ノート:中観派

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出典の問題[編集]

本日現在、ページ「中観派」の本文の出典の大半は中村元『龍樹』(講談社学術文庫)となっており、その唯一の例外が、「量子力学」という節です。その節の本文は下記の通りでありますが、
“認識主体と認識対象の関係性自体をその枠組みの中に収める仏教は、微視的な物理現象を扱うがゆえに観測行為と観測対象の関係性の問題である「不確定性原理」(あるいはそれと混同されがちな「観察者効果」)を抱える量子力学と、近似性を見出すことが可能な側面もあるため、関連付けて論じられることがよくあるが、そんな仏教の中でも特に中観派の思想は、中心的な概念である「空」を、状態の「未確定性」「可能性」「潜在性」の束・塊と解釈することができ、量子力学における「重ね合わせ」「観測問題」等との近似性・共通性を見出しやすいため、特に量子力学と関連付けて語られやすい。”

この引用した部分に含まれている名詞のうち、下記の13個は、この節の出典とされている論文(後藤蔚「量子論と仏教」に含まれていないようです。

認識主体,認識対象,微視的,物理現象,不確定性原理,観察者行為,近似性,未確定性,潜在性,未確定性の束・塊,可能性の束・塊,潜在性の束・塊,観測問題

これらの名詞は、いったいどこの資料を出典としているのでしょうか。問題の節「量子力学」の本文の中身を執筆した利用者はTrwdspt氏およびKrtstm氏であることが、差分表示により明らかです。この節を執筆したご両人は、この節の記述の的確な出典を挙げるべきでは。--Leonidjp会話2015年10月8日 (木) 05:38 (UTC)[返信]
現状では、この「量子力学」という節は約260文字の1文の中で13個もの名詞が無出典であるという状態です。この「量子力学」という節に新たな・的確な出典が挙げられない場合は、この節の本文はページから削除しましょう。今日から7日待って、その間にコメントなり出典が付かなければ、削除を実行します。--Leonidjp会話2015年10月8日 (木) 07:23 (UTC)[返信]

上記2015年10月8日 (木) 07:23 (UTC)の提案から1周間経ち、その間、コメント等が付きませんでしたので、上記の提案のとおり、この「量子力学」という節はページから除去しました。--Leonidjp会話2015年10月15日 (木) 08:34 (UTC)[返信]

コメント言語哲学」という節について。
まず、この節の中盤までの本文は下記の通りですが、

“一方で、仏教思想は概ね、ただの認識対象にまつわる素朴な実体論に留まらず、認識主体や言語との関係性としての認識論や言語論を内包しているので、西洋の哲学・思想・学問と関連付けて論じられる際にも、そうした切り口(例えば、ハイデガーの現象学的存在論との共通性、デリダの脱構築との共通性、ポストモダニズムとの類似性など)から論じられることが多いが、そんな仏教思想の中でもとりわけ、ナーガールジュナ・中観派の思想は、「言葉・概念の相対性・恣意性」にまつわる考察・主張が際立っているので、20世紀以降の西洋における言語哲学、例えば
  • フェルディナン・ド・ソシュールの「シニフィアンとシニフィエ」(構造主義言語学)
  • バートランド・ラッセルの記述理論
  • ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」
等と絡めて論じられることが多い。”

この引用した部分の全体に出典情報が皆無です。末尾には「中村元以外では、黒崎宏丸山圭三郎等々を参照。」などという脚注らしきものが書いてありますが、その「黒崎宏」、「丸山圭三郎」が具体的にどの文献を指しているのか全く不文明です。従って、上記の引用部分は事実上、無出典です。適切な出典をご存知の方がおられたら、挙げてください。
次に、同節の後半について。本文は下記のとおりです。下線部は、出典に関して問題のある部分。

“中村元は、長年アリストテレス的実体論に支配されてきた西洋が、近代以降、とりわけ20世紀以降、徐々にその影響下から逃れることで、ナーガールジュナ・中観派に対応する発想が出てくるようになったとするが、その中でも注目すべきものとして、(ノーベル賞も受賞した論理学者かつ数学者かつ哲学者である)バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』における実体論批判を引用している。”

