とした兵士ことは残念です。日本軍は、ほぼ壊滅したのは事実であることは貴方も認めましたね。また言うが、嘘なら世界で通用しません。それに李舜臣は日本人の教授との話合いで、興味を持ち始めました。調べるほどスゴイ人です。alcrd 2006年10月20日 (金) 12:11 (UTC)[返信]
“また他の朝鮮軍と同じく、李舜臣は明軍の指揮下として動いた一武将に過ぎません”その証拠をお見せたい。地位が高いといえ、朝鮮軍は明軍に従わないですよ。との別また、露梁海戦が李舜臣の功績と認める理由について、明軍の陳璘は小西に賄賂を受け取り、李舜臣に作戦中止を提案する人物である、それと明軍の活躍で目に付く活躍でほとんどないことも、お分からないでしょうか?
地位が高いといっても戦わなかったのは明軍であること。朝鮮もそうゆう前例がありますが明が久遠要請しても出展を拒否したり、出戦するが、助けはしない場合もあります。当時アメリカのような国が明ですから。alcrd 2006年10月19日 (木) 03:19 (UTC)[返信]
無事に撤収したという資料を見せなさい。alcrd 2006年10月19日 (木) 03:19 (UTC)[返信]
また朝鮮の船の記録比べ日本側の資料は非現実な記述も目に付きますが、朝鮮の船は数千人の兵士が乗っていたのか、また日本戦艦の場合定員も明確に分かっでいないそうですね。たいたい、定員80人くらいの小型戦闘艦が主力艦だったそうですが、それ聞いてびっくりしました。alcrd 2006年10月20日 (金) 12:22 (UTC)[返信]
それで本文をどのように書き換えようとしているのか不明。
根拠を提示せずに妄想記憶の400隻か200隻かわからない数字を書き込んだんですね。つまり、これはあなたの捏造の実績です。
あなたがどんな宗教を信じていても巡天作戦時は陳リンの部下は李舜臣、劉テイの部下は権慄ですから。
「ふつう1隻当たり150~200人」すでに根拠不明ですが、仮にあなたと同レベルの論理展開なら400人の生還者が乗っていて喪失したのは最低2隻の損失という結論になりますよね?
露梁海戦では鄧子龍(明水軍副将)、李舜臣(三道水軍統制使)、李英男(加星浦水僉使)、方徳龍(楽安郡守)、高得蒋(興陽県監)などの 明・朝鮮軍は上級指揮官以下の数多く戦死していますが、具体的に大敗したと言うのであれば日本軍の誰が戦死したのか提示してください。日本軍の主力は無事に日本に帰国しています。また戦略目標であった小西軍の脱出にも成功しており、作戦目的も達成されました。yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
当時大の戦闘艦の場合、定員は200人程度です(・v・)。400人のことを書いたのは貴方ですよ。露梁海戦では多くの人が亡くなった戦闘です。日本の被害は戦闘艦の200隻余り中で150隻が沈没したと記録されており、私は中世の研究者ではないから細かいことは知りませんが、それは韓国の記録たけではなく、中国,日本の記録や政情も参考しどの比較しないと意味がないことではなく、事実と認めません。日本の研究者の中では奇問を抱き記録や説得可能な資料があるんですか?(単なる本たけじゃなく、世間に認められたのかも重要です)そうではないとわれわれのようなアマ-達が、指揮官が死亡したといって戦争の歴史を完全に変えるのは無理です。ネルスン-は亡くなったけと勝ったのです。それと当時朝鮮では鉄砲がなく、鉄砲の経験がない朝鮮では指揮官が危険で露出されたとしても可笑しくありません。それに鳴梁大捷の時にも死亡した一人が指揮官です。それと日本の指揮官は裏で指揮するかたら被害少なかったないでしょうか。(全国時代は少し位しか知りませんが)。自分のことの中で間違いがあれば、地籍してください。alcrd 2006年10月22日 (日) 19:14 (UTC)[返信]
alcrd 2006年10月20日 (金) 12:22 (UTC)[返信]
400人の上陸生還者が乗っていた船の数が理解できませんか?
露梁海戦は参加した日明鮮の双方の当事者が勝利を主張した戦いです。ネルソンはフランス艦隊の上陸作戦作戦を失敗させましたが陳リンとその部下の李舜臣は小西軍の封鎖に失敗しています。戦術レベルで島津軍の露梁海峡を阻止したとはいえ戦略レベルで失敗しているのです。
島津軍の具体的被害も、明鮮水軍の具体的被害も記録に残っていません、歴史記録に残る人物の戦死は全体被害の指標となります。
直近の例で言えば、非戦闘員を含む1500人規模(1592年3月動員規模)の脇坂軍は6月に龍仁で李洸率いる朝鮮陸軍約5万と交戦した直後に水軍に転換され、7月の閑山島海戦では3人の幹部が戦死しており、翌1593年5月の人員点呼では900人となっていることから、敗北の規模が推測されています。上記を踏まえて閑山島海戦では脇坂軍の被害は幹部3人と最大1/3程度の被害が推測されます。alcrd氏は韓国や英文wikipediaには脇坂軍の被害が9000人と成っていることを知っていると思いますが、これらは李舜臣の報告撃破隻数に乗員の想定定数を掛け算しただけの荒唐無稽な数字に過ぎません。李舜臣が日本軍の被害を紙に書いても日本兵は死なないのです。
しかし、露梁海戦での島津軍の主要戦死者はだれですか?島津軍は苦戦はしたものの主力は帰国されたと伝えられていますし、名の通った武将が討ち死にしたとも聞いていません。乗艦が撃破されれば孤立や溺死する中世の海戦ですが、閑山島海戦のように日本側指揮官の戦死例が提示ず明と朝鮮の高級指揮官の戦死例が提示されるのは何故ですか?
幹部の戦死についても、トラファルガーの勝者側でネルソン以外の幹部は露梁海戦の明鮮水軍のように多数戦死しているのですか?
全体傾向からも朝鮮側から見た日本水軍の規模も撃破数も日本側の動員規模からも見れば過大であり、不正確であることは明瞭です。alcrd氏には韓国語版も妥当な記述に書き換えて欲しいです。yasumi 2006年10月22日 (日) 20:33 (UTC)[返信]
乱中日記の3本で書いているので確認してください。“佐伯市史”の158pも参考になると思います。alcrad 2006年10月23日 (月) 15:43 (UTC)[返信]
意味不明。1805年のトラファルガー海戦の司令官・艦長の戦死・捕虜はイギリス側3人に対してフランス・スペイン艦隊は26から29人に上り、10倍の差が勝敗を裏付けています。露梁海戦の明鮮軍には李舜臣以外の多数の指揮官の戦死が出ましたが、日本側で死んだ指揮官の名前は提示されていません。果たして優勢なのはどちらだったのでしょうね?貴方が例として提示したトラファルガー海戦と比較しましたが理解できませんか?yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
被害なかったという根拠を提示して下さい。それは、“壬辰録”“事大文軌”“乱中難録”などに書いています。また乱中日記の111p~112pの訳者の補充説明も参考してくたさい。alcrad 2006年10月23日 (火) 19:15 (UTC)[返信]
私は露梁海戦で島津軍の被害が皆無とは主張していませんが、それ以前に活躍していた武将達が露梁海戦で戦死していないことを知っています。alcrad氏の提示史料は非管理数値であって信頼でき無い物です。自称「勝った」なので全体を把握していたわけでもないし管理責任のない数値は批判されなくてはなりません。 実際に露梁海戦に参加した大名、島津義弘・立花宗茂・宗義智、寺沢は全員生還。主要武将でも島津忠長、樺山久高、伊集院忠真、種子島など皆生還しています。 トラファルガー海戦では主要人物の被害がイギリス:フランス・スペインで約1:10(参考 船舶損失0:22、死者449:4480、負傷者1214:2250、捕虜0:7000)となりましたが、露梁海戦では具体的に日本側の誰が死んだのでしょうか?yasumi 2006年10月25日 (水) 03:38 (UTC)[返信]
露梁海戦で日本側大名の死は確認できません。だが、壊滅な被害を受けたと書いています。上に名詞された書籍を参考お願いしたい。それと被害なかったという主張が大名中で死亡者いないから被害ないと仰るが、貴方の主張の根拠を提示して貰いたい。alcrad 2006年10月25日 (水) 18:22 (UTC)[返信]

第二 あいまいな表現また、自国弁護や史実歪曲[編集]

 あいまいな表現また、弁護は史実を隠す、歪曲するところまでみちています。alcrad

李舜臣に対する評価[編集]

。。日本軍を苦しめた。//李舜臣は“壬辰和乱”には決して外れるられない人物です、彼の功績は韓国たけではなく、中国やイギリス、アメリカまでその名が知られています、李舜臣は東洋海軍を体表する人物で“壬辰和乱&丁酉再亂”この7年間の戦争で一度も敗れたことなく、23戦23勝、驚く戦果を上げ、16世紀とは思われない艦砲術、艦隊運用術を揃え、世界海戦の歴史に名を揚げた人物だ。alcrad

根拠のない俗説は聞き飽きました。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
根拠のない俗説ではありませんが、記録、また国奇問だと思い海外の先生達が研究して、皆が知っている知識なんです。伺いますが、あなた方の根拠はなんですか?李舜臣は世界で知られでいるし、嘘の資料で世界を騙すことなんできません。昔の日本の前例もあるしね。今世界の歴史書で日本近代から世界に伝えた歪曲して古代史や中世史を乗せている国はいないよ。あなたの間違いよりは研究者たちの良心の問題でしょう。alcrad 2006年10月15日 (水) 11:31 (UTC)[返信]
残念ながら、貴方の李舜臣像は戦前の日本が軍拡のために流布した物語的な俗説と一致しています。研究の進んでいない欧米でも同じ物語や俗説レベルの情報源を使っています。その後、学術的な研究が進んで水軍の実態や李舜臣の実態が把握されたわけです。学問に良心は必要ありません、客観的な根拠と妥当性の評価があればいいのです。yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
もう言うことも無くなりましたが?李舜臣に対した研究書でもなく、歓談な紹介書でも読んでみるがいい。一致しないのは誰の記述なのか?自分は客観的な根拠と妥当性で記述しておりますが貴方が書いたのは証拠がないじゃありませんが、日本水軍が強力だった根拠はなんです。あなたが記述した本文を読んで少し考えでみろ。alcrad 2006年10月15日 (水) 11:31 (UTC)
論拠を具体的に提示してください。私は小笠原長生や佐藤鉄太郎の著書などすでに読んでいますから、その引き写しのBalladの著書では李舜臣の名前さえ正確に記されていません。どちらにしろ朝鮮併合に始まる日本起源の李舜臣賛美は李舜臣の活動を理解して批評した物は殆どないのですよ、ちなみに戦術担当の秋山真之は李舜臣のことなど何も書いてませんでした。yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
記録の出展をはっきりしましたが。貴方が新たな学説を主張するなら、論拠を具体的に提示するべき人は貴方ですが。alcrad 2006年10月23日 (火) 10:23 (UTC)[返信]
意味不明。根拠と論理に妥当性がないのに結論を信じているのであればそれは妄想。yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
根拠もなく妥当性がないのに結論を信じているのであればそれは妄想だと思いますが?貴方の意味不明な根拠を提示して下さい。alcrad 2006年10月23日 (火) 19:18 (UTC)[返信]

