ノート:不作為義務/過去ログ1

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内容について[編集]

「法律の目的は作為義務(行わなければならないこと)と不作為義務の2種類の行為から成り立っている」では日本語として変です。

「法律の目的は『作為義務(行わなければならないこと)』と『不作為義務』の2種類の行為を明確に規定するところにある。」という意味でしょうか?Adacom 06:39 2003年7月21日 (UTC)

改名について[編集]

不作為義務という言葉は主に刑法の不作為犯の成立要件として問題になり、単独項目では字引レベル以上の記載内容は期待できそうにないので、「不作為犯」に項目名を変更してはどうでしょうか。倫敦橋 2006年3月24日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

正確には「作為義務」ですね。ただし「不作為義務→作為義務→不作為犯」と変更するのも面倒なので、提案は取り下げません。倫敦橋 2006年3月24日 (金) 14:23 (UTC)[返信]

不作為義務は作為犯のみに関わるものではありません。民事上の不作為義務や行政上の不作為義務もあります。したがって、改名ではなく、「不作為義務」の項目の内容を「義務」の項目に移し、「不作為義務」は「義務」へリダイレクトさせればよいと思います。--MIsogi 2006年4月2日 (日) 08:02 (UTC)[返信]

  • わかりました。履歴継承の手間が生じることを考えると統合よりも移動の方が処理が簡単なように思えたので、(民事上の不作為義務や行政上の不作為義務の存在を承知の上で)あえて改名提案にしてみたのですが、既に不作為犯の項目が新規作成され、上記の理由はその前提を失ってしまいましたので、提案は取り下げます。後の処理はお任せしますね。倫敦橋 2006年4月2日 (日) 08:45 (UTC)[返信]

続・改名について[編集]

(ここをご覧になる利用者の方々へ) 当項目はかなり長くなりましたので、続・改名についての要約に、この項目で論じられている内容を要約しました。Kuijken 2006年9月10日 (日) 11:50 (UTC)[返信]

義務の項目への統合は困難なようですので、とりあえず作為義務・不作為義務に項目名を変更することを提案してみます。いずれにせよ字引レベル以上の記載は難しそうですし、改名を急ぐ理由もないので、時間をかけて考えた上で、より適切な名称やこの項目の使い道を思いついたら別の名称にするかもしれませんが。倫敦橋 2006年4月15日 (土) 14:10 (UTC)[返信]

義務の項目で修正を行った者です。作為義務・不作為義務という項目を立てることは(ウィクショナリーの方であっても)適切でないと考えます。そのような項目を立てるべき理由・実情がないからです(ノート:義務にも説明しました)。立てるならば、ウィクショナリーに「作為」・「不作為」で立てるのが適切と考えます。作為・不作為ならば、形式的に意味を対応させるだけでも、何の問題も生じないからです。
作為義務は、一般に、刑法上(不真性)不作為犯の成立要件として問題になる概念です。これは「不作為犯」の説明の中でとりあげられるべき概念であり、個別に項目を立てるのはおかしいです。他の場合においては、正しく記述すれば、作為・不作為という語の字引レベルの用例が列挙されることになるだけです(これらについては、倫敦橋さんも指摘されている通りです)。そこで、わざわざ独立の項としての意義をもたせるべく「義務の側面から法体系を説明」(MIsogiさんのノート:義務でのコメント)してしまいますと、一般的な読者に「作為・不作為という形式にしたがって規定が作られれば、「それに対応した」作為義務・不作為義務が(個別の理由づけと常に無関係に)生ずる」という誤った理解を与えるもととなります。
一般的に用いられる辞典の「作為義務」という項目にも、刑法上の説明があるだけです。有斐閣の法律学小辞典だけでなく、(より一般向けの体裁を備えた)自由国民社の図解による法律用語辞典でも同様でした。
「不作為義務」に至っては、項目自体が一般的に用いられる辞典(法律学小辞典、図解による法律用語辞典)にありません。
念のため、広辞苑も調べてみたところ、「作為義務」・「不作為義務」いずれの項目もなく、「作為」・「不作為」という項目があるだけでした。また、それらの項目には、作為「債務」・不作為「債務」、「作為犯」・「不作為犯」が参照項目として記載されており、それぞれの項目の説明の中に「作為義務」「不作為義務」という語はみられませんでした。
それから、法律学小辞典、広辞苑の「義務」という項目にも、「作為義務」・「不作為義務」という概念が一般的に成立するという内容の記述はありません(図解による法律用語辞典には、「義務」という項目自体がありません)。Kuijken 2006年5月2日 (火) 02:07
少々お互いの理解が食い違ってる部分もありそうですが、ご意見は承りました。ただ、初版投稿者の意思をなるべく尊重したいので、上手い移動先が見つからないかもう少し考えてみます(例えば受忍義務受忍限度論など)。倫敦橋 2006年7月13日 (木) 22:39 (UTC)[返信]
項目に関連して付け加えるべきところはないのですが、倫敦橋さんのコメントに、気になるところがあります。
「少々お互いの理解が食い違っている部分もありそう」ならば、ほのめかしに留めず、その「食い違い」に関して、説明を行うべきです。「食い違っている部分もありそう」とだけ述べた上で「ご意見『は』承りました。」とするような書き方ですと、実際にはまったく根拠を述べていないのに、合理的な異論があるかのような印象を第三者に与えます。なぜ、そのような不明朗な書き方をなさるのですか。そのような書き方は避けるべきです。
「初版投稿者の意思をなるべく尊重したい」とありますが、Wikipediaは、個人的意見を述べる場ではなく、一般的所見をまとめる場です。一般的所見をまとめるにあたって、「初版投稿者ゆえに、その意思が尊重されるべき」と考える合理的な理由はありません。すでに説明しましたとおり、不作為義務という言葉に固有の一般的な含意はありませんので(ごく簡単に言い表すなら、「不作為の義務」という項目を立てる意味はない、ということです)、項目を削除すべきです。Kuijken 2006年7月24日 (月) 12:01 (UTC)[返信]
Wikipediaは議論の場ではありませんので、特定の利用者同士の理解の食い違いを浮き彫りにするまでとことんやりあう必要もないかと。意見を見る限り、Kuijken様の個人的意見を一般的所見なるものと同視すべきと考える根拠も、またないようにも見えますしね(個人的な感想なんでお怒りなく)。相手の主張に説得的な根拠がないと判断してる場合は、反論そのものをしない、というのもまた一つのやり方だとご理解ください(ボール球と思ったらムリにヒッティングせずアンパイヤの判断に委ねることにしてますので)もちろんこれも個人的な感想です。なお、事実上投稿されてしまった以上、初版投稿者以外の人間が項目そのものを削除するのはかなり困難だと少なくとも私は理解していますし、項目名について有効な改名案をお持ちでなくただ削除のみを強硬に主張される方とはこれ以上話し合っても仕方がありませんかなぁとも思っています(単に不作為義務の名称が無駄に延命されることになるだけです)。別に不作為義務の名称のままで存続させろ、とはこちらも一言も言ってはいなかったハズですしね。
無論Kuijken様がWikipediaのルールに基づいてご自身の労力を使用してこの項目の削除の道を模索されることは(協力もしませんが)邪魔をすることもまたしないと思います。ご健闘をお祈り申し上げます。倫敦橋 2006年7月24日 (月) 13:25 (UTC)(敬称を追加 倫敦橋 2006年7月24日 (月) 13:28 (UTC)[返信]
以下、項目に関するコメントと、倫敦橋さんの意見へのコメントに分けて返事します。文章の流れの関係上、倫敦橋さんへのコメントを先にします。
  • 倫敦橋さんの意見へのコメント
Wikipediaは議論の場ではありませんが、一般的所見をまとめるために必要な議論が行われる場ではあります。私は「特定の利用者同士の理解の食い違いを浮き彫りにするまでとことんやりあう」べき、といった極端な主張をしたわけではなく、倫敦橋さんが 2006年7月13日 (木) 22:39 (UTC) でとられた表現に見合った説明はなされるべきだと指摘しただけです。議論を望まないなら、説明を求められるような記述(ほのめかし)をしなければいいだけのことです。そもそも、理解の食い違いをほのめかして予断を招くような記述をしないことは、Wikipediaに限らず、議論がなされる場合の一般常識です。
それから、「相手の主張に説得的な根拠がないと判断してる場合は、反論そのものをしない、というのもまた一つのやり方」とありますが、倫敦橋さんは、2006年7月13日 (木) 22:39 (UTC) で、(論のない)反論を行っていますから、「一つのやり方として反論そのものをしな(かった)」は、事実に反しています(左引用部のように「相手の主張に…」と述べることも、同種の論のない反論です。はっきり言えば、ただの「あてこすり」です)。実際に倫敦橋さんがとられた「やり方」は、反論に際して理由を述べずに、ほのめかしで印象付けを行い、それを相手に指摘された場合には整合的でない言い分を述べることでした。
加えて、「意見を見る限り、Kuijken様の個人的意見を一般的所見なるものと同視すべきと考える根拠も、またないようにも見えますしね(個人的な感想なんでお怒りなく)。」とありますが、倫敦橋さんは、ここで「ある人が意見を述べたならば、述べられた意見は、当然にある人の『個人的意見』である」という前提をとっています。一般的所見と同視しうる『個人的意見』という図式を成り立たせるためには、意見の内容が一般的かという論点と無関係に、個人が述べた事実のみを理由に『個人的意見』を考える必要があるからです。しかし、一般的所見に関して、そのような見方をするのは誤りです。一般的所見か個人的意見かは、述べる主体が個人かどうかで分かれるわけではありません。一般的所見とは、一般性の高いソースに基づき合理的に一般的な同意が期待できることを示しながら述べられる意見のことであり、そのような一般的所見と対比される意味における個人的意見は、そのような観点を考慮せずに述べられる意見のことです。これらは、いずれも個人が述べるという意味では常に『個人的意見』であり、それと同視される一般的所見、のようなものはありません。一般的所見とは、事実レベルでいえば、一般的と言えるくらい多数の『個人的意見』となっていることを意味するからです。
さらに、たびたび「個人的な感想」と断って、意見を述べていますが、「感想」は、自分の発言の根拠を説明する責任を回避する免罪符ではありません。感想だからと断れば、意見でないことになったり、説明する責任がないことになったりはしません。
また、「お怒りなく」のような補足は、相手を愚弄するものです。一般に、どういう状況であれ「怒ること」は、印象としてプラスに働きにくい要素です。相手が現在の展開に関連して、怒ることが当然であると主張しているわけでもないのに、一方的に相手が怒っているという前提を印象付ける発言をすることは、怒っている相手をなだめている自分←→怒っている相手という対立図式を、第三者に体よく印象付けようとするもので、汚いやり方です。「強硬に」という形容を加える点についても、同様です。
  • 項目に関するコメント
倫敦橋さんは「有効な改名案を出す」という書かれ方をされていますが、2006年7月24日 (月) 13:25 (UTC) を読んでいると、どうもこの項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味のようにとれるのですが、そういう意味でしょうか? それでしたら、当然ですが異論はありません。ただ、そのことを「改名案」と表現されますと、「不作為義務」の説明を実質的に残す含みが感じられ、いまひとつ意図するところが分かりませんでした。Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────>どうもこの項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味のようにとれる

