ノート:指揮 (音楽)

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音楽だけの言葉ではないと思いますが...--KZY 2004年8月4日 (水) 15:36 (UTC)[返信]

現在、軍事上の指揮と音楽の指揮を分割するための議論がノート:指揮法で行われています。移動及び分割に異論ありの方はノート:指揮法で提案をお願いします。--GrayOwl 2006年6月24日 (土) 16:34 (UTC)[返信]


主観的記述について[編集]

主観的過ぎるといわれていますが、日本人の指揮者にサウンドチェックの甘い者が多すぎるのは「世界の常識」です。--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 09:08 (UTC) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ コンクール出身が多く、棒だけで結果を決めるので多いでしょうね。特に間違いではないです。Kanno,16.12.06;18:42[返信]

資料を出せという点からして、ここのレヴェルの低さが良くわかります。例えばダニエル・バレンボイム。ピアニストから指揮に移りましたが、これは賢明な選択ではなかった。チョン・ミュンフンも所詮ピアニスト上がりの指揮者で、ブルックナーは全然音が聴けてないでしょうが。ミヒャエル・ギーレンは作曲家の道を諦めて指揮者になりましたが、これは大きな成功例です。シノーポリ、マデルナ、ブーレーズ、バーンスタインは指揮者としてのウエイトが大きくなった結果、作曲の実力は後退してどっちつかずといわれる所以ですな。こんなこともしらないの?--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 10:26 (UTC) ・・・・・・・・・・・・・・・[返信]

こんにちは。まず主観の問題ですが、私からみると、上で222.1.32.14さんがおっしゃっているようなことが、まさに「主観」です。そもそも、なにをもって優れた音楽家とするのかというのは、きわめて主観的な問題です。作曲家の「成功」とは何を指すのでしょうか。演奏家・指揮者の「成功」とは何を指すのでしょうか。著名な例を出せば、当時は作曲家として評価が高かったとは言えないヨハン・ゼバスティアン・バッハは、いまは一般的に極めて評価の高い作曲家であると思われますが、彼は「成功した作曲家」なのでしょうか。(ちなみに彼は指揮者としても優秀であったと考えられますが、彼が演奏・指揮活動をすることで、彼の作曲の実力は後退したんでしょうか?)222.1.32.14さんが名前を挙げられた20世紀の作曲家たちの「実力」は何をもってはかるのですか?指揮者についても同じことです。--Aotake 2006年7月13日 (木) 11:39 (UTC)[返信]
残念ながらほぼ主観でしょうね。バレンボイムはそこそこ良いでしょう。やはりBoulezからの現代音楽の教授が彼を救ったようです。チョン・ミュンフンはどうみてもBrucknerタイプじゃないです。一般に言われる良い指揮者ですが、ピアニストである欠点はあります。詳しくは本文を参照ください。シノーポリはお金だけでDGのCD数十枚を買って出てきた人ですね。作曲ではまったく食えないので事実上作曲家を辞めた人です。彼の実力は当時先生であるカール・エスターライヒャ-が暴露しています。Boulezの作曲の質は特に後退していないでしょう。原因は指揮活動が忙しすぎる事で、作曲の永遠の改訂作業も要員の一つのようです。バーンスタインはもともとポピュラー畑の作曲家。現代音楽でその質を計る事自体が無理な話です。Kanno,16.12.06;18:37


バッハの時代の指揮とビューローの時代の指揮とマーラーの時代の指揮は、全然違います。指揮がどうしても必要になったのは19世紀中庸です。ビューローの時代には指揮者は存在しても、指揮メソッドはありませんでした。棒がぶるぶる震えるのもメソッドがない時代の産物だったと考えられます。これが、打点を合わせ音を整える「指揮法」が確立するのは20世紀初頭です。この複雑な経緯の為に、各国で指揮メソッドが違い、なおかつ学校の指揮科を出たり指揮のコンクールを当てても有能になるとは限らない所以です。--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 12:35 (UTC)[返信]
「何を持って作曲家の実力を図るか」、作曲の場合は「新しい言語を発案したかどうか」ですね。これは普通の人にはわからないのですよ。現代音楽の作曲家が開発した言語が、商業音楽で広まるまでに35年かかります。(グレツキとマゾンナを参照のこと)これは「事実」です。この「事実」に反旗を翻そうと幾人かの左翼音楽家たちは1970年代に必至でしたが、その左翼音楽家たちはつまらなくなって軒並み干されました。(ルカ・ロンバルディはリコルディの顔だったのに、2000年の在庫一掃処分で切られました。)どうも、音楽に「新しい発明」は未来永劫付加されてゆくらしい、というのが大筋の見解ですね。指揮をやりたがる作曲家の多くは、作曲が枯渇したことを本人が自覚している例が多いみたいです。--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 12:24 (UTC)[返信]
そういう人もいますが、どんなに良くとも現代音楽の作曲では食えないのも原因です。ピアノで食っても良いのですがギャラが少なすぎます。Kanno,16.12.06;18:26