陸上攻撃の効果[編集]

水軍攻撃は釜山攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した//釜山海戦、閑山島大捷を記述したらしいが、 この戦闘で勝ったのは朝鮮軍であり、特に“閑山島大捷”は世界四大海戦の1つである。(普通世界三大海戦と教えるところもいってさまざま違うが、普通世界四大海戦とすれば東洋では雄一の海戦である。)alcrad

まともな海戦での勝利は閑山島海戦程度でおそらく脇坂軍の1/3程度に打撃を与えたぐらいでしょう。それ以降の勝利は自称であり、日本軍の迎撃は機能したし被害を恐れて李舜臣の攻撃活動が縮小停止したのは事実です。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
これは明確にいって“水軍攻撃は釜山攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらない”嘘ですが?それと秀吉が閑山島大捷以来朝鮮海軍との戦闘を禁じますが?そちの意見はどうでしょう、むしろ日本軍が李舜臣を恐れ海軍を陸軍への戦略を変わったことが事実ですが、それで日本軍の補給が難しくなり、權慄[1537 ~ 1599]の“幸州大捷”で石田三成,加藤淸正などの3万兵を撃破するによって流れが変わりソウルを守り日本軍は釜山まで怯むことになる。その以前1593年 1月、明軍の“李如松”が平壤攻撃で成功したが、その後”小早川隆景”で破れ、平壤に後退し講和など消極な活動しながら、その年の末、本国に帰国する。”平壤攻撃”は明の援軍の実績の中でも優れた成果で、その後の明軍の活躍は目立たない、むしろ戦闘に積極的でもなく、村を襲ったり、民の財産を略奪などの迷惑から、權慄の主張を無視、戦闘区域から勝手に撤収するなど軍事的にも役に立たず、朝鮮軍が動き成果を上げないと付いて来なかった。各地から不満が相次いたため、一般民から武臣たけじゃなく、明軍を呼び出した文臣さえ不満感や不信感が高まった。alcrad 2006年10月15日 (日) 11:46 (UTC)[返信]
元々日本には海戦用の艦隊は準備されていませんでした。釜山西方の守備部隊が使っていた海上移動船が李舜臣に襲われてから戦闘用の水軍が編成されたのです。
そして最初の海戦である閑山島海戦の結果を元に攻撃戦術から防御戦術に転換しましたが、それは成功し李舜臣の攻撃は効果がなく被害が多いために朝鮮水軍の活動は激減しました。朝鮮水軍の活動は作戦全体に殆ど影響を与えませんでした。水陸並進作戦も柳成龍の根拠ない妄想ですし。
ちなみに日本軍の補給困難と李舜臣の活動は殆ど関係ありませんから。これも俗説ですが、根拠無しにまだ信じているのですか? 幸州大捷の幻想も信じているみたいですし、一度地図と年表で戦争の経過を確認してみては如何でしょうか?yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
ま、今になっては、返す言葉もなくなりました?。根拠ない妄想でまったく理解不能です。それに海の向こうにある、戦争するのに戦艦がなかったというとは想像も付かないですが。それも当時高い鉄砲を持っていくのにな。alcrad 2006年10月19日 (木) 15:55 (UTC)[返信]
貴方の文章では事実を捧げる証拠がないんですね、閑山島大捷は1592年7月 7日で起こった戦闘で、元均の久遠により、李舜臣(48隻)が兵を動き、日本軍と合戦し大勝した戦闘である。前回敗北を挽回するため日本軍は兵力を増加した。7日夕方、第1陣の脇坂安治(70隻)、第2陣の九鬼嘉隆(40隻)の艦隊を引っ張って見乃梁に入ったという情報を入手した、朝鮮艦隊は李舜臣は閑山島の沖に誘引する作戦を立て、8隻余りの板屋船で誘引作戦に成功。予定の範囲内に入ると、あの有名な“鶴翼陣”で、日本艦隊に突撃し、日本軍は66隻当たる戦艦を失った。敵の首は86級、ほか水に暴れた敵は数百人および、逃げ出さなかった400余りは閑山島に隠れ、13日間引きこもって、やっど脱出する。この戦闘により、南海の制海權は李舜臣が握ることになり、日本の水陸竝進計画は そもそも大捷でいうものは合戦して大勝したことを大捷と呼びますが基本的な知識もなさそうですね。alcrad 2006年10月19日 (木) 23:26 (UTC)[返信]
最初の海戦である閑山島海戦//ここまで来ると醜いで、自分が辛くなりました。最初の海戦が閑山島大捷でしたっけ?alcrad 2006年10月19日 (木) 23:38 (UTC)[返信]
戦闘用の艦隊同士がが対決した本格的海戦は閑山島海戦が初めてです。韓国人がそれ以前の海賊行為を海戦と呼んでいるのは知っていますよ。あなたが具体的に誰がどれだけ被害を受けたか、そしてどのような影響を受けたか理解しているか疑問ですがね。yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
それは妄想です。閑山島大捷以前にも、7戦に及ぶ戦闘をしました。また、プロイスの記録も役に立つと思います。alcrad 2006年10月24日 (火) 19:22 (UTC)[返信]

。”幸州大捷の幻想も信じているみたいですし、一度地図と年表で戦争の経過を確認してみては如何でしょうか?”權慄と李如松について書いたのは君ですね、年表を確認する必要があるのは君だが?戦争の経過も知らずに書くのも塞げた真似だと思うが、確認してみるがいい。不満なら一々あげようか?alcrad 2006年10月19日 (木) 15:55 (UTC) 2-3.上陸集結前の日本軍を攻撃する命令に抗し、攻撃命令を無視し続けたため更迭解任され、白衣従軍(一兵卒に格下げされ功を以て罪を雪ぐ立場)となった。//この部分ははっきりした説明がなっでいない。また、無視という表現に問題がある。[返信]

命令系統の上位からの命令を無視したので更迭されました。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
李舜臣はそ命令に抗した理由を王朝にちゃんと伝えました。それを“無視”で言う表現を使うべきじゃないと思うし、そもそも正しい言い方とは言えません。ならば天皇を無視し続けた日本の権力者達は何です。alcrad 2006年10月18日 (水) 12:00 (UTC)[返信]
「無視」でないなら「拒否」なのですが、命令受領責任者が命令を無視して実行しないのであれば処罰されるのは当然です。李舜臣は王朝に使える軍人にあるまじき軍律を乱したので処罰されたのです。同じように慶長の役の序盤で元均も上級司令部からの攻撃命令を無視して鞭打ちの処罰を受けています。
何故、突然天皇が引き合いに出されるのか理解不能。話題逸らしですか?yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
人として失格だな。多い人たちが目にするそれなりの責任感が必要だと思うが。alcrad 2006年10月19日 (木) 15:55 (UTC)[返信]
alcrad氏の得意な人格攻撃ですか?李舜臣が命令を無視した更迭・刑罰に服したのは事実です。yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
無視いう表現は韓国の人たちにとって人格攻撃と考えないのか?alcrad 2006年10月23日 (月) 16:06 (UTC)[返信]
李氏朝鮮の枠組みで命令遂行の責任者が上級命令者からの命令を無視しました。客観手事実であり、「無視」という言葉に人格攻撃など存在しません。yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
大変感情的ですね。しかし“無視゛と表現では相手を下向きする表現ですぞ。また、国の政情を論する時、得に外国人が他国を示すとき使うべきではないし、百科事典でも使うべきではない。自分の過ちを認めて、正しく直すのが、正しい礼儀と思う。また李氏朝鮮は日本の帝国主義の残債と存じます、正しい訂正をお願い申します。alcrad 2006年10月24日 (火) 19:29 (UTC)[返信]

慶長の役[編集]

1597年に李舜臣の後任の水軍統制使元均が朝鮮王朝の攻撃命令を嫌がりながら遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗//その後任の水軍統制使元均が李舜臣を罠に嵌められた人物である、李舜臣の後任で水軍統制使になった元均だが、元均の伝言を王朝では信頼し、また攻撃命令を下すが、元均は弁明をしながら出陣しない。元均の行動に腐心感を感じた王朝から責められた元均は出陣するが、李舜臣がやっと整備した朝鮮戦艦を漆川梁海戦でほとんど撃沈することになっでしまう。彼はこの戦闘で戦死する。また、この戦闘により日本軍が釜山に入り、全羅道を通じて北に進めることになる。これが丁酉再亂の始まりとなる。alcrad

本文に対して何を改正したいのか理解不能。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
朝鮮に日本軍がどうやって侵略したのかが過程を省略してますね、それに比べ、日本軍が入った区域から撤収しているのに朝鮮軍を撃破しながら南に撤収したとあなたは記述してるが?可笑しくありませんか?alcrad 2006年10月18日 (水) 12:11 (UTC)[返信]
慶長の役の推移については別項目に掲載されているし、本文にも要約が載っている。日本軍の計画と実施実態も知らずに語られても困ります。yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
退却するのも“計画と実施実態”であることは初耳だな?むしろ君の歴史観に驚いたよ。それで逃げたのか。alcrad 2006年10月19日 (木) 23:46 (UTC)[返信]
全州会議と井邑会議の結果を学習してください。まさか日本軍が1597年に打撃を受けて撤退したとでも信じているのですか?yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
はい、そうです。退却する理由が秀吉の死であるのは表面の理屈に過ぎません。それほど忠誠感が高い大名の多半数が死後、秀吉を裏切るなんでね。当時日本も朝鮮出兵により、苦しんでいた。それはプロイスの記録でも記述しています。でよりは現実と合ってないからですね。貴方、民族主義ですか?alcrad 2006年10月23日 (木) 16:29 (UTC)[返信]
文章が理解できませんか?1597年の慶長の役の進撃と南部布陣は秀吉が生きている間の出来事です。ちなみにそのころルイス・フロイスは死んでいますので何が言いたいのか理解できません。ルイス・フロイスも日本側の被害の殆どは疫病などであり、戦闘での損失はごく僅かと記録しています。本当にルイス・フロイスの「日本史」を読んだのですか? 根拠となる日本武将が行った会議の名前も提示しましたが、日本軍の南部布陣は計画的な行動だったのです。yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
(ーー;)ふつう・壬辰和乱と呼ばれるこの戦争は7年間の戦争ですそれを忘れないで下さい。ルイス・フロイスの「日本史」は読みましたが、むしろ貴方の方が読まなかったようですね。alcrad 2006年10月24日 (火) 19:37 (UTC)[返信]

第三 特定国家&民族をする記述行為[編集]

