ノート:伽耶

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伽耶と加羅の2件について、保護解除依頼を提出(2007-01-31)しているのですが、解除された後に、記事の見直しを図りたいと考えています。2007-01-31時点では、加羅がいわゆる伽耶諸国のことを記述していて、伽耶については金官伽耶に偏っています。そこで、

伽耶→金官伽耶
加羅→伽耶諸国

と変名(移動)してはどうか、と考えます。また、5世紀の三国時代の画像[[画像:Three Kingdoms of Korea Map.png]]についても、伽耶諸国の領域が加羅と表記されているのを、伽耶に訂正したいとも思います(大元のen:Image:Three Kingdoms of Korea Map.pngの表記もKayaであって、加羅よりは伽耶のほうがふさわしいと考えます)。リダイレクトを含めてリンク元がたくさんあるので慎重に判断したいと想い、保護解除される前に提起いたします。--田英 2007年2月3日 (土) 02:44 (UTC)[返信]

英語版では伽耶はGaya confederacy(伽耶連盟)としているようで、どちらかというと現在の日本語版では加羅に近いと感じます。或いは伽耶と加羅とは統合してしまって、その中で金官伽耶や大伽耶を記述していき、必要に応じてあらためて別名分割するほうがよいのかもしれない、とも思います。--田英 2007年2月5日 (月) 03:37 (UTC)[返信]
加羅のほうが先に保護解除されましたので、改名テンプレと統合テンプレとを貼付しておきました。--田英 2007年2月5日 (月) 23:47 (UTC)[返信]

移動ではなく、統合としたいと思います。加羅の最新版を伽耶の冒頭部分に移入させる形での統合とし、それに連なって1)加羅のリンク元のリンク修正、2)5世紀の三国マップの入替(加羅→伽耶に修正)を行なう予定です。--田英 2007年2月10日 (土) 00:06 (UTC)[返信]

いいと思います。ですが、少し🤏付け足してもよろしいでしょうか?--納豆大魔王会話2022年11月27日 (日) 04:24 (UTC)[返信]

任那の記事からの転載について[編集]

任那の記事から、任那日本府関連の記事が丸々転載されてきたので、中抜き削除のためにいったん差し戻しをしましたが、重ねて2回に分けて天才が繰り返されました。あわせて削除依頼にかけますが、該当の編集をされた方にはお願いがあります。こちらの伽耶の記事においては、井上秀雄氏の論考(1973年)を根拠として、倭は必ずしも日本列島の存在ではなく、伽耶=任那(日本府)とする戦前の学説を否定する記述にしています。井上氏の研究はやや古いものではありますが、最近の伽耶に研究者である田中俊明氏もこの考え方を支持していることを確認しています。あくまでも戦前の学説に近い、伽耶=任那(日本府)とする記述を復活させようとするのであれば、近年の論考とあわせて記述していただくようお願いします。--田英 2007年5月27日 (日) 10:51 (UTC)[返信]

中抜き削除できるだろうということで、近年の日本府的機関実在説の代表として吉田孝氏の論考(1997年)を挙げさせて頂きました。吉田説は、戦前の学説とは違い、基本的には伽耶諸国の自主的連合を肯定していますが、任那加羅(金官加羅)が高句麗、新羅への対抗手段として百済、倭と結び、特に倭の軍事力を利用するために軍事を主とした外交機関を置かせたとするものです。その際に倭人(ヤマト王権に限らない)を政治的統合の遅れていた慕韓(馬韓のうち百済に統合されなかった地域)に移住させ、伽耶諸国とともに任那加羅(金官加羅)の勢力範囲としたとしています。戦前の学説とは異なり、統治機関であったことや任那一体としての倭への従属は否定しております。この説は田中氏の論考よりも新しい出版であり、中国側史書に記述のある倭王の半島における軍事権や近年の半島南部における前方後円墳の発見とも整合するものですので、井上説をもって「今日では誤りとされる」と断定した文章は、「誤りとする説が出されている」と修正させて頂きました。いずれ旧来の統治機関説を唱える研究者は現在では見受けられませんので、任那日本府の方も適切に編集する必要があろうかと思います。--ろう(Law soma) D C 2007年7月5日 (木) 00:37 (UTC)[返信]
Wikipedia:削除依頼/伽耶 に基づき中抜き特定版削除しました。 --Kanjy 2007年7月16日 (月) 07:52 (UTC)[返信]