この部分の出典たる中村元『龍樹』p.438-439には、「(中村元は)西洋が、近代以降、とりわけ20世紀以降、徐々に(アリストテレス的実態論の)影響下から逃れることで、ナーガールジュナ・中観派に対応する発想が出てくるようになったとする」という意味の記述はありません。正しい出典が、同書p.438-439以外のどこかにあるのであれば挙げてください。--Leonidjp会話2015年10月15日 (木) 12:20 (UTC)[返信]
コメントアリストテレス云々の段落の問題は、出典に照らして修正をほどこした。--Leonidjp会話2015年11月7日 (土) 02:30 (UTC)[返信]

コメント報告。2015年7〜8月に15回の編集をなさっていたTrwdspt氏の加筆分を読み返したところ、出典不明の記述が多数あることが分かりました。同氏には出典情報の加筆を要望しておきました。--Leonidjp会話2015年10月24日 (土) 06:31 (UTC)[返信]
コメントこのページ「中観派」に対するTrwdspt氏の編集のうち、出典不明のものの一覧を当ノートページにも列挙しておきます。下記のとおりです。
※「○行目」というのは、現時点の最新版における行番号ですから、今後に段落の増減があった場合は変動すると思います。

ページ8行目。出典不明。
ページ52行目。出典不明。
ページ57行目。出典不明。
ページ61行目。出典不明。
ページ67行目。出典不明。
ページ51-69行目。訳文以外は出典不明。
ページ84行目。出典不明。
ページ166行目。出典不明。

なお、下記の「10行目」・「80行目」は、出典らしき文献のページ範囲(179-230,250-258)においてTrwdspt氏の執筆分が何ページ目を出典としているのか不明確です。

ページ10行目。出典は中村『龍樹』p179-230(か?)。
ページ80行目。出典は中村『龍樹』p250-258(か?)。

上述のとおりTrwdspt氏に出典情報の加筆を要望した日時は(2015年10月24日 (土) 06:14 (UTC)でしたので、この日時から7日以内に同氏からの何らかの応答なり出典情報の加筆なり、あるいは余人による出典情報の加筆なりがなされない場合は、このページ「中観派」に対するTrwdspt氏の編集をページの本文から取り消す方向で修正することを提案します。具体的には、とりあえず、ページ「中観派」に対する同氏の1回目の編集の直前の版まで「差し戻し」をしたうえで、Trwdspt氏の連続投稿の間に挟まっているKrtstm氏の投稿は内容に応じて適宜再現する、という具合に。(ただし、「量子力学」という節は上述のとおり除去されるべきですから、再現しません)。--Leonidjp会話2015年10月25日 (日) 02:10 (UTC)[返信]

Trwdspt氏による上述の出典不明瞭な記述群をページから除去するために、同氏の1回目の編集の直前の版まで「差し戻し」をしました。
Trwdspt氏による複数の投稿の間に挟まっている別人の投稿は、Krtstmさんの4件の投稿(下記)でしたが、

このうち、1と4は、今回の差し戻しによって当該の段落そのもの(55,56,57行目)が「出典不明」という理由で除去されましたので、再現する必要がありません。また、2と3は「量子力学」という出典不明の節に対する出典不明の編集ですから、やはり再現しません(説明は上述の通り)。
ここまでの「差し戻し」によって、現在の最新版は、Zenji30氏による2015年3月5日 (木) 12:27‎の版と同じものになりました。--Leonidjp会話2015年11月1日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
この差し戻しによって、ページ6行目にもともと付けられていた出典情報(2個)が欠落しました(参照)ので、差し戻し操作後に手動で付けなおしておきました。あわせて、htmlタグ(blockquoteタグ)をWikipediaの記法で置き換えるという操作もやりなおしておきました(参照)。--Leonidjp会話2015年11月1日 (日) 02:47 (UTC)[返信]