これは軍事政権下の力の象徴として設置されたと言われる。//alcrad

軍事政権に限らず、韓国政府が李舜臣をプロパガンダに利用しているのは事実。yasumi 2006年10月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
この人物の説明にいらないものです、上の記述は彼を評価するよりは彼のイメージの梳るために入れた方が、正しい見解だと思いますが?。alcrad 2006年10月18日 (水) 11:12 (UTC)[返信]
主題の歴史人物が政治利用された実例です。しかもお札のデザインに利用するなど顕著な例です。yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
もし李舜臣が犯罪者であれば、君の意見を認めるが、なんの罪もない歴史人物が政治利用されたけでこんな記述まで使う必要があるのか?もともといらない説明を入れるのは、外国人でそんな風に押し込めで悪い印象を与えるたけだ。それが君の狙いだろ。alcrad 2006年10月21日 (土) 9:46 (UTC)
罪が有ろうが無かろうが、韓国政府や韓国人が歴史人物を政治利用した顕著な例であり記述は妥当。yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
李舜臣の説明には不必要な記述です。歴史人物の歪曲たけでは済まないことですね。alcrad 2006年10月22日 (日) 19:24 (UTC)yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]


鳴梁海戦[編集]

あの北島万次氏の乱中日記は完訳でこざいます(・v・)。なんか間違いあるそうですね、それとYasumiの主張は乱中日記であるではなくインタネットの情報集まりしか見えないが。
鳴梁海戦で大勝したはずの李舜臣がなぜその後西海岸を北上し続けているのでしょうか。//鳴梁海戦で勝利より、西海岸の進入が可能になった戦闘ですが(-.-)。西海岸の進入した理由は日本の補給を断ち切り、陸軍どの協同作戦を実施するためであります。鳴梁海戦成果で日本軍の補給や久遠が難しくなり、戦いも貧しくなってきます。それて日本軍は“慶尙道・全羅道”南下しますが結局、蔚山戦闘でやぶれ(1次日本側の勝利)、加藤は逃走、残ってい小西の残党や久遠軍との南海で李舜臣を包囲攻撃を巧みますが、小西の逃走により、戦況が難しくなり、ほぼ壊滅されることになりますが。それを不正出来ことはできません。ぼくはただ正しい歴史認識を持ちたいたけなんです。
漢文原文も掲載されており、そして高校卒業程度の学力のある日本人であれば直接その意味を理解することも出来るのです//お笑いですか?自分が日本で歴史関連の勉強をしていますが、古文書は先生たちにもけっこう難問なんです、現在日本漢字もちゃんと読めない高校卒業程度では無理ですね。それと根拠もってくれといったのに誰ももってこないんですね。そろそろ、このみせ情報を消すか、自分に本文のやり直しを任せるか決めたいんですね。alcrd 2006年10月22日 (日) 10:52 (UTC)[返信]
 それでは李舜臣の鳴梁海戦後の行動経路を”乱中日記”の記述に基づいて地図上で示している次のサイトがありますので、お持ちのハングル版乱中日記と照らし合わせて確認してみて下さい。http://yasoshima.hp.infoseek.co.jp/index.html#4-6
 ショックかもしれませんが、これが韓国の国定教科書には決して記されることのない”史実”です。Jinzuu 2006年10月22日 (日) 02:14 (UTC)[返信]
alcrad氏の編集回数が多すぎてコメントが付けにくいし、マナーを憶えてから書き込んで欲しいです。それと建設的に記事をどう書き換えたいのか、何が不当で何が妥当であるのか、その根拠の提示と共に議論の明確化を計って欲しい。すでに議論や項目の整理に費やした労力が報われず失望しています。yasumi 2006年10月22日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
....逃げでも無駄なのに自分の妄想が壊れるのが怖いのか。なぜ消した?ま、でもこのサイトは保存ができるからな。見たい人は履歴をみれば分かるし、安心だ。これで終わりね。あそうそう日本語版ですけど、結構笑いものになったそうだね。君たちのおかけで、たまたまよっで来るよ。alcrd 2006年10月22日 (日) 12:37 (UTC)[返信]
(はい“ジョック”で聞こえます。やっぱりインタネット資料だったのか。ならば日本側では三つの奇問点を解かなきゃならない。一つ李舜臣の北上を止めなかったこと。二め、鳴梁海戦で日本の久遠軍はことにいちゃたのか。三め、日本が鳴梁海戦で勝利したどすればなぜ補給はほとんどできなかくなり北上は失敗になったのか?勝利したどすればね、可笑しいですね。それを意味することはなんだとお考えますか。alcrd 2006年10月22日 (日) 11:52 (UTC)

あそうそう、Jinzuuさんは嫌韓ですか?残念ですが、個人のインタネット資料を信じる人はいないと思いますが。alcrd 2006年10月22日 (日) 11:51 (UTC) たから最低、紹介本でも読みなさい。alcrd 2006年10月22日 (日) 12:07 (UTC) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3" より作成)

 根本的に勘違いされているようですが、あの行動経路の日付は李舜臣の”乱中日記”が出典であり、その旨明記されています。インターネット上で公開されているからと言って個人が妄想ででっち上げているわけではありません。どうやらあなたは、機械翻訳に拠らずに直接日本語あるいは漢字を判読することはできないようですね。
 なお、挙げられた3つの疑問点ですが、これらもまた思い込みと知識不足による勘違いばかりのようです。まず、1.戦闘意志が無く前夜の内に逃走してしまった相手(李舜臣)を追撃・捕捉するのは当時の艦船の能力では不可能です。 2.救援軍として編成されたのは露梁海戦での島津軍を基幹とした日本水軍であって、この鳴梁海戦での日本水軍ではありません。 3.鳴梁海戦の時点では既に日本陸軍は越冬のため半島南部への移動を開始しており(その途中で全羅道を制圧)、海路による北部への補給はそもそも計画されていません。
 日本で歴史を学ぼうと言うのであれば、韓国でこれまで学んできた歴史認識をまず疑ってかかることが必要でしょうね。Jinzuu 2006年10月22日 (日) 03:45 (UTC)[返信]
編集ミスを一回してしまいましたが、消された記事は何ですか?私は他人の発言を消すつもりはありません。むしろalcrd氏の文章体裁を補修しているのは一目瞭然かと思いますが?
所謂、鳴梁海戦とは海戦初頭に突入した日本の中型船の先頭部隊が李舜臣により打撃を受けた場面だけを切り取って語られていますが、この後に日本艦隊の本体が進出することによって李舜臣は撤退し右水営基地は陥落します。李舜臣は6日連続で撤退し、日本艦隊は全羅道西岸を蹂躙し洛月島の辺りまで征服しました。その後に陸軍も水軍も南岸の守備戦略に転換したのは基本戦略の通りです。
どう編集したいのか、発議者のalcrd氏は一度ノートを整理すべきでは?yasumi 2006年10月22日 (日) 04:05 (UTC)
 1.戦闘意志が無く前夜の内に逃走してしまった相手(李舜臣)を追撃・捕捉するのは当時の艦船の能力では不可能です。//根拠はなんです。それに鳴梁海戦より朝鮮水軍の再編したとしても可笑しくないがね2.鳴梁海戦当時、日本軍は西海を通じ見方を援助するのができなっかのが正しい見方ですが。貴方の言いとおり、勝ったと設定しましょ。ならば李舜臣を追いかけることもできずにまた見方の援助もできなかった作戦の目的はなんですか。鳴梁海戦により制海権を失った見方が望ましいと考えますが(ーーzZ)。3....そんな大軍を引いたのは補給たけだと、思い込んじゃ困りますよ。それと戦闘の基本知識だと思いますが、日本陸軍は全羅道から北上してはいるか、重要軍団が集まっている。ソウル攻撃には無理が上智であり、鳴梁海戦で大敗したことで久遠やもちろん、補給(食べ物たけが補給だと思うならドホホ~)もできなくなったんではないでしょうか?南海の制海権が日本軍にあったとしたら鳴梁海戦で勝利したならば、藤堂高虎の日本水軍はなぜ見方を久遠できなく、また新たに編成された島津軍が救援するのか。alcrd 2006年10月22日 (日) 13:23 (UTC)[返信]
ほう~、行動経路が後退と書いているのは妄想ではなくて?alcrd 2006年10月22日 (日) 13:40 (UTC)[返信]
 救援軍という言葉が何を意味するのかについて意思の疎通が取れていなかったようですね。どうやら当時の水軍の編成や兵力に関する知識が全くないように見受けられますが、慶長の役における藤堂高虎ら日本水軍(船手衆)の総兵力は定員で7200名であり、さらにその半数以上は戦闘員ではなく水夫です。つまり日本水軍の当時の兵力は実質3000名程度に過ぎない訳です。この程度の小兵力を以ってして、万単位で戦闘行動を行っていた陸軍部隊の”救援”が目的であったと主張するのは全く馬鹿げています。
 ちなみにこの鳴梁海戦について、当の李舜臣自らは戦果として31隻を撃破した(撞破)と「乱中日記」に記しているのみにもかかわらず、隻数については31隻”撃沈”に加えさらに90隻余を撃破、そして8000~12000名の日本兵が死亡したというしたという大幅な水増し捏造がまかり通っているのが韓国史学界の実態ですね。Jinzuu 2006年10月22日 (日) 08:20 (UTC)[返信]
朝鮮側の記録である看羊録、海上月峯録を確認したら如何でしょうか?
全羅道西岸の民衆は李舜臣は日本水軍の大軍にかなわないので北に行ってしまったと認識していますし、日本水軍の北上によって姜沆や鄭希得など有名な人物が捕虜になっていることも乱中日記の李舜臣の動きと合致します。
鳴梁海戦で李舜臣が撤退して制海権を失ったことにより、1597年9月の全羅道西岸は日本水軍に征服されています。yasumi 2006年10月22日 (日) 20:33 (UTC)[返信]
鳴梁海戦で李舜臣が撤退して制海権を失ったこと//根拠を提示してもらいたい。なぜその考えをするのか、根拠も提示すれば、読んでみますので宜しくお願いします。alcrd 2006年10月23日 (月) 21:05 (UTC)[返信]
鳴梁海戦で李舜臣が制海権を失って日本水軍が全羅道西岸を蹂躙したのは上記の通り事実です。上記の通り、日本側の史料にも朝鮮側の史料にも記録されたことです。yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
毛利高棟文書の文書ですけと、1597.09.19加藤が全羅南道まで降りてくる事態がパンタジーであり、またその日には戦闘がなかっかんですが。最低本でも読んで書くとありがたい。alcrd 2006年10月24日 (火) 19:48 (UTC)[返信]
加藤嘉明ですね。残念ながら日本軍が鳴梁海戦勝ったという戦果報告の根拠はないです。もし、あるとしたら日本としては宝物であり、乱中日記の真実性が疑えますが。もし嘘の戦果報告記録ならば有り得るかもしりませんね。(歴史的価値はない)確かプロイスの加藤と小西や他の大名達の功労分けのけんか記録ように。alcrd 2006年10月24日 (火) 20:26 (UTC)[返信]
他の記録とも一致する文書記録をファンタジーと論ずるとは非論理的です。日本や朝鮮の複数の情報から鳴梁海戦で日本水軍は右水営を攻略し、黄海方面へ進出する裏付けは取れています。看羊録等の根拠は提示した通りですが、alcrad氏が読めないからと言って鳴梁海戦の結果を否定する材料にはなりません。日本水軍の武将達は軍監のチェックを経て秀吉から褒賞されています。慶長の役の日本水軍は全州会議で目標とされた務安咸平まで進出しその目的を達成しています。yasumi 2006年10月25日 (水) 03:38 (UTC)[返信]
加藤を勘違いしました、誤解を解いて下さい。日本の情報や朝鮮の情報で10月の半ばくらい、海南で日本軍が略奪するが、朝鮮水軍が(李舜臣ではない)現れ追い出したと記録があり、李舜臣が進入を許した指揮官問責するのも記録しておりますが?日本のどこの記録で鳴梁海戦の大勝記録がありますか?alcrd 2006年10月25日 (水) 18:36 (UTC)[返信]
自分が佐伯史を参考したい申した理由は、上の個人のホ-ムページで書いている、鳴梁海戦で大勝利の件ですが、佐伯史の“毛利家の古文書”がありますが、李舜臣に大破し包囲されでいた味方を救った、位の戦果に過ぎません。alcrd 2006年10月26日 (木) 18:13 (UTC)[返信]