せめて現在の評価を記述することはできるでしょうが、それも実際にその指揮者への評価をある程度客観的に表現するもの(演奏会の数、録音の数、賞など)、あるいは聴衆や他の音楽家からどのような言説を以て評価されているのかという実例がなければ、中立的な記事とは言えないのではないでしょうか。
  1. 日本の指揮者のおかれている現状を批判すること自体はかまいませんが、「日本では〜だ」と十把一絡げに断定してしまうのはいかがなものでしょうか。そうしたくなる気持ちはわかりますが、乱暴な議論に思えます。ましてやそれを「世界の常識」で片づけてしまうのはいかがなものでしょうか。
  2. 私が一度の編集で処理してしまったからいけないのかもしれませんが、222.1.32.14さんが差し戻している利用者:Noda,Kentaroさんの版は、クラシック音楽を知らない人にとって、理解しにくい記述が多すぎると思います。何の前ふりもなく「斎藤メソッド」や「アゴーギク」を持ち出している部分については、私の編集を受け入れていただいてもいいのではないかと思うのですが、そこの部分まで差し戻すのはどうしてでしょうか?
  3. もっとも本質的なことが最後になってしまいましたが、指揮者の記事が別にあるので、本当は指揮者の育成とか、転身して指揮者になる人の例とかは「指揮者」の記事に移した方がわかりやすいのではないかと思うのですが、いかがですか?--Aotake 2006年7月13日 (木) 11:39 (UTC)[返信]
やや誤解があるようなので補筆します。上の言い分、バレンボイム云々は私の私見ではなく、ほぼ音楽界で通用する「一般論」です。ひょっとすると、ミュンフンの指揮は論が分かれるかもしれません。コンチェルトのソリストに呼ばれやすい楽器の出身の指揮者は、あまり使えないことが多いです。これは「事実」ですので、ご理解いただけたらと思います。--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 12:24 (UTC)[返信]
ごめんなさい、これだけでも良くわかりません。「使えない」と言うことはオペラの指揮ですか?それともコンサートの指揮ですか?現代音楽の指揮も違ったテクニックですがどうでしょうか?例えばホリガーやH・シフ、サハリアスらはコンサートではすでに充分使えます。また楽器出身の指揮者陣は近年はそういう欠点を把握していてコレペティションや現代音楽の指揮などでも充分通用するように日々鍛錬しているようです。特に楽器出身ではありませんが、ドホナーニ氏や小澤氏のようにカラヤンの晩年までオペら指揮を電話で学んで時間さえあればプロ-べに通っていた人もいました。指揮者達のそれぞれの欠点は日進月歩で直されていくようです。Kanno,17.12.06,21:2
あと、日本の状況ですが、サウンドチェックまで及ぶ実力派はあんまりいないと言われてもしかたが無いです(現状では)。武満徹十周忌のへなへななアステリズムのクレッシェンドを聞いた限りでは、日本の指揮の統率力やカリスマ性は限界があると感じます。--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 12:24 (UTC)[返信]
項目の分割については大賛成です。--222.1.32.14 2006年7月13日 (木) 12:24 (UTC)[返信]
整形しました。すみませんが、発言者が分からなくなるので、既存の発言を分断する時は、どれがだれの発言か分かるようにしていただけると助かります。コメントはまた考えてからつけます。--Aotake 2006年7月13日 (木) 13:23 (UTC)[返信]