ああ、まさしくその通りです。単独項目としての不作為義務という題名の記事は(私の場合は発展性が乏しいという、俗っぽい理由でですが)不要という認識は変わりません。私としてはその点についてのご同意のみ確認できれば十分です。なお、移動後の作為義務不作為義務のリダイレクト先をどうすべきか(それとも曖昧化するか)はいずれにせよ問題になりますが。倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC)(一部修正 倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:13 (UTC)[返信]

そうですか、了解しました。リダイレクトに関してですが、「作為義務」は不作為犯へ、「不作為義務」は、義務へ転送するのが良いのではないかと思います。Kuijken 2006年7月25日 (火) 16:51 (UTC)[返信]
特に異議がないようなので、上記の通りにリダイレクトを変更しました。この項目をリダイレクトページにすれば、「実質的に別の項目に改変して残す」意味はないようです。Kuijken 2006年9月9日 (土) 04:41 (UTC)[返信]
Kuijkenさんがウィキブレイクされていたようなので、特に異議を書かなかっただけですよ。それに単に「思います」と書いただけではまともな提案とは認められません。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:31 (UTC)(一部修正。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:38 (UTC)[返信]
倫敦橋さんは、「特に異議を書かなかった」理由を、「ウィキブレイクされていた」と称して、私が 2006年7月25日 (火) 16:51 (UTC) 以降に投稿していなかったことに帰していますが、私が投稿していなかったからといって、倫敦橋さんが投稿しない(異議を書かない)理由にはなりません。せいぜい、倫敦橋さんがウィキブレイクをしていたかどうかが問題なだけです。倫敦橋さんが「私はウィキブレイクしていたから、異議を書けなかっただけだ」というならまだ分かります(1ヶ月以上経過しているのだから、それでもおかしいですが)。
もっとも、倫敦橋さんは「単に「思います」と書いただけではまともな提案とは認められません。」と、私の文章の最後のところだけ捉えて「まともな」「提案とは認められません。」としているので、<書かれていない提案に異議を書きようがない>と返したくなるのかもしれません。しかし、その「思います。」の前には、「リダイレクトに関してですが、「作為義務」は不作為犯へ、「不作為義務」は、義務へ転送するのが良いのでは」とあります。これは、明らかに倫敦橋さんの「なお、移動後の作為義務や不作為義務のリダイレクト先をどうすべきか(それとも曖昧化するか)はいずれにせよ問題になります」に対応する提案です。「思います。」という文末が「まとも」かどうかを持ち出して、「まとも」でないなら、内容が書いてあるのに提案でないとみなすのは、問題の混同に基づく一方的なこじつけに過ぎません。
また、私の提案がまともかどうかですが、倫敦橋さんは「単独項目としての不作為義務という題名の記事は(私の場合は発展性が乏しいという、俗っぽい理由でですが)不要という認識は変わりません」としたのですから、現在の形(単独項目としての不作為義務という題名の付いた記事)に差し戻す理由は無いはずです。過去の倫敦橋さんの主張どおりなら、倫敦橋さんが維持すべき「項目」は、「新しい名称を付した」「新規項目」で足りるはずです。差し戻す理由は、個人的な感情に基づいているように思えますが(Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC) の中での批判、それへの 倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC)。また、[1])。[返信]
私の立場は、すでに説明してあるとおりです(Kuijken 2006年5月2日 (火) 02:07)。リダイレクト先を今後適当な項目に変更することならありえますが、前の版に差し戻す理由は全くないはずです。
Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC) でも批判していますが、倫敦橋さんの文章には、問題のある論じ方が多すぎます。もう少し落ち着いてコメントを書いてください。Kuijken 2006年9月9日 (土) 06:35 (UTC)[返信]
「問題のある」や「落ち着いて」なんてことを一方的にいわれても困りますね。まあ水掛け論はやめておきます。以前、 2006年7月25日 (火) 16:51 (UTC)での発言に「そうですか、了解しました。リダイレクトに関してですが、「作為義務」は不作為犯へ、「不作為義務」は、義務へ転送するのが良いのではないかと思います。」と書かれているので、「実質的に残す」という私の提案に対する「了解」と受け取ったのですが。だとすればノートでの合意に反する行動をとられたのはあなたの側だということをお忘れなく。なお、この不作為義務でのノートでの議論が継続中な以上、不作為義務をリダイレクト項目として埋もらせてしまうことは明らかに不適切です。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:39 (UTC)(修正。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:52 (UTC)[返信]
私は、コメント倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:31 (UTC) の、何が問題であるか論じた上で、「問題のある」と書いたのです。水掛け論と根拠無くレッテルを貼って批判を無視しないで下さい。むしろ、「一方的に」その種の発言をしたのは、倫敦橋さんの方ではないですか(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 13:25 (UTC) の「(個人的な感想なんでお怒りなく)」…Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC) で批判した)。Wikipediaでは、口頭と違って過去のやりとりをたどれるので、そういうごまかしは無意味ではないでしょうか。[返信]
それから「「実質的に残す」という私の提案に対する「了解」と受け取ったのですが。」とありますが、過去の経緯によれば「実質的に残す」の意味は、もともと私が述べた「この項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味」(Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC))です。しかも、それに続けて私は「それでしたら、当然ですが異論はありません」が、「ただ、そのことを「改名案」と表現されますと、「不作為義務」の説明を実質的に残す含みが感じられ、いまひとつ意図するところが分かりません」としたのです(強調引用者)。