出典[編集]

率直にいって、Alcrad氏の偏狭な民族主義には嫌悪感を覚えます。 自説を記述するのであれ、他者の記述を否定するのであれ、資料や出典を明記して下さい。 ファンタジー小説を読んでいるのはあなたではないでしょうか。まひと 2006年10月20日 (金) 12:02 (UTC)[返信]

正直にいいますが、根拠もない、資料や出典を明記しなかっのは誰です?。英語版でも読みなさい。そこには自分より詳しい方達が記述しているし、資料や出典も書いていますが?自分か分かっている資料は乱中日記、懲毖錄、朝鮮王朝實錄など、当時戦況を記録している本が出典ですが?私はただ間違った情報を直したいたけ、日本の歴史を踏みつけたり、冒瀆するつもりではこざいません。alcrd 2006年10月21日 (土) 16:34 (UTC)[返信]
歴史を妄想で書くのは犯罪と存じますが。alcrd 2006年10月21日 (土) 16:44 (UTC)[返信]
英語版をお読みなのであれば、それを元にWikifyされた文章を書けば良いのではないでしょうか。Wikipedia:個人攻撃はしないというルールの存在はご存知ですか?Real Madrid 2006年10月21日 (土) 10:46 (UTC)[返信]
一方の側の記録のみが正しいものであると主張して、他方を間違っている、あるいは歪曲だと断じる姿勢は妄想あるいはファンタジーと揶揄されても仕方がないと考えますが。Jinzuu 2006年10月21日 (土) 11:28 (UTC)[返信]
Alcrad氏の上げた資料は原典ですね。ということは、記述はそれらの原典についての自らの研究成果なのでしょうか?それは学術的にどのような評価を得ているのでしょうか?甚だ怪しいですね。Wikipediaでは、自らの勝手な研究成果ではなく、現時点における最新の学術的定説を最優先で記述するべきと考えます(もちろん、Alcrad氏が既に学術的な評価を得た学者であるならば別ですが)。Alcrad氏が参照すべき資料は、原典ではなく研究書です。--まひと 2006年10月21日 (土) 15:37 (UTC)[返信]
一方の側の記録たと仰いましたが、貴方はYasumiの主張が合っていると考える理由をを聞きたい。たとすればYasumiの根拠はなんです、日本のなかでもそんな風にいえる人がいること自体が可笑しいと思いますが(当然か)。個人攻撃をしたことは申し訳ありません。はっはっは話もならない知識で歪曲された歴史を押し込める。確かに古代史や近代史はあまりも有名だから知ってはいました。たが、中世まで、とはね。Real Madridさん僕が書いたことと英語版と違いないですが。この記事を見て誰が“偏狭な民族主義”だと思いますかね。彼の出生地まさえ自分たちのつぼで、間違った情報を記述するのが日本の正しい歴史ですか?。alcrd 2006年10月22日 (日) 01:24 (UTC)[返信]
まひとさん。Yasumiの根拠について聞いているんです。なんでこんな考えをしているのか。もともと正しい取調べなら、聞いたこともないYasumi主張の根拠を聞くのがふつうだとお考えならないでしょか?。Yasumi主張の根拠がキーワドです。ひとつ聞きましょう。日本軍が被害しなった、資料は?なんです。それと原典たけで研究成果がなければ、日本の古代史ようになりますぞ。私は中世の研究者ではない。ただ確かなことは李舜臣の活躍より日本の水軍は壊滅されたことよ。それを不定できるのか?根拠はなんだ。それをお聞きたい。alcrd 2006年10月22日 (日) 01:10 (UTC)[返信]
論文고 순(1974)・김기영(1999)・김세앙(1998)・주창활(1978)~などなど。日本の研究者では北島万次さんが有名だそうです。探してみたら?。alcrd 2006年10月22日 (日) 01:18 (UTC)[返信]
 北島万次氏は教科書問題を始め韓国側の立場に立った日本人研究者としては非常に有名ですね。なにしろ費用韓国持ちでの半島での研究委託を受けてますから。(笑) ちなみに、あなたの挙げたのは全て朝鮮側の記録であって、それらは李氏朝鮮、また著述者の立場を反映した主観による記述であるとして扱うのが基本です。相対する日本側の史料検証を全く行わずそれが史実だと主張するのは韓国では受け入れられても日本では馬鹿にされるだけですよ。
 例えば、”乱中日記”をお読みになっているようですが、それでは鳴梁海戦で大勝したはずの李舜臣がなぜその後西海岸を北上し続けているのでしょうか。変だと思いませんか? あるいはあなたがお読みになっているのであろうハングル版の”乱中日記”ではその部分が検閲削除されているのでしょうか。あなたが先の編集で削除した日本語版”乱中日記”には日本語訳のみではなく李舜臣自身による漢文原文も掲載されており、そして高校卒業程度の学力のある日本人であれば直接その意味を理解することも出来るのです。加えて言うなら、この日本版の訳者はあなたの推薦する、かの北島万次氏なのですけれど。(笑)Jinzuu 2006年10月21日 (土) 17:26 (UTC)[返信]
史料で提示された乱中日記、懲毖録、朝鮮王朝実録、前2書は廉価で購入していますし、実録も関係箇所は概ね本文と訳文の双方を確認しています。
それ以外にも明史、乱中雑録、壬辰録なども目を通していますし、研究書では参謀本部「朝鮮役」、徳富猪一郎「秀吉」、李炯錫「壬辰戦乱史」、北島万次や中野等などの一連の研究書や日韓歴史共同研究の第一次発表なども踏まえての書き込みですよ。
alcrd氏は何を根拠に編集文を作成しているのでしょうか?yasumi 2006年10月22日 (日) 20:33 (UTC)[返信]
Yasumi氏は何を根拠に編集文を作成しているのでしょうか?
一丁述べると乱中日記(北島万次、平凡社)・[디지털한국민족문화대백과사전], 동방미디어, 2001・またnaverの百科事典、daumの百科事典(個人のホームページや、フリーの百科と比較すると困る。)を参考にしてます。日本側の記録は頼んではましたか、乱中日記のように有名な物はないそうです。直茂公譜考補、毛利高棟文書を学校図書館で探しましたが、なかったんです。日本書紀なものですかね。alcrd 2006年10月23日 (月) 12:41 (UTC)[返信]
どうやら貴方は史料をご存じないし、本文を読む能力もないようです。そんないい加減な根拠で書き換えられては迷惑です。yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
資料は持ってますよ。借りた本だけど、日本語版“壬辰和乱”があり、わずかな日本の記録“佐伯史”も読みました。それと常識の纏まりである百科事典もね。alcrd 2006年10月24日 (火) 19:41 (UTC)[返信]
佐伯市史は史料ではありません。研究書だとしても内容次第ですから原典を示して妥当性を批判すべきですし、具体的に誰の何という記述であるのかさえ提示しないのでは議論が成り立ちません。出直して下さい。yasumi 2006年10月25日 (水) 03:38 (UTC)[返信]
ほう、ならば上に提示している物も単なる検証も付いていない、“古文書”に過ぎません。むしろそんな資料があるのに隠す方が可笑しいと存じますが。alcrd 2006年10月25日 (水) 18:27 (UTC)[返信]
また“佐伯史”大分の歴史として、検証が済んだ“古文書”や歴史を記述していますので、どうぞ確認して下さい。alcrd 2006年10月26日 (木) 18:18 (UTC)[返信]

その他[編集]

 記述した者は多分、ファンタジ-小説だらし読んでいるか、それども日本の教育の問題でしょう。 自分はこの内容すべて貯蔵しています。万一、不公平な行為が行われる場合、私もそれなりの処置するつもりです。 以上の理由で記述削除や他の地域版の記述で変更をお願い申します。またこの歴史歪曲問題は李舜臣に限られた問題ではなく、近代頃から始まった、戦前日本の歴史観がまた生き続いているこどを承知しました。そのおまけにウィキに深い失望感を隠しません、残念なことです。 利用者:Alcrad 2006年10月14日 (土) 06:20 (UTC) 署名追記Faso


そもそも、Alcradさんの編集がrevertされたのは文章の内容よりも、文章の形式が問題だったと思います。例えば、目次を見づらくするようなこのような編集とか。合意提案に関する文章の内容に関しては判断を保留しておきます。--経済準学士 2006年10月15日 (日) 12:06 (UTC)[返信]


リアルタイムに思いついたまま19回も編集するのでなく、充分に推敲を行ってから編集することをお願いします。ルールもマナーにも違反する行為です。また、プレビュー機能も使って確認をして下さい。yasumi 2006年10月19日 (木) 01:19 (UTC)[返信]


alcrad氏にお願いしたいのですが、IPで署名を捏造するのではなく、きちんとログインしてから署名して下さい、本人確認がとれません。--Snow steed 2006年10月19日 (木) 16:04 (UTC)[返信]


すいません、マナーを守らなかったのは深く反省しております。でも、いくらフリー百科事典といえ、事実ではなく、根拠もない作り話書く利用者が多数存在しているのが、より深刻な問題と思いますが、皆さんも“李舜臣”について調べればYasumi氏が記述した内容で事実と合っている内容はないことに気付いているとおもいますが、来週なら、先生に頼んで“秀吉出兵”について伺うつもりです、それとYasumi氏が主張している、根拠はとこにいるのかも見つかればよりいいですね。alcrd 2006年10月20日 (金) 12:27 (UTC)[返信]


先生に聞く際には、どのような文献にその情報が載っているかについてもきちんと聞いてください。先生が話していたからではWikipedia:検証可能性を満たせません。--Snow steed 2006年10月20日 (金) 11:53 (UTC)[返信]


自分が先生に聞く意味は、Yasumiの妄想主張の根拠がとこから始まったのか、知りたいだけです。インタネットたけならいいけど、日本では近代の犯罪についても認めないし、そんな本もふつうに出版しているからね。李舜臣の公式情報なら、馬鹿でもすぐ手に入れるんですけど、Yasumiの主張に合う内容はないです。歴史を妄想で書くのは犯罪と存じますが、日本では歴史歪曲は古代からの伝統文化ですね。alcrd 2006年10月21日 (土) 18:13 (UTC)[返信]