議論のためにIPではなく、ログインユーザーとして投稿していただければと思います。
さて、「主観的」ということについて話がかみ合っていないようですね。もっとも、そもそも芸術に関することに「主観的」な要素はあまりに多いわけですから、あらゆる分野の項目と比べても客観的な記述はきわめて難しいでしょう。
っさんやAotakeさんが問題にしてるのは、ウィキペディアは仮にも「事典」であるということです。事典には事典としての文化があり、音楽評論のそれとは全く異なることに注意してください。たとえば、「演奏や作曲から指揮に流れ込んで成功するケース」というのは、言っている意味がわからなくはないですが、事典の記述としては不適格だとおもいます。「有名な指揮者の中には、作曲家を志し、後に指揮者に転向したが、指揮者となってからはるかに高い評価を得た例も多い」などという風にすべきです。そこはよいとしても、「ヴァイオリニストやピアニストの指揮は使えない」とか「指揮をやりこむようになると作曲の腕が落ちる」というのは全くもって事典としては法外な表現です。何度も言いますが、よしんば音楽関係者や評論家の多くがそのように主張していたとしても、これは音楽評論の言説であって、事典のディスクールではこのような過剰な価値判断を下していると見なされる表現をもちいてはならない、というのがリファレンス記述のディシプリンでは「常識」であり「事実」なのです。もし読者が音楽評論の最先端の言説を知りたければ、wikipediaではない別の場所を参照するでしょう。
音楽評論をされたいのであればwikipediaはそれにふさわしい場ではないと思います。ほかにそれに適した場所があるのではないですか?--Pugnari 2006年7月13日 (木) 13:44 (UTC)[返信]
私は、主観的であること自体に問題があるのではなく、主観的であるならあるで、しっかりした資料を出してほしいだけなのです。たとえば、誰々の評論に書いてあったとか、誰々の著作に書いてあるとかです。そうすれば、「○○氏は、日本人の指揮者はサウンドチェックが甘いと指摘している」と書くことができます。「世界の常識」だとするならば、いくらでも資料はあるのでしょう? しかしながら、「武満徹十周忌の---限界があると感じます。」というような理由では、オリジナルリサーチと指摘せざるを得ません。-- 2006年7月13日 (木) 15:28 (UTC)[返信]
そうですね。私も言いたかったのは上記のお二人と同じことです。書き方が下手なので、話がずれてしまいましたが、Noda,Kentaro氏や222.1.32.14氏などが編集で書き加えられた内容そのものを問題にしたいのではなくて、記述の仕方を問題にしています。「いや、ヴァイオリニストやピアニストの指揮もいけると思います」という反論ではなく、「evidenceも示さず、しかも万人にわかりやすい言葉とは思えない形で『使えない』と書くこと」への反論です。
作曲家の実力をはかる「新しい言語」は「普通の人にはわからない」のかもしれませんが、たとえそうだとしても、事典とは「普通の人がわかる」ように書くものではありませんか?
さて、項目の分割へ利用者:222.1.32.14さんも賛成してくださったので、その点を中心に、下に話し合ったほうがよさそうな内容を書き出しました。どうでしょうか?ご意見おきかせください。--Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]