それに対して、倫敦橋さんは、「>どうもこの項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味のようにとれる」と引用して「ああ、まさしくその通りです。」と答えたのです(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC))。倫敦橋さんがそう答えたならば、文脈上、続く「(現在の)「不作為義務」の説明を実質的に残す」ことは、否定したことになります。つまり、この項目をリダイレクトとしても構わない、なぜなら、「実質的に別の項目に改変する」必要性は、新規項目を立ててそこに記述することで満たされるから、ということになるはずです。私は、むしろ「実質的に残す」ことを否定し、倫敦橋さんも、それに同意したというのが、本当の経緯です。何が「ノートでの合意に反する行動をとられたのはあなたの側だということをお忘れなく。」でしょうか? それらしい言い回しで経緯に関して真っ赤なウソを書かないでください。[返信]
また、リダイレクト項目になっても、「埋もれ」たりはしません。リダイレクトの場合には、転送先の項目名の下に(<転送元項目名> から転送)と出ます。この<転送元項目名>をクリックすれば、リダイレクト元を見ることができ、リダイレクト元のノートを見ることも普通にできます。「議論が継続中な以上、埋もれさせるのは不適切」は、いかにももっともらしいですが、項目をリダイレクトページに変更すると、ノートにたどりつくために変更しない場合より手順が一つ増えることにかこつけた、ためにする批判にすぎません。Kuijken 2006年9月9日 (土) 08:27 (UTC)[返信]
────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────(インデント戻しますね)後付論法のような主張を許すときりがないのであえて反論はしませんが、どうやら合意の内容に齟齬があることははっきりしたようなので、差戻し原状回復措置をとったのは妥当であったと確信しました。あとは齟齬をゆっくりと埋めていけばいいだけの話ですので。なお、リダイレクト元のノートの存在を知るためにはリダイレクト元をクリックすることが必要ですので、あえてリダイレクト元をクリックするという酔狂な作業をしない限りリダイレクト元のノートにおいて話し合いがなされていることを知ることができないということになります。それを「埋もれた」と形容するのはさほど不適切ではないかと。
ところで本当に移動先をどうするか悩んでいるので、何かいい案はないでしょうか?そこさえ確定すれば不作為義務作為義務の記事をどうするか(リダイレクトにするか、字引で案内記事として残すか)はすんなり決まるんですよね。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 14:44 (UTC)(見やすくするため節の新設 倫敦橋 2006年9月9日 (土) 15:07 (UTC)[返信]
倫敦橋さん、「見やすくするため節の新設」と称して、名称変更の適否・リダイレクト先の選定等という項目の挿入によって、続・改名について」からの文脈をわかりにくくするようなやり方(版間の差分:[2])は、やめてください。あまりにも汚すぎます。
抽象的・暗示的に「(Kuijkenによる)後付論法のような主張を許すときりがないのであえて反論はしません」とか「(双方の)合意の内容に齟齬があることははっきりした」とだけ書いて「差戻し原状回復措置をとったのは妥当であったと確信」していますが、倫敦橋さんの文章には実質的な理由が何も含まれていません。それに、これまでの議論をたどれば、「後付論法」を現に用いたのは倫敦橋さんであること、合意の内容の問題は「(両者の)齟齬」ではなく「倫敦橋さんの文脈無視」にあることが明白です。倫敦橋さんに必要なのは「齟齬をゆっくりと埋める」ことではなく、単純にご自身が展開した論旨を具体的に踏まえて発言なさることです。具体的に踏まえようとすれば、倫敦橋 2006年9月9日 (土) 15:07 (UTC))のような態度は到底維持できないはずです。Kuijken 2006年9月9日 (土) 15:59 (UTC)[返信]
節が長くなった方が返って誤読が生じやすくなると思いますがね(笑)。再度繰り返しますが、余計なことは書かずに読み手に任せるべきところは読み手に任せる、というのが私の方針です。あなたの半ば陰謀論めいた非難、じゃなかった批判にまともに返信することはかえって読者に余計なメッセージを与えかねません(もっとも、あなたの今晩の行動を見るまでは少しは相手にしてあげてもいいかと思って、以前のあなたの発言や指摘のあった義務のノートなどにも時間をかけてもう一度目を通していたのですが)ので。もしあなたの主張が適切なものであると確信しているのであれば、私がまともに返信しない(ようにあなたには見えてるはずですよね?)ことはあなたにとって好都合なことではないでしょうか?「相手を論破した」という外観が存在しなければ説得力を具備できない程度の主張ならそれこそ反論するに値しません。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 16:15 (UTC)[返信]
問題は「見やすくするため節の新設(節を短くする方が誤読が生じにくくなる)」と称して、名称変更の適否・リダイレクト先の選定等という項目の挿入によって、続・改名について」からの文脈をわかりにくくするようなやり方(版間の差分:[3])にあります(Kuijken 2006年9月9日 (土) 15:59 (UTC))。その点を無視して「節が長くなった方がかえって誤読が生じやすくなる」と一般論を持ち出しつつ「(笑)」などと虚勢を張っても、見苦しいだけです。[返信]
「余計なことは書かずに読み手に任せるべきところは読み手に任せる」は、聞こえのいい一般論ですが、実際には、そう述べた先から倫敦橋さん自身が「陰謀論めいた非難」などと、「余計なこと」を書いています。「じゃなかった批判」などとごまかしていますが、こんなのに踊らされるほどに判断力の低い第三者がどれくらいいるのでしょうか。
「陰謀論」「余計なメッセージ」「相手にしてあげてもいい」等とレッテル・高圧的言辞を並べることは、逆効果です。普通の判断力を持つ人は、レッテル・高圧的言辞と論であれば、前者の方が陰謀らしい・いかがわしいと考え、さしあたり、論を読んでみると思われます。幸か不幸か、倫敦橋さんは冒頭から詭弁・強弁を連発していますので、少しでも読めば、倫敦橋さんの態度のおかしさは理解されるでしょう。
それから、「私がまともに返信しない(ようにあなたには見えてるはずですよね?)ことはあなたにとって好都合」とありますが、倫敦橋さんがまともに返信しないレベルは、単に「議論に応じない」というレベルを超えています。その、超えているところを批判したからといって、私が項目に関係して行った主張の説得性に何かがプラスされるなどとは、考えていません。むしろ、倫敦橋さんのような人間に「「相手を論破した」という外観が存在しなければ説得力を具備できない程度の主張ならそれこそ反論するに値しません」などとレッテルを貼られるのに役立つくらいでしょう。私は、単純に倫敦橋さんの論じ方にかなり問題があると考えるから、その通り指摘しているだけです。ノートが長くなったのは、倫敦橋さんが自身の明白な誤りを認めないことに加え、不当な印象付け等に終始していることに対応しているためです。その経緯は、倫敦橋さんがどのようにごまかそうとしても、ノートに残っています。Kuijken 2006年9月9日 (土) 17:15 (UTC)[返信]