「歴史歪曲は古代からの伝統文化」の論拠は何でしょうか?出典を求める割に、ご自身の言動は伴っていないようですね。「李舜臣の公式情報」とは何が公式で何が公式ではないのでしょうか。いい加減なcriteriaであれば、意味をなさないでしょう。そんなに情報がすぐ手に入るのであれば、ご自身で出典を明記して書けば良いでしょう。よく考えて発言されることをお勧めします。Real Madrid 2006年10月21日 (土) 10:46 (UTC)[返信]


alcrd氏は、やはり李舜臣を世界史に燦然と輝く民族の星であるとアピールしたいのだと思います。 しかし、歴史をプロパガンダに利用することは間違っています。 国民総民族主義者である韓国における歴史研究は無条件で正しく、豊富な資料と学者層の厚い日本における歴史研究はすべて間違っているというような思い込みをまず排するべきです。 李舜臣を過大評価する必要はないし、過小評価する必要もないのです。 alcrd氏は、例えば朝鮮出兵が基本的に日本と明の戦争であるということさえ知らない人なのではないでしょうか。 もしそうであるのなら、alcrd氏はこの項目について記述する人物として相応しくないばかりか、極めて有害です。 まあそれ以前に、Wikiにおけるマナーやルールも知らないのだから仕方ないのかもしれませんが。--まひと 2006年10月22日 (日) 07:28 (UTC)[返信]


まひと自分が何か間違った事実を話しましたか?なんぜ世界の目は見ないんですか?韓国側が検証できない資料で言い張るとすれば、過去の日本の歴史捜索したことと同じく世界から受け取れなくなるんでしょ。Jinzuuさんの根拠を提示して下さい。韓国の資料の間違いがあれば直すのが正しい歴史観ですから。国民総民族主義者の歴史研究は無条件で正しいと言ってません。確かに韓国側でも話もならないいかにもそうらしい資料で人達をごまかすやつはインタネットでは多くあります。たな、そんな人間のつくり話が事典で乗るんですか。世界で知られて研究とはね、嘘はすぐばれます。恥ずかしいながら韓国でも世界の英雄とし愛された研究者の嘘は韓国のメディアで掴またのです。日本でもそんな考古学者を掴んだとしています。僕は日本の大学で歴史を学んでいますが日本中でも過去の間違いに気づいて古代史から、研究者の中心で直しているのです。若い貴方たちがこんなでは日本はどうなるんですか?Jinzuuさんならばインタネット上ではなく研究書や論文でも書いてください。日本の水軍が3000人位で制海権を失うほど間抜けな軍隊だったんですか。貴方の意見はむしろ穴掘る行動と思いますが。alcrd 2006年10月22日 (日) 18:30 (UTC)[返信]


なんの議論をするにしろ、まず初めに重複やインデントなどのalcrad氏が破壊したノートを整理を要求します。議論以前にルールを守れないのでは参加者失格です。yasumi 2006年10月22日 (日) 09:09 (UTC)


もはや議論にもなっていないので、ここら辺で止めてよろしいのではないでしょうか。幼稚な国民性を否定するものではありませんが、感情に任せて放言しても人は動かせないと思いますよ。一先ず、コミュニティにはルールがあります。ルールを守れるようになり、正しい日本語を学んでから、また編集に参加して下さい。本件は編集以前の人間性を疑う問題です::Real Madridさんに賛成します。まず「日本の資料は間違っている」という先入観があるかぎり議論にはならないと思います。現在の記述に問題があるなら、感情論で攻撃するのではなくソースを提示して間違い点を指摘すればいいだけの話です。--Redpepper 2006年10月22日 (日) 11:18 (UTC)[返信]


日本は太平洋戦争後、民族至上主義的な歴史観を克服しました。60年遅れていますが、今度は韓国が民族至上主義史観を克服する番です。--まひと 2006年10月22日 (日) 10:20 (UTC)[返信]


韓国が民族至上主義史観ですか?その証拠はなんですか。韓国では妄想の事実は受け取りませんが、それは貴方たって分かると思います。日本の場合、近代から始まった歴史歪曲は戦後の教育から少しずつ直しているんですか。昔、真実たと教え込んた年上の授業では大きく感じますし、それに一般の方々は歴史教科書改正にも反対しています。日本の方が韓国より民族至上主義史観だとおもいます。それに日本は政治家、企業は右翼がきちんと握っているので、後戻りするんじゃないか心配です。。alcrd 2006年10月22日 (日) 19:40 (UTC)[返信]


古朝鮮なるものが妄想であることを知っていますか?
妄想だけではありません。都合の悪い事実を覆い隠してはいませんか?
新羅の建国に倭人勢力が深く関わっていることを知っていますか?
倭国と百済のパワーバランスがどのようなものであったのかを知っていますか?
加羅地域の前方後円墳を知っていますか?
高句麗が満州の歴史に属することを知っていますか?
半島の人々が中国人の名を用いるようになった時期や理由を知っていますか?
文禄・慶長の役が日本と明の戦争であったことを知っていますか?
どれほどの長い間半島の国々が中華帝国の属国であったかを知っていますか?
李朝末期の惨状を知っていますか?
日本との併合を望んだ人々がいたことを知っていますか?
韓国の人々は朝鮮民族が偉大であったと思っているようですが、歴史を見るととても偉大であったとは言えません。
この錯覚は民族主義至上史観がもたらしたものではないのでしょうか?--まひと 2006年10月22日 (日) 13:00 (UTC)[返信]


通りすがりですが、なんて言うか、双方とも非常に不毛なことを言い合っているように思います。論を具体的につめず、すぐ日本がどうの、韓国がどうのと国・民族を一元化した発言をしあう。日本人だろうと、韓国人だろうと優秀な人もいれば、そうじゃない人もいるでしょう。なんでひとしなみに扱うかな。

どちらもWikipediaのルールを守るのであれば、誰のどの論文あるいは著作にはこういう事が書いてある、という点を具体的にあげて論じていくべきでしょう。頁数をつけた方が親切だろうけど。それからその学説はすでに、誰それの論文で乗り越えられているとか、全然学会では認知されていないとかという風に論じていくべきかと。仮に韓国の学会と日本のそれとでは、意見が食い違うというのであれば両論併記するしかないでしょ。

あと個別の史料について、それをどう扱うかはここで論じられるべきではなく、ある研究者はこのように解釈しているとかいう風に書かないと独自の研究かどうかの判別がつかないとも感じます。そういう具体的なつめはルールに抵触するかと。

最後にまひとさんの「どれほどの長い間半島の国々が中華帝国の属国であったかを知っていますか」というご意見ですが、日本の朝鮮史学会だろうと中国史学会だろうと、朝鮮歴代王朝を近代的な属国として扱う意見はありませんよ。たとえば京都大学人文科学研究所教授の水野氏は李氏朝鮮について「李朝を日本の見解では「李氏朝鮮王朝は中国の属国だった」。こんなことを言っている人は日本の研究者でほとんどいません。「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちはそう言っているかもしれませんが、歴史研究者でそんなことを言っている人はいない」といっています。[1] また歴史学者だけでなく勢力均衡説で有名な国際政治学者ハンス・モーゲンソーの『国際政治』第五版、188頁などは、逆に「朝鮮はその長い歴史の大半を独立国として存在してきた」と明記しています。これらの意見について個人的に同意できないかもしれないけれど、少なくとも典拠のある学説です。

以上、Wikipediaで頻発しているかのごとく見える、そして金太郎飴のごとく相も変わらず同じ構造をもった意見対立について、生意気ながらコメントしました。では。--210.132.215.169 2006年10月22日 (日) 15:36 (UTC)[返信]


近代の話ではないのですから当然"近代的な属国"ではあり得ません。半島の国々が中華帝国の属国であったというのは主従関係についての単なる事実であって、学説や解釈の問題ではないのです。いくら"近代的な植民地"とは違うんだと解釈論へ話を逸らせて言い張ってみても、事実ばかりは覆せません。大韓帝国は一体どのように建国されたのでしょうか?ソウルの独立公園にある独立門を見上げて日本に感謝しろなどとおこがましいことは言いませんが、歴史的事実は正直に受け止めるべきです[2][3][4][5]。韓国人はこのような事実を隠そうと、あるいは希薄化しようとしますが、これがまさに、韓国における歪曲的民族至上主義史観なのです。--まひと 2006年10月22日 (日) 16:37 (UTC)[返信]


alcrad氏が修復しないので、alcrad氏の行った三重投稿の「その他」の項目を一方化しました。その他にもalcrad氏の破壊した体裁や著名付記を編集しました。「その他3」を基本に重複していない部分を追加しました。
「鳴梁海戦」及び「出典」に関する議論を項目分離しました。
議論が成り立っていません。特にalcrad氏は一度最初から読み返して「原文」と「文案」を併記し具体的な個別議論をお願いします。出来るだけ整理しましたが不足分は補完をお願いします。
また、ここで李舜臣に無関係な議論は止めませんか?yasumi 2006年10月22日 (日) 19:17 (UTC)[返信]


古朝鮮ですか?それ歴史と教えでいると仰るか?朝鮮の起源を説明には必要だと思います。また、貴方たちには残念ですが古朝鮮は中国の古文書でも登場する国です。確かに古朝鮮の実態は謎であり、それは現代の日本古代史とおなじです。alcrad 2006年10月15日 (水) 11:31 (UTC)[返信]


インデント戻します。なんか近代の話でないといいつつ大韓帝国や独立門を持ち出すあたり、また学説の問題で無いというあたり、学術研究についてはずぶの素人さんのようですが、まぁ個別にはつっこみません。Yasumiさんが言われるように、たしかに議論が拡散しますからね。しかしそういう短絡的ナショナリズムをむき出しで発言する限り、議論はループし噛み合わないでしょう。これはどちらの意見の人についてもいえることです。時間を無駄にしたくないので、もう発言しませんが、限られた人生を無駄に使わない方がいいですよ。では。--210.132.215.169 2006年10月23日 (月) 03:43 (UTC)[返信]


日清講和条約によって清との冊封関係から解放され属国の立場を解消し、大韓帝国を樹立したことが朝鮮半島における近代化の萌芽であるわけです。それ以前の、長らく中華帝国の属国であった時代は、当然、古代、中世、近世、前近代の話になります。わかりますよね?また、学説や解釈の問題ではないというのは、半島に興った国々が中華帝国の属国であったことと同じく、単なる事実です。マテリアルとしての文化財が存在する現実は学説によって否定されるものではなく、肯定されるものでもありません。形式上、名目上の宗属関係なのだから大したことはなく気に病む必要はないと講演で軽口を叩く人物はいても、このような歴史的諸事実までをも否定する歴史学者は存在しません。--まひと 2006年10月23日 (月) 06:06 (UTC)[返信]