このZenji30さんが、ページ「中観派」に対して行った編集は2回でありまして、そのうちの古い方の編集(2014年12月31日 (水) 03:57)は、8行目・16行目・24行目の加筆(下記参照)が無出典です。

  • 8行目:「(ちなみに、こうした〜その独創性にあるわけではない。)」
  • 16行目:「(逆に言えば、〜頓挫することになる。)」
  • 24行目:「(ただし、後で下述するように〜踏まえておく必要がある。)」

なお、10行目(字数は約300字)のみに【『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 pp179-230】という出典情報が付いてはいますが、pp.179-230というのは実に51ページもの分量です。300字の記述の出典を51ページもの分量の中から他人が探しだすことは大変困難ですので、これも事実上の「出典不明な記述」と見なすことが可能だと思います。
ちなみに、Zenji30氏は2015年5月の時点で無期限の投稿ブロックを受けています(参照)ので、執筆者たる同氏本人から出典情報をあらためて聞き出すことは不可能です。 従いまして、Zenji30氏による2014年12月31日 (水) 03:57の編集のうち上述の8,10,16,24行目は無出典であるため、ページから除去することを提案します。これから7日以内にコメントなり新たな出典情報が付かなければ、除去を実行します。--Leonidjp会話2015年11月1日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
コメント上述の2015年11月1日 (日) 02:37 (UTC)の提案から7日経ち、その間、出典やコメントの投稿がありませんでしたので、提案どおり、Zenji30氏の2014年12月31日 (水) 03:57の加筆内容のうち8,10,16,24行目に対する加筆をページから除去しました(差分)。--Leonidjp会話2015年11月8日 (日) 04:55 (UTC)[返信]

このページ「中観派」に対するAmedamacha氏の加筆のうち、下記のものは無出典なので、「取り消し」の操作をするなどして同ページから除去することを提案します。なお、Amedamacha氏は無期限の投稿ブロックを受けているので、同氏から出典を聞き出すことは今や不可能です。

なお、同氏による下記の加筆分は、出典らしき文献のページ範囲は記載されていますが、ページ範囲が広いため、同氏がピンポイントに何ページ目を出典としているのか不明です。余人がページを特定することは容易ではありませんから、これも事実上の「出典不明な加筆」と見なして除去します。

今日から7日以内にこれらの箇所に出典の付加がなされたり、除去提案に対する異論が出たりしなければ、除去を実行します。--Leonidjp会話2015年11月7日 (土) 05:43 (UTC)[返信]
上記の除去提案のうち、8・10行目に関する5件は、2015年11月8日 (日) 04:55 (UTC)に実行した除去操作によって当該の段落自体が除去されているので、重ねて除去する必要はないから取り消し線で隠しておく。。--Leonidjp会話2015年11月12日 (木) 02:05 (UTC)[返信]
上記 2015年11月7日 (土) 05:43から7日経ち、その間、異論などが出ませんでしたので、提案どおりAmedamacha氏による上掲の加筆分をページから除去しました。※これらの除去分をページに復活させたいときは必ず出典をお付けになってください。--Leonidjp会話2015年11月14日 (土) 06:34 (UTC)[返信]

本記事の内容に関する議論の紹介[編集]

ノート:中道#「中観との関係」について において、中観派の記事の内容にも直接に関わる議論が提起されていますので、お知らせしておきます。--Leonidjp会話2017年4月28日 (金) 07:48 (UTC)[返信]

報告この件は、ノート:中道に本日、出典付きで示された国訳一切経の訳文に基づいて中観派の問題箇所を編集することにより、決着しました(参照)。--Leonidjp会話2017年5月9日 (火) 22:48 (UTC)[返信]

サンスクリットについて[編集]

現在、中観派#中観と中観派の原義の節でMadhyamaka と Madhyamika の翻訳が試みられていますが、荻原雲来の『漢訳対照梵和大辞典』p.995には、

madhyamaka [形]([女] -ikā)([属])に共通な. [中] 内部.
〜 m pra-Vis 入り込む.