リダイレクトについて[編集]

当項目を義務にリダイレクトさせました。変更に至った経緯・理由は、「続・改名について」以下にあります。Kuijken 2006年9月9日 (土) 05:11 (UTC)[返信]

項目名の変更は現在も考慮中です。失礼ですが、一ヶ月以上活動すらしていなかったあなたがそのようなことをされるのはどうかと思いますので、差し戻しますね。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:31 (UTC)[返信]
続・改名について」以下に書きましたが、項目名の変更の考慮は、リダイレクトを拒否する理由にはならないはずです。それと「一ヶ月以上活動すらしていなかった」かどうかが、何らかの編集を拒否する理由になるのでしょうか? 私は反応があるかどうかは、何度かチェックしていたのですが。 Kuijken 2006年9月9日 (土) 06:45 (UTC)[返信]
チェックなら私もしてましたが、PCや回線の向こうの出来事までは見通せませんので、そのような場合はまずノートで返信を催促してみることをお勧めします。移動先の候補がいろいろあって悩んでるんですよね。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:41 (UTC)[返信]
問題になっていたのは、「チェックしていたかどうか」ではなくて、倫敦橋さんが「一ヶ月以上活動すらしていなかった」ことを理由にリバートを行った点です。むしろ、「PCや回線の向こうの出来事までは見通せ」ないのに、「活動すらしていなかったあなた」などと決め付けたのは、倫敦橋さんです。Kuijken 2006年9月9日 (土) 08:39 (UTC)[返信]
「活動すらしていなかった」というのは→[4]により判断しました。今後はノートで返信を催促した上で反応を待ってから行動されることを期待します。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 14:34 (UTC)[返信]
倫敦橋さん自ら「PCや回線の向こうの出来事までは見通せ」ない(書き込みをチェックしているかどうか判断できない)としているにも関わらず、私の投稿記録 により「一ヶ月以上活動すらしていなかった」と判断したというのは、明らかに理屈が通らないのですが。言い逃れは見苦しいですよ。Kuijken 2006年9月9日 (土) 15:36 (UTC)[返信]
説明不足でしたが、ウィキペディアにおいて「活動」という用語は私が使った意味で用いるのが一般的ですので、この機会に覚えて置いてくださいね。この点に関しては譲るつもりはありませんよ。倫敦橋 2006年9月9日 (土) 15:51 (UTC)[返信]
最後の「この点に関しては譲るつもりはありませんよ」は、感情先にありきであることを白状しているようなものです。「活動」についてですが、もし、倫敦橋さんが、ウィキペディアにおける意味として「活動」という語を用いたのであれば、最初の「一ヶ月以上活動すらしていなかったあなたがそのようなことをされるのはどうかと思います」という主張の正しさ自体が怪しくなります。自身が出した提案(書いたコメント)に反応があるかチェックしているならば、項目の編集作業に実質的に関わっていることになりますから。不作為義務と全く無関係な項目に投稿しつづけていた履歴があるなら、リダイレクトの変更をしてよく、そうでないならだめ、というのは明らかに不合理です。Kuijken 2006年9月9日 (土) 16:10 (UTC)[返信]

続・改名についての要約[編集]

導入[編集]

Kuijkenです。以下に、続・改名についてで論じられたことを要約・列挙します。署名から差分のリンクを確認することができます。

大きく分けて、論じられたのは、■A 【旧】不作為義務=【現】禁止本文を、どう扱うべきかについて ■B 倫敦橋氏の論じ方へのKuijkenによる批判と、それへの倫敦橋氏の応答 です。とりあえずAに目を通すだけで状況は理解できます。

Bは、倫敦橋氏の論じ方への批判という形をとっていますが、観点は一般的です。すなわち、ウィキペディアにおける議論は、高い公正さが要求されているはずであり、そうであるならば、Bに示された言動が許容されない状況となることは重要であるはずです。そういう一般的観点から指摘し、まとめているつもりです。

また、新たに、■C 倫敦橋氏による項目移動について を追加しました。これは、ブロック依頼が提出された後に、倫敦橋氏が行った項目移動(不作為義務→禁止)の意味について説明したものです。以下の要約中では、敬称を略します。

(補足)

  • この要約自体が長いと思えるかもしれませんが、■AはKuijkenの環境と設定(1280x1024、文字小)では1画面強程度であり、こちらで足りるようにしています。オリジナルの続・改名について は、2006年9月10日 (日) 11:50 (UTC) 現在、5画面近くあります。(■Bは2画面弱です。)
上は、倫敦橋氏から「「第三者」から「訳のわからない長文を書く困ったチャン」みたいなありがたくないレッテルを貼られる」というレッテルを貼られた」ので、それに答える意味で断りました。ところで、対等な議論をしているはずの場で「困ったチャン」などと表現するセンス自体、アレな感じだと思うのは私だけでしょうか。

A:本項目(不作為義務)を、どう扱うべきかについて[編集]

(注)上の本項目(不作為義務)とは、【旧】不作為義務本文、すなわち【現】禁止本文の過去の状態を指している。倫敦橋がブロック依頼を提出された後に項目移動を行ったために、現在のような状態になっている。詳しくは、C 倫敦橋氏による項目移動についてを参照。

■A-1:倫敦橋は、当初、不作為義務の項目名を、「作為義務・不作為義務」に変更することを提案した(倫敦橋 2006年4月15日 (土) 14:10 (UTC))。

■A-2:Kuijkenは、A-1に対し、「作為義務・不作為義務」という項目を立てることそのものに反対した。理由として

  1. 作為義務は不作為犯の説明中でとりあげられるべき概念であること
  2. 他の場合には、作為・不作為という語の字引レベルの用例が列挙されるに過ぎないこと
  3. 作為・不作為という形式にしたがって規定が作られれば、「それに対応した」作為義務・不作為義務が(個別の理由づけと常に無関係に)生ずる、という体系的説明は誤りであり、そのような記述は百科事典の解説として不適切であること
  4. 既存の一般的な辞典類(有斐閣 法律学小辞典 第4版等)でも、「作為義務」という項目には刑法上の説明があるだけであり、「不作為義務」という項目は存在しないこと
を挙げた(Kuijken 2006年5月1日 (月) 17:37 (UTC))。
(補足)作為義務に関して、倫敦橋は、過去に 「正確には「作為義務」」は「主に刑法の不作為犯の成立要件として問題になり、単独項目では字引レベル以上の記載内容は期待できそうにないので、「不作為犯」に項目名を変更してはどうでしょうか。」 と書いていた。上記4の通り、この見解を実質的に変更する理由はない。

■A-3:A-2に続く倫敦橋 2006年7月13日 (木) 22:39 (UTC)倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:38 (UTC) までは、一つの流れとなっている。そこでは、