当時、大韓“帝国”名乗ったのは、外国から主権を主張するためであり、民族の線を引き侵略したのは当時の“列強”です。勘違いしないでくたさい。それと、朝鮮半島における近代化は何をためたった:のか何を意味するのか?分かりますか?朝鮮の侵略し、土地を安い買い取り、国の主権を奪い、国が亡くなった人たちは強制連行された。ソウルは日本人が住む日本の領土になってきた。日本により、日本人を為の近代化であり、朝鮮により、朝鮮人の為の近代化ではなっかた。朝鮮は戦後、立ち上がった。それが正しい歴史観であり、日本が世界平和に先へ進む。第一歩である。alcrad 2006年10月23日 (月) 16:03 (UTC)[返信]


>大韓“帝国”名乗ったのは、外国から主権を主張するためであり〜
つまり、日清講和条約によって清との冊封関係から解放され属国の立場を脱し、初めてそうすることが出来た、ということでしょう?そして独立門を建てた。何か間違っていますか?
>朝鮮の侵略し
日本は朝鮮と戦争をしたことはなく、当然侵略もしていません。
>土地を安い買い取り
ビジネスとして何か不正があったのでしょうか?
>国の主権を奪い
恨むならば事大主義に毒された朝鮮人を恨んで下さい。
>国が亡くなった人たちは強制連行された
これは事実ではありません。ファンタジーです。そうではないと言うならば根拠を。
>日本により、日本人を為の近代化であり、朝鮮により、朝鮮人の為の近代化ではなっかた。朝鮮は戦後、立ち上がった。それが正しい歴史観〜
これは朝鮮人にとっての"正義の歴史観"ではあっても、客観的に見た"正確な歴史観"ではありません。これこそが即ち、歪曲的民族至上主義史観です。
--まひと 2006年10月24日 (火) 08:32 (UTC)[返信]


貴方の意見だとすれば九州の各地方で発見している韓半島式山城は韓半島の九州えの対した影響力や支配していたいう証拠になりますが。ま、それがふつうインタネットの実態かな。そんなに手を裏返るできないよ。根拠、物証、記録が一致しないと無理だね。。alcrad 2006年10月23日 (月) 16:20 (UTC)


alcrad氏の仰る"韓半島式山城"とは、白村江の戦いで敗北したあと、百済の残存勢力を使役して本国防衛のために築造させたとみられる一連の戦争用施設のことだと思います。これは飽くまで前線を意識した戦争用の施設であり、権力者の居住や権威の誇示を目的とした建築ではなく、権力者の実在を意味しません。そもそも、当時のヤマト国の支配体制がどのようなものであったかは既にほぼ明らかになっており、ヤマト朝廷以外の勢力が九州を支配したということはあり得ません。ちなみに百済滅亡後、百済最後の王子であった善光はヤマト朝廷に臣従し、持統天皇より官位が従五位下の下級貴族として"百済王(くだらのこにきし)"の姓を下賜されています。--まひと 2006年10月24日 (火) 08:32 (UTC)[返信]


Redpepperさんがこの記事の偏頗性を感じない人はないと思いますが。alcrad 2006年10月23日 (月) 16:34 (UTC)


文禄・慶長の役が日本と明の戦争であったことを知っていますか?//その根拠をお願いしたのですが、まだ応答がないのです。 alcrad2006年10月23日 (月) 16:36 (UTC)


そもそもこの戦争の目的は明の征服ですし、実際に戦ったのも大部分が明の軍隊です。そして、休戦、和平交渉も明と行っています。--まひと 2006年10月24日 (火) 08:32 (UTC)[返信]


高句麗が満州の歴史に属することを知っていますか?//中国では現在や昔の領土は(漢族ではないども関係なく)中国の領土だと認識で、台湾も併合するつもりですが。なぜ台湾は“反中”なんでしょう。 alcrad2006年10月23日 (月) 16:41 (UTC)


>中国では現在や昔の領土は(漢族ではないども関係なく)中国の領土だと認識で〜
文脈が不全で、意味がこちらに上手く伝わりません。--まひと 2006年10月24日 (火) 08:32 (UTC)[返信]


そのほかの根拠も提出してください。alcrad2006年10月23日 (月) 16:41 (UTC)


近代まで中国の影響力が届かない、国はないですが。高麗の場合、中国どの国境が近いたったのにも構わなく、皇帝の地位を使いました。朝鮮でも明の出戦要請を拒否した前例があります。alcrad2006年10月23日 (月) 16:53 (UTC)


宗主国へのささやかな抵抗を示す例すらこの程度しかないという歴史的事実を知り、同情を禁じ得ません。--まひと 2006年10月24日 (火) 08:32 (UTC)[返信]


いよいよ話がずれて来てしまいました。alcrad氏以外の利用者の皆様には申し訳なく思っております。ただ歪んだ認識や明らかな誤りは正さざるを得ないので、時間を見つけ次第対応します。ご理解、ご容赦下さい。--まひと 2006年10月23日 (月) 10:02 (UTC)[返信]


alcrad氏は根拠も論理もなく妄想を書き込むのは止めて頂きたい。マナーもルールも無視したまま迷惑です。私は貴方の破壊したこのページを二度修理しましたが、また破壊するつもりですか?基本事項を守れない蛮人は参加資格がありません。まず、韓国版でマナーとルールを使い方を覚えてから参加するべきです。また、根拠となる情報の検討も不足しているように見られます。
具体的に言えば、「ログインして、編集には著名を入れる」「書き込みたいことがあれば、小刻みでなく纏めて編集する」「書き換えたい事項の元文と改正案を提示してその根拠を提示する」「書き換える前にプレビューで確認し、最終盤を確認する」これらが出来ずに妄想だけで荒らし回るのであれば、最後には排除されるしかないでしょう。yasumi 2006年10月24日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
自分は根拠をちゃんと提示してます。それはこちらのノートをご覧になる皆さん方々がよりご存知なると思います。Yasumiさんの根拠が聞きたいんですがさかしてもね、右翼出版物は歴史の根拠にはなりません。それは日本に限った問題ではなく韓国、ドイツでも同じです。ただの自分満足に過ぎません。alcrd 2006年10月24日 (火) 19:55 (UTC)[返信]
残念ながら、ルールを守れない人はWikipediaには必要ないと思います。貴殿の姿勢では、何も生まれないでしょうね。Wikipediaは自己満足の場ではありません。Real Madrid 2006年10月24日 (火) 14:57 (UTC)[返信]
 ”右翼出版物”というのは何を指すのでしょうか。(苦笑) 先に”乱中日記”は非常に有名だけれど日本の記録は探すのに苦労する云々と言う言及がありましたが、これは見方を変えれば日本にはもっと有名で重要な記録がはるかに多数あるということであって、逆に韓国にはそれくらいしか民族の自尊心を満足させる記録がないということでしょうね。実際のところ、朝鮮の役に関心のある(ここに書き込んでいるような)日本人なんてのはごくごく少数派であって、街中でアンケートをとれば”李舜臣”なんていう名前を知っている日本人は百人に一人もいないでしょう。世界的に有名、なんていうのは失礼ながらそれこそ韓国人の妄想でしかありません。
 でもまぁ、個人的には李舜臣はごく普通に良将だと思いますが、それでも日記を書き直しているあたり、日記といいつつも人に読まれることを想定して書いているのが見え見えであまりに自己賞賛、自己顕示欲が強すぎて、韓国で一般的に言われているような清廉、高邁な人物とは到底思えないですね。書き上げる前に死んでしまったから日記の書き直しがばれてますけど、もし、露梁海戦を生き延びていたなら当然、海戦前夜に夢のお告げがあったとか、海戦前に将兵を叱咤激励したとかいったそれこそ講談向きに脚色した版しか伝わらなかったんでしょうねぇ。ま、こういうのもいわば”右翼出版物”というヤツじゃないですか?(笑)Jinzuu 2006年10月24日 (火) 15:15 (UTC)[返信]

alcrad氏は片務的要求や個人攻撃を停止し、一度全ての書き込みを上から順に読み直して内容を理解すべきです。alcrad氏のノートにもIPノートにも何度も警告がありましたが無視されているのが現状です。yasumi 2006年10月25日 (水) 03:38 (UTC)[返信]

承知します。個人攻撃を停止しますが、自分は間違った情報を直したいてけです。それとyasumi氏主張に合う歴史書籍が見当たらないため、そのように書きました。”右翼出版物”は、ふつう学校の図書館には入れないのでね。

Jinzuuは日本側でもっとも有名で重要な記録がはるかに多数あると仰いましたが、具体的に提示して下さい。alcrd 2006年10月25日 (水) 18:55 (UTC)[返信]

 韓国人な皆様が、羨ましくて妬ましくて仕方がない古事記、日本書紀、万葉集を始め枚挙にいとまがないですね。(笑)Jinzuu 2006年10月25日 (水) 11:00 (UTC)[返信]
間違った歴史は世界に通用しませんが。日本の歴史が正しいければ、変える必要もないでしょけど..今日本の歴史って、どうですか?alcrd 2006年10月26日 (木) 18:23 (UTC)[返信]

alcrad氏のルール違反・マナー違反について[編集]

alcrad氏の「迷惑行為の善処要求」及び「今後の対応」  今まで何度もalcrad氏のルール違反・マナー違反について指摘がありましたが全く改善が見られません。  私もalcrad氏の日本語が不完全であったり、wikiの使い方に不慣れであった事を大目に見ていましたが一向に改善される気配がありません。ログインもしないし、おそらく履歴を見ることもしていないのではないかと思います。議論以前の問題です。  10月14日以来の「李舜臣ノート」だけで104回の投稿数は異常ですしそのうちログインをした書き込みはたった2回に過ぎません。  また、alcrad氏の行った迷惑行為(「その他」項目が三重登録されたり、インデントの破壊、議題の拡散による再整理や修理)を私も何度か実施しましたが、もうそろそろ限界です。これらは例え他言語版のwikiであっても許容されません。  今後態度を改めないので有れば、議論に参加する資格のない「議論の場の破壊者」と認定し、しかるべき処置をするべき時が来たと思います。  皆さんの意見を聞かせて下さい。yasumi 2006年10月25日 (水) 03:38 (UTC)[返信]

傍観していましたが全く同意です。自己の考えを押しつけようという態度は日本語話者でも敬遠されるというのに、不完全な日本語で他者の考えを全く受け付けないというのでは本記事の保護はもちろん、alcrad氏の追放もやむを得ないと思います。--STB-1 2006年10月25日 (水) 03:44 (UTC)[返信]
 英語版ならとっくに無期限ブロックでしょうね。日本版だからこそ皆でナマ暖かく見守っていた訳で。まぁ、いい標本になったとは思います。Jinzuu 2006年10月25日 (水) 04:29 (UTC)[返信]
 他者の考えではなく事典では事実が重要だと存じます。不完全な日本語はすみませんね皆さんも外国語を完璧にマスタする人で少ないんですよ。また一方の主張を支持するのであればyasumiの主張が現実と合っているのか確認する必要と責任を持たなければならない。また英語版でもなく、他の版も英語版と変わりないそうです。alcrad 2006年10月25日 (水) 18:45 (UTC)[返信]