倭≠倭人[編集]

今回の編集の眼目を念のため書いておきます。最近IP氏による倭政府機関説を前提とする編集が続いておりますが、日韓通じて最大限政府機関説寄りの吉田氏でさえ日本府の「民政権限」については疑念を公表しています。もし、倭が統治していたとする論文がありましたら私の勉強不足ですので、戻して頂いて結構です。なお、最も指示の多い説は倭系豪族説(森説)だと思いますが、『日本書紀』を読めばお分かりのとおり、任那にいる倭人が倭政府の指示に従わずに独自行動を採る記事が多く目につきますし、日本府という単語も、かなり後になってから出るだけです。--ろう(Law soma) D C 2007年12月3日 (月) 02:50 (UTC)[返信]


倭軍、百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)、
宋書、478年「使持節都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓(辰韓)、慕韓(馬韓)、六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」中国は朝鮮半島南部を倭国の王の統治を許す
古事記・日本書紀「神功皇后の時代に、倭軍が新羅の王の門にまで行った」
新羅本紀 : 393年に、「倭人が、金城(新羅の王城)を包囲して、五日も解かなかった」
倭独特の前方後円墳の発見
日本でしか取れないヒスイ製勾玉が新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土
などなど。色々な史料、出土があり、倭≠倭人などとするのは半島に傾斜しすぎる方の偏った思想でしかないでしょう。ちなみに二次大戦時、関東軍だって勝手な行動をしたわけです。ニュートラルな人間が見ればどう見ても倭=倭人でしょう。まあ、それもそれぞれ個人的想像になりますし、学説も一次史料からの説でしかなく、一次資料だけ詳しく書き、後は読者の想像にお任せする書き方もいいかもしれませんね。日本府は単なる倭の統治地域の呼び方なだけでどうでもいいことです。参照で中国の世界史教科書ははっきり、伽耶地域は日本の支配下にあったと書いています210.252.202.66 2007年12月11日 (火) 00:08 (UTC)[返信]
えーと、私は個人的意見は書いておりませんので(独自研究になってしまい、Wikipediaでは排除されるから)、何から説明すればいいのか悩みますが…。「臣民」云々は、かの民族が外交上の方便で「朝貢」するのは常道ですので直接統治の証拠にはなりえないこと、宋書で言っているのは軍事的指揮権のみなので「統治」までは読み取れないこと、記紀は神功皇后自体半ば伝説上の人物であることに加えて倭軍の出兵(&戦勝)の事実しか読み取れないこと、新羅本紀も同様、前方後円墳とヒスイは倭人の定着は示すが倭政府との関連は不明なこと、でしょうか。以上から普通に考えると倭政府の関与は諸説あってよいし、倭人の定着と度々出兵していた事実は否定できないことが分かると思います。さすがに韓国の多数の学者のいう「倭系百済官僚か倭系伽耶豪族による百済の政府機関説」はニュートラルではないように感じますが、日本の学者はまるっきり韓国の学者と同じ意見から、少なくとも軍事的外交的機関はあったとする説まで幅広く存在しています。現状、中国語版では210.252.202.66さんのおっしゃるような一次史料だけ詳しく書く手法ですが、韓国語版Wikipediaでも複数説(日本統治説も含む)併記となっており、比較的公平かと思います。私は以前の否定説一辺倒の記述にも、日本の旧説一辺倒の記述にも反対するものですので、なにとぞご了解ください。なお関東軍の例えで言えば、関東軍は少なくとも近視眼的には日本の国益を増そうとしての行動をしており、日本府のように国益に反する行動(百済より新羅と提携するなど)はとっていません。元はどうであれ少なくとも史料が豊富な欽明朝以降は現地化が進んでいたとでも解釈しないと説明がつきませんね。--ろう(Law soma) D C 2007年12月11日 (火) 02:51 (UTC)[返信]
承知しました。--納豆大魔王会話2022年11月27日 (日) 04:24 (UTC)[返信]