  1. 双方が、単独項目としての不作為義務という題名の記事は不要という結論において一致した。倫敦橋は、「単独項目としての不作為義務という題名の記事は(私の場合は発展性が乏しいという、俗っぽい理由でですが)不要という認識は変わりません」(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC)(一部修正 2006年7月24日 (月) 21:13 (UTC))) と述べた。Kuijkenの立場は既述した(■A-2)。
  2. 双方が、項目「不作為義務」の扱いについて、「実質的に別の項目に改変して残す」ことで一致した。倫敦橋は、「>どうもこの項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味のようにとれる」と引用した、Kuijkenの発言(2006年7月24日 (月) 17:44の末尾) に向けて、「ああ、まさしくその通りです。」(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC)(一部修正 2006年7月24日 (月) 21:13 (UTC))) と述べた。これは、「不作為義務」の説明を実質的に残すことの否定である(Kuijken 2006年9月9日 (土) 08:27 (UTC)(更新 2006年9月9日 (土) 10:06) で指摘)。
  3. 倫敦橋は、「移動後の作為義務や不作為義務のリダイレクト先をどうすべきか(それとも曖昧化するか)はいずれにせよ問題になる」(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC)(一部修正 2006年7月24日 (月) 21:13 (UTC))) と述べた。
  4. Kuijkenは、3に対して、「リダイレクトに関してですが、「作為義務」は不作為犯へ、「不作為義務」は、義務へ転送するのが良いのではないかと思います。」(Kuijken 2006年7月25日 (火) 16:51 (UTC)) とした。その後、1ヶ月以上経過した後に「特に異議がないようなので、上記の通りにリダイレクトを変更しました。この項目をリダイレクトページにすれば、「実質的に別の項目に改変して残す」意味はないようです。」(Kuijken 2006年9月9日 (土) 04:41 (UTC)、2006年9月9日 (土) 05:12) として、作為義務のリダイレクト先を、不作為犯に、不作為義務のリダイレクト先を、義務に変更した。
  5. 倫敦橋は、4に対して、「Kuijkenさんがウィキブレイクされていたようなので、特に異議を書かなかっただけですよ。それに単に「思います」と書いただけではまともな提案とは認められません。」(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:38 (UTC)) とし、リバートした。

■Aのまとめ(※) 以上の流れから、次のことが明らかである。

  1. 倫敦橋は、「単独項目としての不作為義務という題名の記事は(私の場合は発展性が乏しいという、俗っぽい理由でですが)不要」と述べた(■A-3・1)。また、項目「不作為義務」の扱いについて、「実質的に別の項目に改変して残す」ことに同意し、「「不作為義務」の説明を実質的に残す」ことを否定した(■A-3・2)。これは、倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC)(一部修正 2006年7月24日 (月) 21:13 (UTC)) までで確定している。
  2. 1に従えば、倫敦橋が「移動後の作為義務や不作為義務のリダイレクト先をどうすべきか(それとも曖昧化するか)はいずれにせよ問題になる」と述べていたとしても、倫敦橋が維持すべき「項目」は、「新しい名称を付した」「新規項目」で足りるはずである。不作為義務という題名の記事は不要と考えており、現在の不作為義務という項目の実質を残すつもりはないからである。
よって、倫敦橋が 倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:38 (UTC) のように(単独項目としての不作為義務という題名の付いた記事に)リバートする理由はなかった (不作為義務のリダイレクト先を義務から、適当な項目に変更することならありうるが)。また、作為義務は「不作為犯」にリダイレクトすることが適切である(■A-2)。倫敦橋が、不作為義務へリダイレクトさせる方向にリバートしたことは、倫敦橋自身が1のように述べたことや■A-2の補足のように述べたことと矛盾している。(Kuijken 2006年9月9日 (土) 06:35 (UTC)(更新 2006年9月9日 (土) 07:01)で指摘した)

(※)まとめとしては、Kuijken 2006年9月9日 (土) 06:35 (UTC)Kuijken 2006年9月9日 (土) 08:27 (UTC) までを直接読むほうがより適当と考えます。今回の場合、実際にどのようなやりとりがなされたかが特に重要だからです。倫敦橋氏の言動のおかしさは、項目に対する理解如何とは全く異なる次元のところにあります。

B:倫敦橋氏の論じ方へのKuijkenによる批判と、それへの倫敦橋氏の応答[編集]

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以下では、問題を指摘できる経緯全てに触れたわけではありません。敬称は略します。

■B-1:根拠を述べない、または根拠にならない一般論に基づいた主張

  1. 「少々お互いの理解が食い違っている部分もありそう」とだけ述べた上で「ご意見『は』承りました。」(倫敦橋 2006年7月13日 (木) 22:39 (UTC) 以下)のように、全く根拠を述べずに、ただ合理的な異論があるかのような印象だけを第三者に与えようとする記述をしてはならない。「理解の食い違い」のような、なされている議論と全く無関係な構図を持ち出して予断を招くような記述をしないことは、ウィキペディアに限らず、まっとうな議論を行う場合の一般常識である。
  2. 「初版投稿者ゆえに、その意思が尊重されるべき」と考える合理的な理由はない。間違った記述でも初版投稿者なら尊重されるべきとは言えない。(同上
  3. 「(任意の人物、例えばKuijken)の個人的意見を一般的所見なるものと同視すべきと考える根拠はない」(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 13:28 (UTC)(※1))という発言について
    1. 一般的所見とは、一般性の高いソースに基づき合理的に一般的な同意が期待できることを示しながら述べられる意見のことである。
    2.  (1)と対比される意味における個人的意見は、そのような観点を考慮せずに述べられる意見のことである。
    3.  (1)~(2)は、いずれも個人が述べるという意味で常に『個人的意見』である。それと同視される一般的所見、のようなものはない。一般的所見とは、事実レベルでいえば、一般的と言えるくらい多数の『個人的意見』となっていることを意味する。
    4.  よって、「個人的意見を一般的所見なるものと同視すべきと考える根拠」があるかを問題とする主張は、不合理である。
    正しさを主張しているのに、一方的に「個人的意見」というレッテルを貼られて自分の意見を否定されたらどう思うか、という当たり前の疑念から、筋道立てて考えてみることをしない。場当たり的に相手を言い負かすことができればそれでいいと考える。「個人的意見」は、「そういう人」が好む詭弁に過ぎないということです。
    (以上、Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC) で指摘した)
    (※1:Kuijkenの立場から見た補足) ここでは、わざわざ「敬称を追加 倫敦橋 2006年7月24日 (月) 13:28 (UTC))」としています。言うまでもなく「敬称の追加」は、明示的に断る性質のことがらではありません。断る意味は、別のところにあるわけです。倫敦橋氏は、こういった「誰もが嫌がるが、誰もが指摘しにくい」嫌がらせを、ことあるごとに加えたがります。この手の嫌がらせからは、倫敦橋氏の人格の低劣さが感じられるだけですが、この種の言動がまかり通る状態が普通なのだとすれば、倫敦橋氏の人格が低劣だと言っていて済む問題ではなくなってくると思います。
  4. 実質的には意見を述べているにも関わらず、「(個人的な)感想」と称して、発言の根拠を説明する責任を回避するのは不当である。(同上
  5. 断片的・形式的な仕方で特定の言い回しに着目して、実質的内容(理由・いきさつなど)を無視した。
    1. 「思います」の前に、提案内容が書かれてあるにも関わらず、「「思います」と書いただけではまともな提案とは認められません。」(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:31 (UTC)) と無視した。
    2. 何が「問題のある(落ち着いていない)」論じ方にあたるかについて述べられているのに、「「問題のある」や「落ち着いて」なんてことを一方的にいわれても困りますね。」(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:39 (UTC)) のように、自分の都合にあわせた断片的引用に基づいて批判を無視した。
  6. 不可解な高圧的言辞や一方的に前提した構図の下で自信を示して、説得性を得ようとする。(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 14:44 (UTC)
    1. 後付論法のような主張を許すときりがないのであえて反論はしませんが
      「後付論法(相手からの反論を受けた後に理由を述べ、最初からそれを主張していたかのような態度をとること)」を相手が用いたと考えるならば、それを許さないことは、「後付論法」を用いたことを批判することであるはずで、不可解な断りである。実際には、倫敦橋が「後付論法」そのものを行っている。(→■Bー3 経緯を偽る・「後付論法」を用いる)
    2. どうやら合意の内容に齟齬があることははっきりしたようなので、差戻し原状回復措置(※)をとったのは妥当であったと確信しました。あとは齟齬をゆっくりと埋めていけばいいだけの話ですので。
根拠無く議論を「(双方の)齟齬」という構図から見ることを主張した上で、それを埋めるという一見「生産的」な一般論を述べてごまかす。実際には、倫敦橋が、自身が過去に展開した論旨を具体的に踏まえていないだけである。
※…Kuijken注:リバートのことらしいです。