2006年10月25日 (水) 18:58の時点に於いて連続5回の編集を行っており、Alcrad氏は全く反省の色を見せず態度を改めないことを確認しました。
最後に下記の忠告をします。Alcrad氏は反論する前にここ(ノート李舜臣)と下記Alcrad及び219.96.242.154のノートに行われた一連のアドバイスや注意忠告を一読した方がよいでしょう。
利用者‐会話:Alcradhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Alcrad
利用者‐会話:219.96.242.154http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:219.96.242.154
それでも直らなければ議論に参加する資格はないと認定します。yasumi 2006年10月25日 (水) 10:33 (UTC)[返信]
なにを反省するべきか。はっきり言わないと、分かりません。経済準学士氏の忠告を受けた後は、酷い言い方で書く覚えはないんですが?字の修正で、編集を行ったことはあります。ただ、連続5回までは覚えてませんね。alcrad 2006年10月26日 (木) 18:32 (UTC)[返信]

最近、初めてこのページを読みましたが、やっぱり議論をする前に、日本語などの共通の言語をしっかり学ぶべきなのではないのでしょうか。                                             --Sunpijp1994 2007年8月11日 (土) 16:40 (UTC)[返信]

保護解除の提案[編集]

P:KOのメンテナンスついでに長期保護されている巡回したところ、こちらの項目にあたりました。履歴を追ったところ、2006年10月9日 (月) 14:01 UTCより1年を超える長期の保護になっています。先の編集合戦(?)の原因となった利用者は2006年10月22日 (日) 04:31 (UTC)を最後に投稿しておりませんし、冷却期間としては十分に見えるので、様子見で解除しませんか?--Tatsujin28 2007年10月31日 (水) 13:51 (UTC)[返信]

保護解除に同意します。カテゴリ文禄・慶長の役にも追加したいですし。yasumi 2007年10月31日 (水) 20:53 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。提案から1週間待って反対意見がなければ、保護解除依頼を出しますね。--Tatsujin28 2007年11月3日 (土) 00:40 (UTC)[返信]
Elthyさんにより解除されました[6]。近現代史のように、主要な執筆者の間で大幅な意見の相違がある訳ではなさそうなので、たまに韓国側利用者が突撃してくる以外は大丈夫のはず。必要に応じて、保護・半保護を繰り出して、疲弊を避けてくださいませ。--Tatsujin28 2007年11月10日 (土) 13:27 (UTC)[返信]

元均は悪者なのか[編集]

李舜臣=善、元均=悪という、従前からの韓国での李舜臣救国英雄伝記に沿った形での編集が行われていますが、韓国でも元均の再評価が進んでいる現在、もっと客観的な記述の方が適当なように思いますが。また、主観的な記述が目立つ私サイトへの外部リンクを貼るのもいかがなものかと。 Jinzuu 2008年5月25日 (日) 04:20 (UTC)[返信]

本文2008年6月18日 (水) 14:27(UTC)の版に加筆された個人の意見をノートに移動[編集]

  • 上記言説に、反論するのではありません。李舜臣が、第2次世界大戦後に独立した韓国北朝鮮で抗日のシンボルとして利用されたことも事実でしょう(何故ならば、李舜臣の銅像は全て1946年以降の建造物です)。しかし、李舜臣の実績は、日本人も認めてあげても良いのではないかと思います。相手を貶めてばかりいると、正しい分析は得られません。相手の実績を正しく分析してこそ、正しい理解が得られるのでしょう。この発言は、Wikipediaの編集委員から、『個人的な意見』として抹消されるでしょうが、『言説』に対するもう一つの言説として投稿しておきます。—以上の署名の無いコメントは、Yubonian会話履歴)さんが[2008年6月18日 (水) 14:27 (UTC)]に投稿したものです(ろう(Law soma) D Cによる付記)。[返信]

詩歌、書物の執筆に関して[編集]

生前、乱中日記などの幾つかの記録書物や詩歌を作成しており、特に詩においては評価の高い人物ですのでそれに関して記述すべきかと。
--164.125.85.153 2008年10月27日 (月) 06:52 (UTC)[返信]

生没年月日の表記について[編集]

この議論は李舜臣の編集についての続きになります。
まずはレスのお礼から。気になった点のみすこしだけ。

>朝鮮暦、しかも和暦とズレがある月日まで記述するというのは、ここ日本語版における大多数の利用者にとって全く意味を持たない情報であり、可読性を妨げる
>だけのものだと認識しています。
チト話が錯綜してませんか?李舜臣の記事の現状は生没年が西暦、月日が朝鮮暦の日付で記載されています。そういう状態にも反対なさるという意味でしょうか?

>なお、日本語版における和暦の取り扱いのルールを持ち出して、他国のもの(朝鮮暦)に援用するのは、牽強付会に過ぎるように思います。
冒頭部に両方の暦法に基づく生年月日を書く事には反対なさってるようですが、ウィキペディア日本語版においてグレゴリオ暦導入以前に生きた他国人の記事は、和暦についてのスタイルマニュアルが援用する形で彼らが生きていた時代の当該地域の暦法とグレゴリオ暦やユリウス暦が併記されているケースの方が多数じゃないでしょうか?統計をとった訳でもないのであくまで私個人の実感ですが。例えば同治帝西太后ウラジーミル・レーニンなどなど探せばゴロゴロ出てくるはずです。私見を述べさせていただくと李舜臣の記事のみ扱いを変える合理性が見当たりません。なるべく表記法は統一されるべきと考えます。Juqipedia 2009年1月9日 (金) 19:33 (UTC)[返信]

こんにちは。まずはjinzuuさんも同じだと思いますが、私はJuqipediaさんの案を一概に反対しているわけでありません。これら三国の同時代に渡るジャンルを編集している身からすると「議論」で「同意」を取ってから編集すべき問題だと思っています。
本項も含めて、各政権交代や冊封関係それと日明鮮の三国に跨る記事なので記事名自体からも揉めますし、漢字圏の王朝名でも揉めますし、紀年法でも揉めますし、もう揉めまくりです。だからもっと上位のプロジェクトで「中華冊封圏に於ける旧暦記述法」を議論して貰ってからの方が良いんじゃないんですか?私が「この国王○○年は年号なのか?」と疑問を投げかけたのはそう言う理由です。
そんな中でJuqipediaさんが持ち出した、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)では「明治5年以前も西暦・和暦を併記することが望ましいです。」と書かれているので、じゃあ西暦・和暦表記なの?と書いたわけです。yasumi 2009年1月9日 (金) 23:08 (UTC)[返信]

日本人以外の非グレゴリオ暦・ユリウス暦圏の人物記事についても当該地域の暦とグレゴリオ暦・ユリウス暦両方の年月日を併記するという形態が慣習上定着してる現状があるとはいえ、中華冊封圏の人物記事は国王何年か明の元号を用いるかなど表記をめぐる議論を呼びやすい面がある事を考えれば、私の編集に慎重さが欠けていた事は否めないかも知れません。それについてはお詫びします。どちらにしてもYasumi氏ご提案のように上位プロジェクトで論議し、場合によってはスタイルマニュアルの改訂なども視野に入れなければならないかも知れません。さて・・・どうしたものか・・・Juqipedia 2009年1月10日 (土) 04:02 (UTC)[返信]

yasumiさんに同意です。現状を是認しているわけではないですが、ここはたびたび保護のかかる係争地なので、妙な方向に行かないように最低限の保守をしているような感じですし。個人的には冒頭は”李 舜臣(り・しゅんしん 1545年-1598年)は、文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍。”くらいにして向こうで既に述べた通り、下の節なりテンプレなりで必要があるのなら付加するのが適当だろうという見解ですね。 Jinzuu 2009年1月10日 (土) 06:42 (UTC)[返信]

できる事なら他の多くの人物記事同様、冒頭部分で両暦併記をしたい所なのですが・・・やはり煩雑とお感じになるようですね。2009年1月12日 (月) 11:21 (UTC)

煩雑というのはあくまで私の主観なので、なんらかの合意が出来ているのであればそれに従いますが、これも既に向こうで述べたように、当時朝鮮で使われていたわけでもない朝鮮王の在位紀年を、何の検討も経ずに和暦ルールを準用して機械的に当てはめてようというのは、単なる併記原理主義のような気がしますけどね。 Jinzuu 2009年1月12日 (月) 17:55 (UTC)[返信]

半保護依頼[編集]

ここ1週間ほど独自研究やら虚偽記載がなされたようですが、鹿児島大などすべて鹿児島のIPのようです。今後も注意する必要があります。取りあえず半保護依頼しました。--fromm 2009年7月27日 (月) 12:54 (UTC)[返信]

編集内容要約欄の誤記訂正[編集]

すみません。2009年7月30日 (木) 03:33での編集で、編集内容の要約『利用者:き杯 による編集以前(2009年7月21日 (火) 21:28)に戻す。 出典付き記述の一方的な削除および客観性を欠く賛美記事化』での戻した版を誤記していましたので訂正しておきます。 Jinzuu 2009年7月30日 (木) 03:46 (UTC)[返信]

【誤】2009年7月21日 (火) 21:28 → 【正】2009年7月24日 (金) 16:25

2009年11月17日 (火) 04:31の版における言説節の一部記述削除の理由[編集]

言説から下記の部分を削除しましたが、理由は出典を伴わない仮定による推論でしかないこと、またその仮定自体が、それまでの海戦では朝鮮水軍が日本側の火縄銃の射程外からアウトレンジして一方的に戦果を挙げていたという韓国ドラマ的な様相が前提となっていると思われるためです。実際には、朝鮮の旧式火器よりも火縄銃の方が射程・命中精度共にはるかに高かったと解釈すべきものと思います。 Jinzuu 2009年11月17日 (火) 17:17 (UTC)[返信]

  • 露梁海戦においては日本軍の主力は帰国の途についており小西行長軍を救援に駆けつける日本水軍は薩摩藩を中心に構成されていた。小西軍救援とその阻止という明確な目標をもった海戦になり、始めて接近戦になったのではないだろうか。そのため、李舜臣は狙い撃ちされ、明将も多数討ち取られる結果になった。日本の鉄砲隊の威力は最後まで失われず、射程範囲に接近すれば威力を発揮したのであろう。

死因を流れ弾とする言説に関して/2010年3月27日(土)09:00版によるリバート[編集]