前期伽耶連盟と後期伽耶連盟について[編集]

これら2つの伽耶連盟は資料に全く記載がありません。近年の考古学の成果から提唱されている学説に過ぎません。ですから記述の根拠となった出典を明記して頂きたいと思います。ty270410 2008年2月3日 (日) 13:53 (UTC)[返信]

「資料」を「史料」に訂正します。ty270410 2008年2月3日 (日) 13:55 (UTC)[返信]

かなり重要な部分だと思います.2つの伽耶連盟は史実とは認められませんので,再度,典拠を示しての説明を本文中に記載してください.--ty270410 2008年11月3日 (月) 14:22 (UTC)[返信]

「伽耶連盟」はいかなる史料にも記載がありません.研究上の概念です.出典の明記を求めます.--ty270410 2009年5月10日 (日) 14:05 (UTC)[返信]

伽耶の勢力圏の最西部であった地域[編集]

注5の中に前方後円墳が存在するのは「伽耶の勢力圏の最西部であった地域」であると書いてあります.これは吉田孝先生の本の記述を典拠にしていると思われます.しかし,吉田先生は金官加羅(任那加羅)は倭の軍事力を利用して倭の軍隊や移住者を慕韓の国々へ送り込んだらしいと書いておられます.吉田先生は前方後円墳があるのは慕韓の地域であると書いておれれても,伽耶の勢力圏の最西部であった地域とは書いておられませんし,先生の記事から伽耶の勢力圏に含まれるとは読み取れません.また,先生は前方後円墳がある栄山江流域は加耶に含まれないとはっきりと書いておられます.ですから「伽耶の勢力圏の最西部であった地域」と書くのは妥当ではなく,「加耶の西隣の地域」と書くべきと思います.--ty270410 2008年3月10日 (月) 14:15 (UTC)[返信]

任那にも書きましたが了解です。--ろう(Law soma) D C 2008年3月12日 (水) 00:38 (UTC)[返信]

何時から「伽耶(加耶)」に変更されたのか?典拠を求む[編集]

同時史料ではすべて「加羅」と表記されていますが,何時から「伽耶(加耶)」という表記に変更されたのでしょうか?典拠を示して,本文中に記載していただきたく思います.--ty270410 2008年11月3日 (月) 14:16 (UTC)[返信]

保護報告[編集]

編集合戦により1か月保護しました。歴史地図を貼付する際にはその地図が示している西暦年を明示して、適切なキャプションと共に使用するようにしてください。

I have protected this page for 1 month by the edit war. If you use some historical maps, please specify the time of when with an appropriate caption.

為編輯戰保護了1個月。粘貼歷史地圖的時候明示那個地圖表示著的西曆年,與恰當字幕一起請使用。

편집 분쟁에 의해 1개월 보호했습니다. 역사지도를 첨부할 때에는 그 지도가 나타내고 있는 서역년을 명시하고, 적절한 캡션과 함께 사용하도록 해 주십시오.--ろう(Law soma) D C 2010年10月8日 (金) 01:10 (UTC)[返信]

整理[編集]

記述に不備があるので、推敲をはじめましたが、たとえば、任那任那日本府については、それらの記事との重複が著しく、圧縮・縮減の必要があるかと思われます。また、本文の他節との記述についても、倭国が半島に侵攻した記録などが重複的に記述されているので、推敲の必要があります。--西方 2012年2月16日 (木) 08:33 (UTC)[返信]

伽耶を加羅あるいは加耶と置き換える編集をされている方へ[編集]