■B-2:印象操作

  1. 一方的に相手が怒っているという前提を印象付ける、「(個人的な感想なんでお怒りなく)」(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 13:28 (UTC))、のような発言をすることは、怒っている相手をなだめている自分←→怒っている相手という対立図式を、第三者に体よく印象付けようとするもので、不当である。(Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC) で指摘した)
  2. 「(ボール球と思ったらムリにヒッティングせずアンパイヤの判断に委ねることにしてますので)」(同上)
    一方的に持ち出した野球の構図に第三者を誘導した上で「判断に委ねる」と称して、いかにもまともな判断をしているかのように見せかけている。しかし、実のところは、「(自分が否定したい)と思った意見は、第三者の判断で否定したい。実質的な理由は一切述べないことにしている」と宣言しているに過ぎない。
    (Kuijkenの立場から見た補足) 倫敦橋氏の構図に従うなら、むしろ、「倫敦橋はアンパイヤらしい態度・格好でバッターボックスに立ち、Kuijkenの投球がストライクかボールか判断せずにひたすらヒッティングして空振り三振を続けたあげく、空振り三振した点については触れずに、Kuijkenの投球は絶対にボールだったと繰り返している」と例える方が当たっています。
  3. 項目をリダイレクトページに変更することが正しいならば、システム上ノートページにたどりつきにくくなるとしても、やむを得ないことであるにもかかわらず、その点に触れてノートページを「埋もらせてしまう」と印象付けした。(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:39 (UTC)以下Kuijken 2006年9月9日 (土) 08:27 (UTC)の下(更新 2006年9月9日 (土) 10:06)倫敦橋 2006年9月9日 (土) 14:44 (UTC))。
(補足)「合意がないならば、ノートページを「埋もれさせる」ことは不適切だ」という批判が仮にできるとしても、今回の場合は、■Aの説明の通りの経緯であるから、倫敦橋が「後付」でどのように論じるかに関わりなく、合意は成立している。

■B-3:経緯を偽る・「後付論法」を用いる

  1. 倫敦橋は当初、リバートの理由として、1 Kuijkenがウィキブレイクしていたので異議を書かなかった 2 「思います」と書いただけではまともな提案とは認められない 点を挙げていた(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 05:31 (UTC))。しかし、Kuijken 2006年9月9日 (土) 06:35 (UTC)(更新 2006年9月9日 (土) 07:01の版) の反論 を受けて書かれた 倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:39 (UTC) では、後付で 3 Kuijkenは「実質的に残す」という倫敦橋の提案を「了解」していたとした上で「ノートでの合意に反する行動をとられたのはあなたの側だということをお忘れなく。」 と論じた。
  2. 上の3(合意に反する行動をとったのはKuijkenである)は、以下に示すとおりウソである。 「「実質的に残す」という私の提案に対する「了解」と受け取ったのですが。」とありますが、過去の経緯によれば「実質的に残す」の意味は、もともと私が述べた「この項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味」(Kuijken 2006年7月24日 (月) 17:44 (UTC))です。しかも、それに続けて私は「それでしたら、当然ですが異論はありません」が、「ただ、そのことを「改名案」と表現されますと、「不作為義務」の説明を実質的に残す含みが感じられ、いまひとつ意図するところが分かりません」としたのです(強調引用者)。」「それに対して、倫敦橋さんは、「>どうもこの項目を実質的に別の項目に改変して残す、という意味のようにとれる」と引用して「ああ、まさしくその通りです。」と答えたのです(倫敦橋 2006年7月24日 (月) 21:10 (UTC))。」(Kuijken 2006年9月9日 (土) 08:27 (UTC))。つまり、そもそも「実質的に残す」は倫敦橋の提案ですらない。また、「実質的に残す」という文言に直接対応するところには、文面上合意が無いことが明らかであり、かつ、合意があるところには、「実質的に」「残す」の間に、「別の項目に改変して」という文言があるのである。
  3. リダイレクトについて(差分:2006年9月9日 (土) 05:12~2006年9月9日 (土) 16:14)以下でも、「後付論法」を行っている。

■B-4:批判を受けた経緯そのものを、項目立ての変更によりわかりづらくする

  1. 「見やすくするため節の新設(節を短くする方が誤読が生じにくくなる)」と称して、<名称変更の適否・リダイレクト先の選定等>という項目を挿入することで続・改名についての文脈をわかりにくくした(挿入:倫敦橋 2006年9月9日 (土) 15:07 (UTC)、削除:Kuijken 2006年9月9日 (土) 15:59 (UTC))。

C:倫敦橋氏による項目移動について[編集]

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倫敦橋氏は、ブロック依頼が出た後に、上の要約・A:本項目(不作為義務)を、どう扱うべきかについて に示された経緯をわかりにくくする編集を行いました。すなわち;

  1. 【旧】不作為義務を、【現】禁止に移動(改名)しました(2006年9月13日 (水) 16:19)。これにより、【現】ノート:不作為義務(このページ)においてなされた議論に対応する本文を参照するためには、【現】禁止履歴を参照しなければならない状態になっています。逆にいえば、【旧】不作為義務(【現】禁止) に対応するノートが、【現】ノート:禁止 になってしまいました(履歴)。【旧】不作為義務(【現】禁止)の本文に対応して蓄積されてきた議論は、倫敦橋氏により「改名の経緯」という、ノート:不作為義務(このページ)の実態からかけ離れた要約によって、一方的に矮小化された形で紹介されているだけです。ノート:禁止に、改名理由が書かれていますが、ここでも、(経緯について知らない人にはまず分からないが、経緯を踏まえている人には明らかな)論点そらしをしています。ここに述べられているのは、あくまで「禁止という項目を設けるべき理由」であり、「不作為義務」から「禁止」に改名(移動、以下移動と記します)することが正当である理由は、実は全く説明されていません。それこそが、当然に要求されるはずの「改名理由」であるはずなのにです。言い換えれば、「禁止という項目を設けるべき理由」と、「【旧】不作為義務を移動する正当性」が、混同させられているのです。経緯を知らずに「禁止という項目を設けるべき理由」が述べられているのを見た人は、「確かに「改名理由」が述べられている」と思い、ノート:禁止の記述から、倫敦橋氏の立場が一応正当であるような予断を抱くでしょう。きわめて悪質な編集です。
  2. また、倫敦橋氏は【現】不作為義務を新規に立て、まず禁止にリダイレクトしました(2006年9月13日 (水) 16:19)。その1分後に、義務にリダイレクトしました(2006年9月13日 (水) 16:20)。続けて、倫敦橋氏は、ノート:不作為義務2006年9月13日 (水) 16:25 の投稿 で、「転送先は(禁止のままの方がいいと思っていたのですが)義務にしといてあげますね。」と述べています。
    いくら一ヶ月以上活動しているとはいえ、提案してすらいない禁止へのリダイレクトは、「(提案内容)…思います。」とコメントされたことに対して、提案していない、などと批判した関係上、さすがの倫敦橋氏もまずいと思ったのか、1分後に義務へリダイレクト変更しているところがおかしいです。この経緯の後で「義務にしといてあげ」るなどと書けることは、別の意味でおかしいです。
    ところで、上の「義務にしといてあげ」るは、転送先の決定についてKuijkenにしたがっているように見える外観を強調することで、以下のことを隠蔽しようとしています。すなわち、ブロック依頼が出ている現段階では、むしろ【旧】不作為義務本文が残ったままの方が、■Aの説明が理解されやすくなり、倫敦橋氏にとって都合が悪かった、という事実です。「A 本項目(不作為義務)を、どう扱うべきかについて」の、(不作為義務)をクリックしてみてください。第三者は確実に混乱すると思います。2006年9月17日 (日) 13:03 (UTC) に倫敦橋氏がリダイレクト先を変更する前は、(不作為義務)(項目名はもちろん禁止でなく不作為義務でした) に飛ぶようになっていたのです。
  3. ■Aにまとめたように「実質的に別の項目に改変」するはずである 【現】禁止に、【旧】不作為義務本文の編集履歴を移動する正当な理由はありません。1~2に挙げた編集・コメントは、無期限を含む相当に長期のブロック対象となってもおかしくないくらい悪質なものと考えます。編集に付随する議論が展開されたノートと、本文履歴の対応関係自体を意図的に混乱させて、過去の編集作業に付随する事実全体を一方的に無意味化しようとする行為だからです。Kuijkenは、倫敦橋氏に「この項目をリダイレクトページにすれば、「実質的に別の項目に改変して残す」意味はないようです。」とはっきり指摘しました。つまり、「【旧】不作為義務を義務にリダイレクトし、新規項目として「禁止」を立て、そこに【現】禁止本文の内容を投稿すればよい」と指摘していました。倫敦橋氏は、それを知っていたにも関わらず、わざわざ上記の編集を行ったわけです。