いわゆるわかりやすさについて。言語などを学ぶ場合はそのわかりやすさには限界があります。ABC・・から始まって単語までどうしても覚えてもらわなければ話にならない段階が存在します。現代音楽等も同様で、Ferneyhoughの名前の綴りが難しいからといって、彼の音楽が複雑だからといって簡単に直す人がいるだろうか?直した段階でもうFerneyhoughじゃありません。そういう意味でどうぞ現代音楽などが余り専門でない人は難しいからといって勝手に削除したりアクセス禁止にしないで欲しいです。ここの管理側にもそういう人達が複数存在します。もちろんその範囲内で私たちはわかりやすく説明する事に努力しますが、決して越えられない壁は存在します。どうしても現代音楽を学びたい人は和声楽や十二音技法など最低の事を学んだ上で議論していただく事をお願いします。それ以外は荒らし以外の何者でもないでしょう。現代音楽は個性が非常に強いので相当主観的要素が入ります。しかしそれが明らかに間違いでない限り消さないでそのまま保留して欲しいです。知っている人はごくわずかですが修正出来るでしょう。事はそんなに単純じゃないです--195.93.60.35 2007年9月16日 (日) 11:05 (UTC)[返信]


「作曲家の指揮は燃えないで最後まで合理的に音楽の本質のみを演奏する」について。 フルトヴェングラーは作曲家ですが、燃えない合理的な演奏だとは思えません。 Compomp 2009年2月20日 (金) 14:03 (UTC)[返信]

指揮者への分割を含めた、改稿の提案[編集]

以下、記事本文、2006年7月13日 (木) 10:29(UTC)の版(222.1.32.14氏差し戻し版)から転載、編集しています。コメントと見分けやすいように、記事本文の引用は太字強調しました。圧迫感を生んでることはお許しください。Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]

提案から一週間がたちましたが、なんの反応もありませんでした。あと72時間待ってみて異論がなければ、下記に示した方針で編集を行いたいと思います。Aotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]
予告通り、移動、編集しました。Aotake 2006年7月27日 (木) 08:15 (UTC)[返信]


概要[編集]

クラシック音楽では、指揮者は尊敬を込めてマエストロと呼ばれることもある。また、専任の場合は常任指揮者、演奏会やツアーのために呼ばれた場合は客演指揮者と呼ばれる。オーケストラオペラ団の方針に影響を与える常任指揮者は、音楽監督を兼任することもある。

ここは「指揮者」の話題だと思います。移動を提案します。Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
【編集予定】「指揮者」へ移動しますAotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]


指揮法[編集]

指揮棒をあやつる技術そのものは役割全体のほんの一部に過ぎず、その重要性は全体の10%に満たないという指揮者が大多数である。従って指揮者にはその他に、複雑なスコアを読解する読譜力、対位法和声学楽式論編曲などの音楽学の豊かな知識、ピアノなどの楽器を演奏家レベルに扱える能力、様々な楽器やその奏法、また声楽の知識、合理的な合奏法(プローベ・テクニック)、演奏の状況を瞬時に判断できる良い耳、音楽史、音楽美学の知識、またさらには心理学教育学哲学音響学、呼吸法、レトリック、複数の外国語の能力、政治・経済学等の教養などを身につける必要があるとされている。財を成した後年には、政治力の素養も必要不可欠である。(本文より)

ここは可読性を高めようと私も編集を加えた部分ですが、かなり冗長ですし、「指揮」の記事内容にふさわしいのかなあと思っています。「指揮者」の項目へ移動して、「指揮者の必要とされるもの」といった趣旨でもうすこしわかりやすく書いてはどうでしょうか。Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
【編集予定】「指揮者」へ移動したうえで、簡潔に書き直します。Aotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これはそれぞれの背後にとても複雑な関係がありますので簡単にはまとめられません。お金を払うだけで「指揮者」になる人もいますし、親が政治家で圧力をかけて「指揮者」になって音大の教授まである人もいます。普通はそれらを「指揮者」とはいわないのですが、とても残念ながら自腹などでCDも出ているれっきとした超有名な「指揮者」となっています。Kanno,16.12.06;18:19


残念ながら日本の指揮の伝統は、「如何に全パートが落ちずに演奏できるか」ばかりに焦点が集まっており、作品の生命への感心を持つ指揮者は極めて少数である。日本の西洋音楽の受容の浅さを考えると、これは仕方のないことでもある。往年の斎藤メソッドでは叩きにバウンドが入るために、動きに若干の無駄が入り拍節感にぶれが生じる。このぶれは19世紀までの作品ではそれほど気にはならず演奏家も適所で無視できるが、20世紀後半以降の細かいテンポ設定を駆使する作品には確実に支障が出る。流石にこのぶれに多くの日本人の若手は気づいており、近頃では斎藤メソッドを一切通過しない若手指揮者も増加の傾向にある。(本文より)

ここの趣旨は「指揮」にあってもいいと思いますが、残す場合、「日本におけるクラシック音楽指揮者の現状」とでも節を別に立てた方がよいかとおもいます。なお、「残念ながら…」や「日本の西洋音楽の受容の浅さを考えると、これは仕方のないことでもある」というのは、評論であり、私としては書き換えを希望する表現です。Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
【編集予定】記事本文を現行版のままとし、当該部分の記述は加えません。Aotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]
再読しましたが、やはり必要かなと。ではなぜ新しい複雑性を振ることのできる指揮者が、日本からどうして出てこないのか?テンポがぶれるからに決まってるでしょう。そのぶれはこのメソッドにあると思ってもらって結構ですよ。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 08:33 (UTC)[返信]