2度にわたり、表記を一旦元に戻しました。表記以外の編集は極力残してあります。表記を戻した理由は、要約欄にも書きましたが、

  1. 1つの記事中、同一の概念は出来るだけ同一の表記にしないと読者が混乱すること
  2. 冒頭定義部が記事名(ページ名)と相違することにより、見出しとしての統一感が図られないこと
  3. 複数表記を使い分ける場合には、出来るだけ冒頭に近い部分で語句の定義を定めないと読者が混乱すること

です。

文中の語句を直す際には統一的に直してください。また、その場合、先に改名提案を行い、議論によってコミュニティの合意を得て記事名を変えてからにしてください。明らかな記事名の付け誤りでない限り議論は必要です。

私自身の感覚では、「伽耶」、「加羅」両者とも適切な記事名であると思います。統計を取ったわけではありませんが、朝鮮史の研究者は概ね前者を用い、日本史の研究者は前者が幾分多いものの後者を使っているものも散見されると認識しております。本項目は日本史分野にも密接に関わりますが一義的には朝鮮史分野でしょう。であれば、現状の表記で特に問題はなく、加羅がリダイレクトページになっていることから利用者の利便性も阻害されておらず、改名する必要は少ないものと思います。個人的には日本史分野の書籍を読むことが多いので、もし「加羅」への改名提案が出されても反対はしませんが、現状であえて改名する必要を認めません。--ろう(Law soma) D C 2012年2月24日 (金) 03:00 (UTC)[返信]

3度目の戻しを行いました。記事文中の主題名称を記事名と異なるものに一方的に変えないでください。きちんと改名手続をお踏みください。--ろう(Law soma) D C 2012年2月27日 (月) 09:44 (UTC)[返信]
改名提案がなされない状態でコメントするべきか、迷いましたが、私も疑問に思っていた点なので、簡単に述べます。ろう(Law soma)さんの朝鮮史研究者は「伽耶」を、日本史研究者は「加羅」を使用しているというご指摘は、間違っております。
  • 朝鮮史研究者として高名な武田幸男氏も『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』(中央公論社,1997年)などでは「加羅」を使用しています(同書354頁以降)。
  • また末松保和『任那興亡史』吉川弘文館(増訂1971年)でも「加羅」を使用しています。末松氏も日本史でなく朝鮮史が専門です。
  • また井上秀雄「古代朝鮮」講談社学術文庫でも「加羅」を使用しています(105-107頁,140頁ほか)。
  • なお、本文記事に「新羅が伽耶と記し、日本や中国で加羅と表記」とありますが、前者の新羅の史書というのは、ちょっと検証が必要のようです。
  • また、上垣外憲一『倭人と韓人』 講談社学術文庫2003年でも「加羅」を使用しています(39-41頁)。なお同書同頁箇所には、「三国史記」新羅本紀が引用されており、奈解尼師今6年条などに「伽耶」表記があり、同14年には「加羅」があります。この件については、私もまだ調査中なので、保留しますが、加筆を含めて考えて行きたいと思います。
いずれにしましても、ここは日本語版ウィキペディアであり、したがって、日本語圏の史書をはじめ、日本の朝鮮史研究者も上記のように多くが使用していることから、私は「加羅」に改名すべきだと考えています。この件については、IP氏があらためて改名手続きをとられることを希望します。もし、IP氏がそれをなさらないのであれば、私が行いますが。
なお、私もまだ調査しておりませんが、おろらくは在日朝鮮・韓国人の研究者などから日本史学への批判が1970年代頃をピークに続いてきましたが、そのなかで日本の史書に表記される「加羅」を忌避し「伽耶」とすべきだとする議論があったのでしょうか。--西方 (会話) 2012年3月1日 (木) 05:11 (UTC)[返信]
また現在の記事自体がそうなのですが、「伽耶」=「加羅」とされておりますが、「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今などの記載をみると、どうも、異なる国のようです。むろん、文化などはかなり類似したもののようですが。もしそうだとすると、伽耶加羅は本来は別記事にすべきですね。ここは、調査後、あらためてコメントします。--西方 (会話) 2012年3月1日 (木) 05:16 (UTC)[返信]
調査ありがとうございます。上記の認識は、あくまで私の感覚に基づくものですので全く固執するものではありません。「加羅」への改名提案が出された場合反対しないとの意見も既に出しておりますし。
「加羅」忌避があったか否かは存じ上げません。また、別記事にすべきかどうかについては、以前、田英さんが軽く触れておりましたね。いつの間にか統合されておりましたが昔は別記事でした。
いずれ、西方さんが改名提案や分割提案をされるのであれば助かります。私としては表題、記事文中表記、他の項目での表記ができるだけ統一感を以て編集されていることを重視しているだけで、特段どっちか寄りな訳ではありませんので。--ろう(Law soma) D C 2012年3月2日 (金) 00:54 (UTC)[返信]
ありがとうございます。引用はしません。--納豆大魔王会話2022年11月27日 (日) 04:25 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

