ノート:帯方郡

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未検証タグ[編集]

2010年の未検証タグ、そのままになってますがどこが未検証なのか。とっくにはずしていいように思いますが…? --111.188.39.94 2015年8月24日 (月) 13:03 (UTC)----[返信]

韓国の某大手紙によれば「韓日学会では帯方郡は瓦がある黄海道あたりにあったことが定説じゃ、ソウル付近にあるというのは少数意見じゃ!それに韓国史を楽浪郡の時代から紹介すんな(まるで韓国中国人の植民地から出発したみたいだから)!扶桑社のバカタレ!」という。漢江の別名が「帯水」であることからくるこの「少数意見」、根拠も相当と思うんですがねえ。わたしのもっている歴史アトラスでは、軍の征服地がたしか全羅北道まで書いてある。最近本屋に並んでいる中国の歴史教科書では韓国人の歴史感情に配慮して北朝鮮までになっていたし、また楽浪郡帯方郡の名称そのものをも書いていなかった。

訂正の必要性[編集]

具体的にどう書き換えるかは、目下、思案中ですが、以下の二点につき現状の記述は事実誤認と思われますので、ここにメモいたします。

・帯方郡を創始したのは公孫度であるという記述

公孫度の後を継いだ息子の公孫康が、帯方郡を設置しました。

・帯方郡を滅ぼしたのが高句麗であるという記述

高句麗が滅ぼしたのは楽浪郡で、帯方郡は韓・濊が滅ぼした。

また、上記にもあるように、帯方郡がどこにあったかという「帯方郡治の比定」については、構成を改めて小見出しを立て、少なくとも平壌付近説とソウル付近説について中立的な説明文を付加するという形がよいかと考えます。ご意見をお待ちします。--monja 2006年9月15日 (金) 19:22 (UTC)[返信]

自己レス。帯方郡を滅ぼしたのは、韓・濊とも断定できないようです。調べてみると、高句麗が滅ぼしたという説も根強くありました。ただしいずれにせよ、楽浪郡の滅亡を見て周辺地域へ逃亡するなど、帯方郡の人々が自ら瓦解の方向へ向かったことは確かと思われますので、そのような形で書き直しました。で、文章の補充だけで力尽きました。地図や表組みなどは、また次の機会に。--monja 2006年9月18日 (月) 20:59 (UTC)[返信]

『中央日報』という韓国の民族色の強い新聞の「韓日学会では帯方郡は黄海道にあったことが定説、ソウルにあったというのは少数意見」というのは、明らかにウリナラファンタジーに基づく韓国の異質な民族史観で事実ではない。田中俊明編集『朝鮮の歴史』(2008年刊行)によると、帯方郡は元々ソウルにあったが、後にソウルを放棄して黄海道方面に移動したという説が文献学的にも考古学的にも一番自然、みたいな事が書いてある。つまり、日本の学界では帯方郡は始めはソウルで後に黄海道が支持されているらしい。--通りすがりの某 2011年9月27日 (火) 17:51 (UTC)[返信]