(以上、Kuijken 2006年9月10日 (日) 11:50 (UTC)による)[返信]

■C 倫敦橋氏による項目移動について 追加、更新 Kuijken 2006年9月17日 (日) 13:03 (UTC)[返信]

「要約」への反応[編集]

お疲れ様です。議論の一方当事者の「要約」なるものを第三者の方がどう評価するか、他人事のような興味すら感じます。がんばってください。(なお、個別のご質問等の返信については、当初の予定通り来週に回答します。まだ熱が冷めておられないようですので。)倫敦橋 2006年9月10日 (日) 11:54 (UTC)[返信]
私=Kuijken の「要約」は、簡単に署名によって要約の正しさを検証できるように書かれています。倫敦橋さんの上のコメントのように、何の根拠も述べずに「議論の一方当事者の「要約」なるもの」のような暗示文を書いたり、自身が関わったことであるにも関わらず、「他人事のような興味すら感じます」のような尊大な態度をとる方が、余程第三者からの評価を心配すべき態度のように思えます。全く「がんばってください」と思っていないのに、「がんばってください」と書くのは、率直に申し上げて、卑劣な態度でしょう。また、熱が冷めていない、のような言い方をしたいのであれば、4分後に上のようなコメントを入れるのは止すべきだったと思います。Kuijken 2006年9月10日 (日) 12:04 (UTC)[返信]
項目「「要約」への反応」を立て、倫敦橋 2006年9月10日 (日) 11:54 (UTC) 以下のコメントを配置しました。Kuijken 2006年9月10日 (日) 12:09 (UTC)[返信]
ひとつ、倫敦橋さんが本気で誤解なさっている様子なので、断っておきます。私は、今回の要約に際しても、それ以前のやりとりに際しても、「熱」に任せて書くようなことはありませんでした(唯一、■B-4に示したやり方を「見た」ときには、かなりの嫌悪感を覚えましたが)。特に予断を持っていない第三者には、分かってもらえるのではないかと期待しています。かなり長い文章を書くのにエネルギーがいるのは確かですが、それが怒りによるとは限らないのです。私から見ますと、倫敦橋さんは自身が「長文」を書くケースの想像を前提に私の言動について判断しているように見えますが、それが私にあてはまるとは限らない、ということです。Kuijken 2006年9月10日 (日) 12:29 (UTC)[返信]

倫敦橋氏によるコメント依頼について[編集]

続・改名についての要約を行った、Kuijkenです。倫敦橋さんがコメント依頼を出されましたので、それについてコメントいたします。

倫敦橋さんは、コメント依頼に際して、次のように書いています;

ノート:不作為義務 - ノートページの議論の評価や解釈について、議論の当事者が相手方の発言を含んだノート内の発言を再構成し自己の立場を補強するための注釈を加える行為について2006年9月10日 (日) 12:34 (UTC) 差分:[5]

私から見ますと、上のコメント依頼のコメントこそ「自己(=倫敦橋氏)の立場を補強するための注釈を加える行為」です。理由は次の通りです。

  • 「議論の当事者が相手方の発言を含んだノート内の発言を再構成し自己の立場を補強するための注釈を加える」という記述からは、まるで元の文章を改変して再構成した上で、注釈を加えているかのような印象を受けます。しかし、私は元の文章の改変は一切行っていません。要約を、はっきり項目を分けて(続・改名について続・改名についての要約)行っただけです。しかも、要約の冒頭に「主張の是非の判断に際しては、元の文章をあたったほうがよい」旨付け加えています。また、倫敦橋さんは、コメント依頼のところでは「注釈」としていますが、それ以前のコメント(倫敦橋 2006年9月10日 (日) 11:54 (UTC) )では、「議論の一方当事者の「要約」なるものを第三者の方がどう評価するか」と、「要約」という語を用いており、注釈という語は一度も登場していないのです。なぜ、(「」づけであっても)「要約」という語をコメント依頼の際に使わなかったのか、きわめて疑問です。
  • また、そもそもノートページの要約を行うことは、Wikipedia:コメント依頼の、コメント依頼の使い方において推奨されています;「論争が起こっているノートページやサブページに今までの要約を作成してください。これは、他の人がどのような点で論争になっているかをつかみやすくするためです。」 …ここでいう要約を行う場合には、要約者以外の発言を含めることが許容されているはずです。なぜなら「他の人がどのような点で論争になっているかをつかみやすくするため」には、むしろ、要約者以外の発言を含めることが必須だからです。私が行ったのは、そのような要約に過ぎません。
  • もちろん、要約の際に「再構成」(改変)は一切行っておりません。私が行った要約を見ればわかりますが、引用箇所には(忘れていないかぎり)発言時の署名を記すようにしています。検証すれば、改変は直ちにばれるような形になっています。
  • 「自己の立場を補強するための注釈を加える」については、私の要約(特にB)のかなりの部分が、もっぱら「倫敦橋さんの論じ方・態度の不正」の指摘で占められている関係上、私の立場の補強には繋がらないと考えます。ただ、要約が正しく行われていれば、それによって私=Kuijkenの主張が通ることになるかもしれず、その限りで「自己の立場」が「補強」されることはありえるかもしれません。しかし、これはあたりまえのことだと思います。

以上です。よろしくお願いします。Kuijken 2006年9月10日 (日) 16:09 (UTC)[返信]

コメント依頼の動機は「このような行為は個人の利用者ページでやるべきでは?」と考えたからです。今となってはコメントしていただけるような状況ではないようですが。倫敦橋 2006年9月13日 (水) 16:25 (UTC)[返信]
コメント依頼の「動機」としていますが、コメント依頼に必要なのは、どう考えても「理由」であり、コメント依頼をした時点では、倫敦橋さんも依頼の「理由」と考えていたはずです。コメント依頼の際には、当然に(動機ではなく)「理由」が要求されるからです。倫敦橋さんは、左や、上の「要約」→「注釈」のように、たいていの人ですと、指摘するのが面倒になり、結果的に問題視されにくいが、明白に問題のある言葉の使い方・論点のすり替えを多用されます。コメント依頼の「動機」と称する「理由」が当たらないことについては、Kuijken 2006年9月10日 (日) 16:09 (UTC) の2番目に説明されています。文字通りの動機と考えられる点については、1番目に説明されています。-Kuijken 2006年9月13日 (水) 17:53 (UTC)[返信]

改名報告[編集]