という訳が書いてあります。ただし2行目のmは下に点が付いたもの。sは上に短い右上がり斜線のような記号が付いたものです。[ ]内の記号はそれぞれ、形容詞、女性、属格、中性。
総合佛教大辞典p.994によれば、中観派はMadhyamaka あるいはMadhyamika の訳だそうです。とすれば、ここに引用したこの訳はMadhyamaka と Madhyamika の語義つまり「中観派」の原義(サンスクリットにおける語義という意味での、原義)になりはしないのでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 10:22 (UTC)[返信]

また、中観派#中観と中観派の原義の節では、Madhyaの翻訳も試みられていますが、荻原の『漢訳対照梵和大辞典』p.995にはmadhyaの訳が、漢訳も含めてざっと数えて30個以上載っていますが(面倒なので引用しません)、これらがMadhyaの訳として中観派の記事に採用されていないのは何か理由があるのですか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 10:22 (UTC)[返信]

コメント 記事で挙げた斎藤明の論文(『シリーズ大乗仏教6 空と中観』所収「中観思想の成立と展開 - ナーガールジュナの位置づけを中心として」)によると、中観の原語とされる Madhyamaka は、「中(の)」を意味する madhya に接尾辞 -ma と -ka が付加された語です。『実習サンスクリット文法: 荻原雲来『実習梵語学』新訂版』の巻末によると、madhya の意味は、形容詞としては「中央の、中間の」、名詞としては「中央」です。本格的な辞書なら派生的な意味・用法もたくさん並んでいるでしょうが、文法書の付録の語彙集ですから基本的な意味しか載っていないわけです。斎藤氏の記述をもとに Madhyamaka の語釈を簡単にまとめると、「中(の)」を意味する madhya の派生語である、ということになります。--Doomreaper会話2017年5月14日 (日) 16:56 (UTC)[返信]
ありがとうございます。斎藤氏の出典を用いたその段落については承知いたしました。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 23:23 (UTC)[返信]
コメント その次の段には、Madhyamaka が madhya + yamaka の複合語で Madhyamika が madhya + yamika に複合語であるかのような記述がありますが、斎藤氏の論文にはそういうことは一切書かれていないですし、他の文献でも未見です。yamaka が二辺(二つの極端)を含意していると仄めかしたいのかもしれませんが、ya が連続する時に 片方の ya が消失するという文法規則がなければこのような語形になりませんし。それから、Sanskrit Dictionary for Spoken Sanskrit は Spoken Sanskrit というからには、インドのバラモンが現在も典礼言語に使っている一般的なサンスクリットについての辞書と考えると、仏教語の理解に資するところは少ないかもしれませんね。--Doomreaper会話2017年5月15日 (月) 01:20 (UTC)[返信]
>>ya が連続する時に 片方の ya が消失するという文法規則がなければこのような語形になりませんし。
コメント 仰るとおりです。
>>Sanskrit Dictionary for Spoken Sanskrit は Spoken Sanskrit というからには、インドのバラモンが現在も典礼言語に使っている一般的なサンスクリットについての辞書と考えると、仏教語の理解に資するところは少ないかもしれませんね。
コメント そうですね。仏典は口語のサンスクリット(spoken sanskrit)で書かれたものであるそうですが、とはいえ、何世紀も前の口語の語義を知ろうとするときにこれが適切な辞書であるのか、という疑問は当然のものだと私も思います。--Leonidjp会話2017年5月15日 (月) 01:48 (UTC)[返信]

(インデント戻します)現在、本記事には mādhyamika の意味として上記 spokensanskrit.de を引いて「中央インドの人々的」が掲載されていますが、中観と中観派の原義というトピックを理解するのにあまり関係ないので要らないんじゃないでしょうか。こちらのサイトで माध्यमिक を検索すると、モニエル・モニエル=ウィリアムズの梵英辞典に3つの用例が載っていることがわかり、以下のことが読み取れます。