上の節での議論を踏まえ、および調査(2012年3月1日 (木) 05:11 (UTC)での私のコメント)を根拠に、日本語圏での歴史研究では「加羅」が「伽耶」よりも表記される場合が多く、また日本語圏での史料でも「加羅」と表記されておりますので、「加羅」への改名提案を行います。「加羅」と「伽耶」は私の知る限りでは、歴史学においても同一視されておりますが、あるいは異なる国のことを指す可能性もあります。これを検証するためにも、この改名提案に反対される方は、現在の記事名「伽耶」が、「加羅」よりも適切である理由を説明くださるようお願いします。--西方会話2012年3月4日 (日) 16:19 (UTC)[返信]

コメント CiNiiの論文検索では、「加羅」18件、「伽耶」866件でした。ただ、タイトルを眺めただけでも、「伽耶」の方に歴史を専門としない方の執筆分が数多く含まれているように思えました。そこで「加羅 百済」と「伽耶 百済」で検索したところ、前者1件、後者3件でした。「加羅 倭」と「伽耶 倭」では1件と2件でした。「加羅 新羅」と「伽耶 新羅」では2件と3件でした。いずれも微妙に「伽耶」の方が多い結果となりました。上で私が書いた「感覚」は、さほど外れてはいなかったようです。とは言え、西方さんのご提案に反対まではしません。私自身、自分が読んでいる範囲では「加羅」の方が多いからです。--ろう(Law soma) D C 2012年3月5日 (月) 10:51 (UTC)[返信]
コメント 画像に「伽耶」という記載がありますが、画像も差し替えるのでしょうか?また朝鮮の歴史にも「伽耶」という記述があり、この記事へリンクされてますが、これも全部置換する予定ですか?--Cheesec会話2012年3月10日 (土) 15:05 (UTC)[返信]
画像については、当面はそのままで、新しい画像に置き換えるべきと考える編集者が現れた場合にまた議論すればいいと思います。私自身は画像については、いまのところ特に考えはありません。リンクについては、改名後は、リダイレクトになりますので、特に問題はないでしょう。
さて、特に反対意見もありませんでしたので、改名手続きに移りたいと思います。なお、いまだに、なぜ「加羅」でなく、「伽耶」の表記が、たとえば韓国史学界などでも多いのはよくわかりません。もしかしたら、新羅本紀に「伽耶」という表記があるため、いわば「新羅ナショナリズム(?)」のような意識があって、日本や中国での「加羅」表記を忌避したのかもしれませんが、この件について触れている文献もまたないのが不思議です。私が目にしたほとんどの歴史文献では、ろう(Law soma) D Cさんもおっしゃるように、「加羅(伽耶)」という併記が多いのですが、なぜ併記されているのかの説明をしている箇所をまだ発見できません。--西方会話2012年3月10日 (土) 18:23 (UTC)[返信]
コメント 私には「加羅」、「伽耶」もこだわり無いですが、記事名を書き換えるだけという中途半端なことをするだけなら、Wikipediaの一貫性を損ねるのでよくないですね。改名するのであれば閲覧者が混乱しないよう画像も含め一貫した記事に修正するのが望ましいです。--Cheesec会話2012年3月10日 (土) 20:44 (UTC)[返信]
改名にあたっては、むろん、本文は調整します。画像については、私は新しい画像を現時点では用意できませんので、画像提供依頼を行ったうえで画像箇所をコメントアウトないし削除になるのでしょうか。もし、Cheesecさんが画像を提供なさってくだされば助かります。しかしながら、画像の編集調整は、改名後でも可能でしょう。--西方会話2012年3月11日 (日) 04:19 (UTC)[返信]
画像については、本文冒頭に「伽耶」という表記も用いられている旨記載されていれば、特段急いで修正したり画像をコメントアウトする必要はないと思います。よくある英語表記の地図なんかと同様に考えればよいかと。本文の調整は利用者の利便性上必須とは思いますが。--ろう(Law soma) D C 2012年3月12日 (月) 00:59 (UTC)[返信]
ろう(Law soma) D Cさん、ご教示ありがとうございます。同意します。
あと、下の節に書きましたが、「伽耶」名称が「加羅」よりも通るようになった背景のひとつに、1980年代後半から1990年代初頭の田中俊明氏の学説、およびその韓国史学界における受容というものがあるようです。--西方会話2012年3月12日 (月) 07:01 (UTC)[返信]
「新しい画像に置き換えるべきと考える編集者が現れた場合~」と画像については無視っぽい感じだったので違和感を覚えましたが、画像提供依頼や画像改訂依頼など行うのなら良いと思います。--Cheesec会話2012年3月12日 (月) 14:22 (UTC)[返信]