ヨーロッパではすでに現代音楽の指揮者とクラシックの指揮者と役割が分かれています。日本人がBoulezやFerneyhoughが振れないのはそういう作曲家たちが軽く見られている事とそういう教育機関が存在しないからでしょう。ヨーロッパではペーター・エトヴェシュが講習会で現代音楽専門の指揮者を育てていますが、こちらの音大ではすでに学部の指揮科以外の専攻生にも必修でB・A・Zimmermannの作品やオペラの指揮を教えて実際にコンサートで発表しています。オペラ指揮者な何にでも使えるというのは常識です。日本はオペラ指揮者を育てるという概念が無いということと、その基礎となるピアノによるコレペティションの教育そのものが存在しない為でしょう。更に合唱指揮者やライヴ映画音楽の指揮もまったく別個のテクニックです。日本の指揮者が国内でポピュラーな演目しか振れないのはコンクールと需要だけで長年そう育てられるからです。だからオペラや現代音楽・ライヴ映画音楽などへの応用が効かなくなるのです。要するに使い捨てですね。Kanno,16.12.06;18:06


このため、指揮は音楽学校で教わるものではなく、マスタークラス公開レッスンで教わるか、プローベを盗み見するほうが、はるかに勉強になると言われる。現在でもこのような潜り方が敬遠されるのは、学校の勉強こそが神聖であるという、一種の硬直した日本的思考に基づくといわれる。(本文より)

「このため」が「どのため」なのかまったく不明ですが、全体としてジャルゴンが多すぎて「普通の人」にはこのままでは意味不明だと思います。また「学校の勉強こそが神聖であるという、一種の硬直した日本的思考」は議論が乱暴すぎます。簡単な反例を示すなら、日本の大学生は欧米の学生と違って大学で勉強しないと批判されてどれだけになるのでしょうか。
この趣旨を残す場合、「指揮者」へ移動して「指揮者の育成:日本」といった節の下へ置くのでどうでしょうか。Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
【編集予定】「指揮者」へ移動したうえで、言葉を補います。Aotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]

・・・・・・・・・・・・・・・ 最近のヨーロッパの音大の教育はそれを補った形で行われています。ただし日本の現在の現状は自由聴講が認められないのでなんともいえないです。Kanno,16.12.06;18:08


演奏を引退した人々や、作曲家が指揮をやり出すことも多い。しかし、「演奏や作曲から指揮に流れ込んで成功するケース」よりも、「演奏や作曲で見込みがないといわれたので指揮者になったケース」が成功しやすい。フルトヴェングラーシェルヘンはその典型である。ヴァイオリニストピアニストの指揮は使えない、或いは作曲家が指揮を頻繁にやりこむようになると作曲の腕が落ちるという俗説も根強い。この説に理論的根拠は全くないが、該当例は数多く認められる。(本文より)

「指揮者」へ移動するべき内容だと思います。少なくとも「指揮法」の節にあるべき内容ではないでしょう。文言についてはPugnari氏の批判とほぼ同意見です。とはいえ、私には「流れ込んで」と「見込みがないといわれたので指揮者になった」の違いが明確ではありませんが…Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
【編集予定】「指揮者」へ移動したうえで、中立的な表現に書き換えます。Aotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]

各楽器出身者の特徴を長年にわたるヨーロッパ楽団へのプロ-ベの出席を通して書いて置きました。もちろんあくまでも原則であって例外も多数あります。ただし指揮科出身以外の楽器奏者の出身のオペラ指揮を認められることはありません。例外的にホリガーらが自作のオペラを初演する時などは別です。また小澤氏などの超有名人がWienのGMDになることは可能ですが、ドイツのB級・C級・D級のオペラハウスに登録された例外はありません。Kanno,16.12.06;18:16

指導者[編集]

有力な指揮者との師弟関係により、その指揮者の流儀が継続することがしばしばある。マーラーの教えを受けたブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーの例、リヒャルト・シュトラウスに学んだカール・ベームジョージ・セルなどが好例といえる。(本文より、以下略)