Jinzuuさんにより「日本語文として意味不明な曖昧化編集を戻す」との理由によりリバートされましたが、どのように【意味不明な曖昧化】なのか理解できませんでしたのでご説明ください。「そもそも、武人・軍人が流れ弾に当たって死ぬことは無駄死と捉えられるものであって、必ずしも名誉なことではないのだが」「それ以上に、日本兵に意図的に討ち取られたということを否定する意識が強く働いているものと考えられる 」と元々記述されていたものを「投稿者の過剰な心理描写」と解して除去したわけですが、その結果[7]が意味不明とはどういうことでしょうか。またどの語をどの語に置き換え(ないしは削除)したことをもって【曖昧化】とおっしゃっているのでしょうか。文法論、術語論の観点からご説明ください。--大和屋敷 2010年4月1日 (木) 12:56 (UTC)「そもそも、武人・軍人が流れ弾に当たって死ぬことは無駄死と捉えられるものであって、必ずしも名誉なことではないのだが」などという引用元のはっきりしない文字列による修飾句を挿入することによって、かえって事実関係が曖昧になっているということはありませんか?李舜臣の死に際して「そもそも、武人・軍人が流れ弾に当たって死ぬことは無駄死と捉えられるものであ」るとする信頼できる出典をご紹介ください。個人的には流れ弾で死亡した兵士であっても、その兵士が名誉ある武人であったという生涯そのものを否定する根拠にはならないと考えておりますので(広瀬武夫)。--大和屋敷 2010年4月1日 (木) 13:04 (UTC)[返信]

 大言壮語をしないなどと頓珍漢なことを言い出す前に、まず自分の記述を客観的に見返してみてはどうですか? あなたの書き換えた文章は”(韓国が李舜臣の死を流れ弾によるものだと主張することは)史料とは別に、英雄の死に関する意識が解釈として働いているものと考えられる。 ”ですが、英雄の死に関する意識が解釈として働いているなどと唐突に言われても、英雄の死に関する意識とは何なのか、そしてどういう解釈なのかなんら具体的な説明を伴っておらず、これでは観念的な字句を並べたてただけであって、普通の人間には一体何を指しているのか全く意味不明でしょう。この文面では、韓国人の性向についてよほどの予備知識があるか、あるいはあなたが書き換える前の記述を承知していて、ようやく何を言っているのか推測できる程度ではないですか?
 また、どうやら全く誤読しているようですが、「そもそも、武人・軍人が流れ弾に当たって死ぬことは無駄死と捉えられるものであって、必ずしも名誉なことではないのだが」というのは、故人の名誉の否定云々ということではなくではなく、流れ弾による戦死であっても故人や遺族を慮って名誉の戦死として扱うということは当然ありますが、流れ弾によって死ぬこと自体を名誉と捉えるえるようなことはないということです。もし、そんな例があるので有れば是非ご教示いただきたいものです。
 なお付け加えると、あなたは広瀬武夫の死が流れ弾によるものと認識しているようですが、それは全くの事実誤認ですよ。広瀬の指揮艇は最後の脱出艇となっており、ロシア軍の銃砲撃が集中していました。広瀬はまさにその砲弾の直撃を頭部に受けたものであり、流れ弾などでは決してありません。あなたの解釈では、銃砲撃戦での戦死者は明らかに狙撃によるものであると双方で認証されでもしない限り、全て流れ弾による戦死ということになってしまうでしょう。あるいは、あなたは流れ弾というものについて全く別の理解をしているのでしょうか。
 前大戦までの日本軍人にとって「流れ弾で死ぬことは無駄死」というのは、当事者としてのごく当たり前の共通認識であり、手記などでもしばしば目にするものですし、そして銃後の国民にもその意識は共有されていました。戦死とは縁遠くなった現在の日本人においてもいまだその共通意識があることは、2007年の愛知県・長久手町での拳銃立篭事件における流れ弾による後方待機中のSAT隊員の殉職に際し、現場指揮に強い非難が巻き起こったことからも明らかでしょう。この「流れ弾で死ぬことは無駄死」というのはいわば当然の情理ですから、別に日本特有のものではなく、表現は違っても諸外国においても普遍的なものだと思いますけどね。思うに、韓国においてさえ、反日や民族感情は別に徴兵される我が身に置き換えたならそうなんじゃないかと考えますが。 Jinzuu 2010年4月13日 (火) 13:41 (UTC)[返信]
名誉に関わることは「敵であっても」慎重に叙述していただければ宜しいわけです。他意は御座いません。よろしくお願いいたします。--大和屋敷 2010年4月13日 (火) 14:18 (UTC)最後の段落は失笑いたしました。流れ弾にあたり「無駄死に」した者の名誉をそこまで罵倒する人物と何を共有すれば宜しいのでしょうか?あるいは、その「無駄死に」した人物の戦いによって殺された日本人(ご先祖様)に係累する者の名誉はどうですかね。WIkipediaのルール通り、検証可能性のない情報は削除対象とすることで合意頂ければ何よりです。引用元が明示されていないということでご不満な記述は削除頂ければ宜しいと思います。この文脈についてはこちらもそう致しておりますので。--大和屋敷 2010年4月13日 (火) 14:30 (UTC)[返信]
悪態をついてるヒマがあったら、さっさと自分の書いた意味不明な文章を直したらどうですか?(苦笑) Jinzuu 2010年4月14日 (水) 11:19 (UTC)[返信]
修正しました。文脈に関係のない唐突な情報記述は削除しました。--大和屋敷 2010年4月14日 (水) 11:32 (UTC)(笑)←忘れていました--大和屋敷 2010年4月14日 (水) 11:33 (UTC)[返信]
逆ギレにしか見えませんが、まぁ、あのような意味不明な記述があるよりは削除の方がまだマシでしょう。これで色々隠蔽できてあなたとしては万々歳ですね。ところで、金時敏を文脈に関係のない唐突な情報記述にしてしまったのはあなたですから、自分の行為を誤魔化さず、正しく日本語で表現しましょうね。(失笑)←忘れずに書きました。 なお、他の方に判りよいようタイトルに補足しておきました。 Jinzuu 2010年4月15日 (木) 12:45 (UTC)[返信]

東郷平八郎による賛辞[編集]

これについて詳しく教えて下さい。「文禄・慶長の役 : 壬辰・丁酉倭乱 : 文学に刻まれた戦争 」崔官(講談社 1994年)には、

バルチック艦隊を撃破した東郷元帥は、後に英国を訪問した際に、「日本のネルソン」として注目をあびたこともあるが、戦捷祝賀会の席で、数々の賛辞に答えてこう語った。
不肖東郷を或いはネルソンに喩え、或いは李舜臣に擬して賞賛されましたこと、身に余る光栄であります。然しながら、ネルソンはいざ知らず、李舜臣になぞらへたのは当たりませぬ。不肖東郷如きは李舜臣の足元にも遠く及ぶ者ではありませぬ。
(注)金泰俊「日本における李舜臣の名声」『比較文学研究』四十号(東大比較文学会 1981年)に詳しい。

とあり疑問の余地がないように書かれています。下にあげた本には具体的にどう書かれているのでしょうか?

  • 藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」 / 『慶熙』第8号(京城公立中学校同窓会、1977年)
  • 安藤彦太郎・寺尾五郎・宮田節子・吉岡吉典(編)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所、1964年)
  • 金泰俊「日本における李舜臣の名声」『比較文学研究』四十号(東大比較文学会 1981年)

さぱしあ会話2013年3月23日 (土) 04:36 (UTC)[返信]

外国語版Wikipediaからの訳出について[編集]

韓国語版を訳出されて投稿されている方がおられますが、外国語版だからといってその記述が信用できる(あるいは正確なものかどうか)は分かりません。日本語版にしばしば独自研究の投稿があるように、外国語版wikipediaにも独自研究の投稿はしばしばあります。外国語版からの訳出のさいには、からなずその記述が信頼できる情報源に基づいているかどうか、提示されている出典情報の信頼性の評価をおこなってください。壬辰録についての韓国語版の記述は出典の存在しない状態ですので(概要として間違ってはいませんが)引用元として不適切です。また史料研究のすすんでいない文献については偽書の可能性もしばしばあります(これは日本の文献でもよくある話しです)。いずれにせよ慎重な記述が適切です。本国語(外国語)で記述してありさえすれば無条件で正しい情報が提供されていると考え勝ちなのは外国語初学者にありがちな失敗です。(参考)Wikipedia:信頼できる情報源#オンラインや自己公表された情報源の利用--大和屋敷会話2013年11月27日 (水) 11:44 (UTC)[返信]

冒頭箇所[編集]

冒頭のこの記述[8]ですと一般兵に落とされたあと不遇のまま島津に討たれて死んだみたいな印象になりますので無用でしょう。--大和屋敷会話2013年11月28日 (木) 04:49 (UTC)[返信]

復権の文字を入れてみた。基本的にはこれらは本文の要約。--Quark Logo会話2013年11月28日 (木) 06:17 (UTC)[返信]

  • んー。どうも俗っぽいですなあ。小説ではなく百科事典ですので「若い頃より浮き沈みが激しく」のような独自の評論を入れてまで文脈を作る必要は無いと思うんですよ。定説のある歴史上の人物なら如何ようにでも書き方があるというようにみえて、あんがい書きようというのはせまい道でして、なんとでも書いておけば良いという種類のものではないと思います。色々工夫してみましょう。--大和屋敷会話2013年11月28日 (木) 07:19 (UTC)[返信]

ページ番号を示してから記載してください[編集]

以下の記載 倉山満は「生涯を通じて文官に迫害され、日本統治時代までその戦功は無視され、朝鮮人に忘れられていた」と評した。——以上の署名の無いコメントは、125.2.251.181ノート履歴)さんが 2015-09-28T10:25:50 に投稿したものです。

以下の文章の出典が切れています[編集]

「なお、韓国では英雄化が過ぎるあまり、戦死ではなく自ら死を選んだという説や、戦争を生き延びて隠遁生活を送って戦後に死亡したという説が唱えられることがあるが、この根拠となる史料は無い」

検証不可のため出典の追記をしてから記載するようにお願いします。——以上の署名の無いコメントは、125.2.251.181ノート履歴)さんが 2015-09-28T10:31:29 に投稿したものです。

過去記事が有料閲覧なだけで、ネット上で転載が閲覧できます。--Quark Logo会話2015年9月28日 (月) 11:04 (UTC)[返信]

2017年9月9日 (土) 03:54時点版[編集]

  • 1次資料をもとに大量に投稿がありましたがWikipedia:独自研究は載せないに抵触しておりますのでリバートいたしました。『なお、ウィキペディアから排除されたからといって、それが「品質の劣る」ものであるとは必ずしも限りません』。似たような結論を得ている信頼できる情報源をお探し頂き、そこから加筆するようにしてください。編集方針についてはWikipedia:独自研究は載せないを御一読下さい(他にも編集内容についての重要な方針が存在しています)。現状の体裁では編集方針に抵触しており受け入れることができません。宜しくご検討のほどお願い申し上げます。--大和屋敷会話2017年9月9日 (土) 04:58 (UTC)[返信]

朝鮮水軍による加藤清正の上陸阻止計画[編集]

--乱中雑録によると、李舜臣は1596年12月28日の時点で加藤清正の上陸阻止計画を認識しています。

"統制使李舜臣啓曰。臣當竭力。欲防清正来路。"


その後の記述で、翌年1月6日には李舜臣が閑山島に滞在していることがわかります。

実際の加藤の釜山上陸日は1月14日(乱中雑録では10日)なので、出撃しても間に合わないというのは間違いです。


--Rokdelt会話2022年5月20日 (金) 13:57 (UTC)[返信]