田中俊明学説[編集]

現在の記事は、田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念(『大加耶連盟の興亡と「任那」―加耶琴だけが残った』吉川弘文館、1992、『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』(森浩一監修・東潮と共編著)中央公論社、1989)におそらくは依拠して、「前期連盟」「後期連盟」と記述されていますが、この概念はむろん重要で価値ある学説であるとは思いますが、しかし、学界の定説ではありませんので、本文全般にわたって記載されるのは、「単一の出典」(Wikipedia:出典を明記する)への依拠の観点からも、またNPOVからも若干問題がありますので、再整理を行おうと思います。--西方会話2012年3月12日 (月) 07:01 (UTC)[返信]

民族史観に基づいた解釈の流行について[編集]

見出しの「民族史観に基づいた解釈の流行」や「第二次世界大戦後の研究は、日本の出先機関を否定する前提に立つものであり、現代韓国の政治的欲求に解釈が左右されることが多い。」については、削除を求めたいと思います。

研究者は、あなたたち素人が思うほどバカではありません。 残念ながらWkipediaの記述のほとんどは、物知りの素人や大学院生レベルの人間が編纂しており、過ちや感情に左右される記載が目立ちます。 特に歴史に関するものや政治に関するものに目立ちます。

下記の部分についても、後半カッコにくくられた部分の修正を求めたいと思います。

1970年代以降、全く調査されていなかった洛東江流域の旧加羅地域の発掘調査が進み、文献史料の少ない加羅史を研究するための材料が豊富になってきたが、「現代の政治的欲求に基づく解釈に呪縛された、現代韓国の民族史観に沿う仮説が盛んに主張されている。」

研究者はあなたたち素人よりよほど賢く客観的な研究をしています。——以上の署名の無いコメントは、200.105.218.76ノート/Whois)さんが 2013年5月2日 (木) 18:39 (UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) による付記)。[返信]

冒頭文を除去するIP利用者の方へ[編集]