Kuijken氏の行為は実質的に対話放棄と判断しましたので、7月の時点の合意に従い移動措置を行いました(移動先は禁止です)。転送先は(禁止のままの方がいいと思っていたのですが)義務にしといてあげますね。投稿ブロック依頼も出ているらしいですし、これでこの件も終了とします。倫敦橋 2006年9月13日 (水) 16:25 (UTC)[返信]

なぜ、Kuijkenの行為が「実質的に対話放棄」にあたるのでしょうか。投稿ブロック依頼の説明やこのノートを参照すれば、根拠が無いことがすぐに分かるのに、そのような中傷をなさるのは、どうしてですか。
また、7月の時点の合意に従い、移動先を禁止にしたとありますが、どの署名を指しているのか、きちんと明示してください。明示すれば、倫敦橋さんがどのような態度で議論してきたか、倫敦橋さんの側からも示されることになります。倫敦橋さんがご自身の態度に問題が無かったと思っているなら、示すことに何の不都合もないはずです。投稿ブロック依頼が出た後に、まるで「自分の側に合意に従うつもりがあり、私が投稿ブロックを依頼することでそれを拒否した」かのようなコメントを、ノートの冒頭に新たな項目を作って書き込むようなやり方は、あまりにも不誠実ではないですか。
もっとも、合意に従った編集を行ったと称する一方で「「義務にしといてあげます」と書いたり、自身に出された投稿ブロック依頼について「出ているらしい」と書いたりしていますから、どんな態度をとってきたかある程度伺えるコメントではありますが。
それに、倫敦橋さんは「不作為義務でのノートでの議論が継続中な以上、不作為義務をリダイレクト項目として埋もらせてしまうことは明らかに不適切です」と述べていたはずです(倫敦橋 2006年9月9日 (土) 07:39 (UTC))。投稿ブロック依頼が出たら、議論が終わったことになるのですか? また、倫敦橋さんは、実に卑怯なことに、ノート:作為義務の方でだけ、「(不作為義務の転送先と一致している方がのぞましいので)」と、作為義務・不作為義務の転送先を義務にした理由について説明しています。倫敦橋さんは、作為義務を義務にリダイレクトすることについて、提案していたのでしょうか。差分:作為義務[6]、ノート:作為義務[7] のような編集が許されるなら、私が「思います。」と提案したことへの、倫敦橋さんの対応(Kuijken 2006年7月25日 (火) 16:51 (UTC)以下)は、何だったのですか。倫敦橋が提案とリダイレクト変更を同時に行うことはよくて、1ヶ月以上時間を置いてリダイレクト変更をしたKuijkenには問題があるということでしょうか。あまりにも理不尽すぎます。
(投稿ブロックを検討している方々へ) こちらのノートページで私が行った要約 B 倫敦橋氏の論じ方へのKuijkenによる批判と、それへの倫敦橋氏の応答や、上のコメントをご覧になれば分かると思いますが、倫敦橋さんは、Wikipedia:投稿ブロックの方針の2項「他者を誹謗中傷する内容」、8.1項 議論の拒否や妨害 のようなコメントを、全く悪びれることなく多用します。この点を判断に入れていただきたいと思います。-Kuijken 2006年9月13日 (水) 17:04 (UTC)[返信]
追加します。作為義務のリダイレクト先は、特に問題が無い限り、現在の「義務」から「不作為犯」に変更します。作為義務の固有の意味は、不作為犯に関連して生じるものであり、その根拠(一般的なソース)もすでに示してあるからです(Kuijken 2006年5月2日 (火) 02:07)。作為義務の固有の意味があるにも関わらず、わざわざ不作為犯ではなく義務にリダイレクトしたことは、項目の実質とは関係のない倫敦橋さん個人の感情によるものと思われます(※)。この変更については、倫敦橋さん自ら、2006年3月24日 (金) に 以下のように書いていますので、本来異議はないはずです;「不作為義務という言葉は主に刑法の不作為犯の成立要件として問題になり、単独項目では字引レベル以上の記載内容は期待できそうにないので、「不作為犯」に項目名を変更してはどうでしょうか。」「正確には「作為義務」ですね。(以下略)」
※…作為義務を不作為犯にリダイレクトすると、不作為義務を義務にリダイレクトすることとあわせ、結局、Kuijkenが提案した通りの変更になる。-Kuijken 2006年9月13日 (水) 18:15 (UTC)[返信]
リダイレクト先の議論については今後はノート:義務でお願いします。倫敦橋 2006年9月14日 (木) 14:10 (UTC)[返信]
倫敦橋さん、[8] のようなコメントは、普通「要点」とは表現しません。また、理由を示さずに一方的に議論の場の変更を要求して展開をわかりにくくすることは、おやめください。作為義務・不作為義務をどこへリダイレクトするか議論するのに、なぜ義務で行うべきことになるのですか。それは、倫敦橋さんの側の結論ありきの要求ではないですか。-Kuijken 2006年9月14日 (木) 15:51 (UTC)[返信]
あなたの活動を見る限り、一週間では冷却期間には不足だったようなので、返信は延期させていただきますね。私の側としては移動もリダイレクト先の選定も終了済なので、もはやあなたと議論(?)をする意味はないという認識ですのでそれでご容赦を。あとはお好きにどうぞ。荒らしとみなした場合はこちらもしかるべき処置をとることだけはご警告申し上げます。倫敦橋 2006年9月17日 (日) 14:36 (UTC)[返信]
「冷却期間」という語は、倫敦橋さんが根拠なく一方的に持ち出しているマジックワードにすぎず、事実との対応を適切に指摘できるような語ではありません。そのような「冷却期間」が十分だったか不足だったか問題にしたところで、何かが正当化できるわけではありません。また、例によって「移動もリダイレクト先の選定も」と抽象的な書き方をされていますが、ご自分のなさったことに根拠があると考えているなら、その根拠を具体的に書くべきです。一方的に「議論(?)をする意味はないという認識」などと、自分の独りよがりな見方を宣言しても、何の意味もありません。
それから、「荒らしとみなした場合はこちらもしかるべき処置をとる」ことを警告されていますが、根拠なくそういう宣言をすることは、かえってあなたが投稿ブロックを受ける根拠を補強するだけだと思います。-Kuijken 2006年9月17日 (日) 14:50 (UTC)[返信]

コメント依頼を受けて[編集]

コメントつけようにも場所がなかったので、Wikipedia:ノートページにあるルールに従い、項目を順番に並べてみました。あら、要約読まずとも議論の中身がすんなりとれますね。で、要約も例えるならば「600字の文章を600字に要約」したものだと。そうすると、要約はソースの無駄か、自分の主張を通すための個人攻撃か、ということになりそうですね。

編集は下方向に進めましょう。--M3HR 2006年9月28日 (木) 13:07 (UTC)[返信]

そもそも、Wikipedia:ノートページは、特定の編集を正当化する根拠になる公式な方針・ガイドラインではないですし、「下方向に進めましょう」だけ都合よく持ち出して、「他人の発言を編集しないこと」は全く無視するようなやり方は、ご都合主義的でおかしな態度のように思えますが。「他人の発言を編集しないこと」の例外には、<「下方向に進めましょう」に従っていない場合>は挙げられていませんよ。「終わった議論のアーカイブ化(ログ化)」が認められているなら、それより参照しやすい形で終了した議論を下にまとめておくことは、わざわざ編集するほどおかしなことではないでしょう。
それと、「あら、要約読まずとも議論の中身がすんなりとれますね。」「要約はソースの無駄か、自分の主張を通すための個人攻撃」などと、議論 にも 要約 にもリンクを貼らずに言及するのはやめてもらいたいです。個人攻撃をしているのは、M3HRさんのほうではないですか。根拠のある批判と、根拠のない個人攻撃の区別ぐらい行ってください。-Kuijken 2006年10月3日 (火) 14:11 (UTC)[返信]