そっくりそのまま「指揮者」に移動するのか、一部移動するのか、あるいは全て「指揮」に残すのか、ここが一番判断が難しいところだと思います。私の意見としては、「○○スタイル」のところはもうすこしわかりやすく記述を整理、実例を加えるという条件の下で、「指揮#指揮法」に残し、残りの指導関係は、「指揮者#指揮者の育成」などに移動したらよいのではないかと思います。Aotake 2006年7月14日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
【編集予定】上に示したとおりの方針で「指揮者」へ移動しますAotake 2006年7月20日 (木) 17:56 (UTC)[返信]

日本の受容[編集]

項目自体が主観的・評論的要素で構成されていたため、コメントアウトしました。Pelorat 2006年9月22日 (金) 12:32 (UTC)[返信]

現代の中高生は学校の音楽鑑賞で指揮に接するため、指揮に良い印象を持つ児童のほうがどちらかというと少数派である。これは、鑑賞教室だからちょっとくらい手を抜いてよいかという音楽家が、多い故である。そのように手を抜いた指揮に向かって「今日の指揮は下手だった」と書けばたちまち内申書に響く。この状況は21世紀にはいった現在、全く改善されたためしがない。(本文より引用)

鑑賞教室で演奏の手を抜く指揮者が多いと、生徒一般に指揮者の印象が悪くなることに、論理の飛躍があります。良否が指揮者にあるかどうか判断できる、手を抜いているかどうか判断できる生徒であれば、学校の音楽鑑賞だけで指揮者全体を判断できないことを理解できると思います。また、そういった生徒はごく少数であり、殆どの生徒にとっては(演奏の出来さえも)無関心な事柄でしょう。
続いての感想文の内容が内申書に響くという記述は少々突飛です。どこからきた話でしょうか?また、この項目との関連性も感じられません。Pelorat 2006年9月22日 (金) 12:32 (UTC)[返信]
「本当の話なので、削除する必要なし。音楽鑑賞で多くのオケが手抜きをすることは超有名」との要約で、コメントアウトを外された方がおられます。私もそういった残念な事例は見知っていますが、今回のコメントアウトにそれが事実であるかどうかは関係ありません。そういった事例が日本における指揮者に対する一般的な印象と、直接の関わりを持たないと述べた上で、この項目(指揮)に書くべき事柄ではないとしているのです。Pelorat 2006年9月23日 (土) 06:45 (UTC)[返信]
削除の是非は任せます。どうして良い印象をもてないかについては、あくまでも予算の少ない鑑賞教室である為、どうしてもギャラの高い有能な指揮者を使えないためです。手を抜いているのではなくどこでも予算が足りないのです。Kanno, 17.12.06,21:12


残念ながら日本の指揮の伝統は、吹奏楽や合唱の需要から「如何に全パートが落ちずに演奏できるか」ばかりに焦点が集まっており、作品の生命への感心を持つ指揮者は極めて少数である。日本の西洋音楽の受容の浅さを考えると、これは仕方のないことでもある。往年の斎藤メソッドでは叩きにバウンドが入るために、動きに若干の無駄が入り拍節感にぶれが生じる。このぶれは19世紀までの作品ではそれほど気にはならず演奏家も適所で無視できるが、20世紀後半以降の細かいテンポ設定を駆使する作品には確実に支障が出る。これはブライアン・ファーニホウ以降の新しい複雑性に全ての日本の指揮者が対応していないことからも、明らかである。(本文より引用)

この段は殆どが評論的内容です。「残念ながら」「作品の生命」等の表現は、事典には不適切です。
また、叩きにバウンドが入るというのもおかしな話です。斎藤メソッドでの純粋な叩きでは、打点にバウンドが入ることを極度に嫌います。しゃくいと間違われていませんか?Pelorat 2006年9月22日 (金) 12:32 (UTC)[返信]

Peloratさんの編集を支持します。Aotake 2006年9月25日 (月) 18:10 (UTC)[返信]

言葉の表現の違いでしょう。指揮の項目で鑑賞教室程度の事に話が及ぶのはどうも安っぽく感じます。--195.93.60.35 2007年9月16日 (日) 10:52 (UTC)[返信]