  1. madhya の派生語で madhyamaka に同じ(ニルクタにある用例)
  2. 男性複数主格「仏教の一学派(の)
  3. 男性主格「中央インドの一民族(の)」(ヴァラーハミヒラのブリハットサンヒターにある用例)

2番目に依拠して「中観派の原語である mādhyamika は仏教の一学派の名称として使われる」と書いてもトートロジー同然ですし、3番目は中観派の原語と同じ語がそのような意味で使われる例がある、というだけのことですね。--Doomreaper会話) 2017年5月15日 (月) 09:48 (UTC) 追記:主格であるならば名詞に違いなく、"N. of ***" の後の **** が名詞としての意味になるはずですから、とりあえず of を訳しておいた”(の)”に取り消し線を入れました。--Doomreaper会話2017年5月29日 (月) 03:18 (UTC)[返信]

このトピックに関しては Mādhyamika が madhya (中)の派生語であることを示すのが肝心かと思われます。前述の斎藤論文では madhyamaka が madhya の派生語であることは説明されていて、Mādhyamika も同様であることはほぼ自明なのですが、明記されていないのでこちらの件の出典には使えません。--Doomreaper会話2017年5月15日 (月) 10:21 (UTC)[返信]

コメント 承知しました。当該箇所のご編集、ありがとうございました。
>>Mādhyamika も同様であることはほぼ自明なのですが、明記されていないのでこちらの件の出典には使えません。
コメント Mādhyamikaについては、東方出版の基本梵英和辞典には載っていませんでしたが、もしかすると荻原雲来の漢訳対照梵和大辞典の996頁以降のあたりに載っているかもしれません(先日、図書館で見忘れました)。--Leonidjp会話2017年5月16日 (火) 00:28 (UTC)[返信]

編集の理由説明[編集]

編集の理由説明が編集画面の要約欄に入りきらないときは、ここで説明します。

2017-05-15[編集]

こちらについて。

  • 下記の部分、削除。理由:yamakaをMadhyamakaから切断して翻訳できることの根拠が、出典を伴って示されていない。従って、切断の位置がyであることは切断者の恣意でしかないので、切断行為および、切断後のyamakaの語義が、「中観派」を解説することと如何なる正当な関係や必要性をもつのか不明となる。切断の、文法的正当性も不明。従ってこれは当記事に載せるべきではないし、載せる必要がない。
    • yamaka が「twin(双子の), twofold(2倍の), doubled(2重の)」などの意味がある<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?beginning=0+&tinput=yamaka&trans=Translate&direction=SE yamaka (यमक)]. spoken sanskrit dictionary.</ref>
  • 下記の部分、削除。理由:yamikaをMadhyamikaから切断して翻訳できることの根拠が、出典を伴って示されていない。従って、切断の位置がyであることは切断者の恣意でしかないので、切断行為および、切断後のyamikaの語義が、「中観派」を解説することと如何なる正当な関係や必要性をもつのか不明となる。切断の、文法的正当性も不明。従ってこれは当記事に載せるべきではないし、載せる必要がない。
    • Madhyamika の yamika は「being on watch or guard(観察または警戒している), watchman/night-watcher(夜警)」<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?beginning=0+&tinput=yamika+&trans=Translate&direction=SE yamika (यामिक / यामिका / यमिका)]. spoken sanskrit dictionary.</ref> などと梵英訳されることがある

以上。--Leonidjp会話2017年5月15日 (月) 01:06 (UTC)[返信]

出典と思われる資料の紹介[編集]

中観派は出典の無い記述が多い記事ですが、下記の3つの節の内容は、中村元『龍樹』(講談社学術文庫、第一刷は2002年刊)を出典としているとみられますので、その該当するページ番号を紹介しておきます(ただし、出典がこの本のみでない可能性はあります)。

以上。--Leonidjp会話2017年6月2日 (金) 03:57 (UTC)[返信]
一個取り消し。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 10:03 (UTC)[返信]