上での議論をお読み頂ければお分かりのとおり、ここの項目名は現在「伽耶」となっておりますが、「加羅」に変更することについて反対意見はでておりません。私はどちらでもよいので放置している状況です。そのような中で、現状では本文中の用語だけが「加羅」になっています。Wikipedia日本語版のガイドラインである「Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)」によると、冒頭文は、記事の主題の定義を記し、本文の簡潔な概要を記すことになっています。また、主題の別名や、間違いやすい範囲外の内容なども書くことになっています。そして、第1文の主語は項目名と一致させることも決まっています。

さて、IP:112.139.73.134会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんはこの編集で冒頭文の主語を除去し、冒頭文の一部を修正しました。私は主語を復帰しましたが、112.139.73.134さんが直した冒頭文には手を入れておりません。しかるに、112.139.73.134さんの次の編集では、「呼称の項との作為的な著しい重複を解消」と要約欄に書いた上で冒頭文を全部除去しています。

この方は、ご自分が書かれた文章を「作為的な著しい重複」と評しているのです。もう、何をしたいのか全く分かりません。理由などどうでもよいのでしょうか。

単純に「伽耶」という名前を変えたいのであれば、上の議論を再開して、ルールに則って改名手続きをしてください。私も反対していません。それをせずに冒頭定義文を除去するのは記事の破壊行為です。特に自分で直した文章を作為的というくらいでしたら、もっとよい文章に直すか、手を出さずにノートに提案するのみにしてください。--ろう(Law soma) 2013年8月6日 (火) 00:59 (UTC)[返信]

今度は著作権を侵害するコピペ改名が複数回行われました。このようなことをされては、百科事典の記事が成長しなくなります。百科事典は知識を得る場所であり、自己主張をするところではありません。日本の法律も守れない(又は法律の知識がない)人が、議論もせずに暴れているという印象です。改名議論を進めてこられた利用者:西方さんはもう1年近く編集をされておりませんが、上の議論では反対意見なく改名の方向性が出ているのですから、改名したければログインし、ご自分で正規の手続により改名してほしいと思います。--ろう(Law soma) 2013年8月9日 (金) 00:50 (UTC)[返信]

加羅と伽倻の漢字の最初の発言の記録と 見出し語を変更すべき?[編集]

加羅の初言及された記録である広開土碑文です。

八年戊戌,教遣偏師觀帛慎土谷。因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人,自此以來朝 貢論事。九年己亥,百殘違誓與倭和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境 ,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。太王恩後稱其忠誠,時遣使還,告以□訴。十年庚 子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退□□□ □□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。倭 滿,倭潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其 □□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□ □□□□□□□□□潰□以隨□。安羅人戍兵昔新羅,安錦未有身來朝貢□。國岡上廣開 土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰而倭不軌,侵入帶方界□□ □□□,石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇,王幢要截盪刺,倭寇潰敗, 斬殺無數。

韓国側が主張する伽耶という漢字はありません。 韓国側が主張する伽倻は三国史記に1145年に作られた後代の記録です。 韓国側の史書の中で最も古い歴史的記録からも年度がたくさん差が出て信用できないんです。--18호会話2015年3月9日 (月) 00:23 (UTC)[返信]

『任那興亡史』P189-196[編集]

『任那興亡史』のことなんですけど今購入して読んでるんですが、実際に本には書かれてない複数の内容がここのページにありますね。。--heisei30会話2017年7月27日 (木) 16:29 (UTC)[返信]

「伽耶」統一提案[編集]

現在義務教育学校で使用されている教科書やワークには、一貫して現在の記事名である「伽耶」表記が用いられています。それにも関わらず、本文中は「加羅」表記で統一されています。

上記改名提案では「日本語圏での歴史研究では「加羅」が「伽耶」よりも表記される場合が多く」と言われておりますが、百科事典は一般の方が使用するものであり、世間に浸透している表記でないと読者が混乱してしまう可能性があります。

そのため、文中の「加羅」を「伽耶」表記に統一することを提案させていただきます。--きくらげさん会話2023年10月3日 (火) 12:17 (UTC)[返信]