ノート:アラトリステ (映画)/過去ログ4

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コメント依頼について[編集]

61.192.170.63です。153. の方が私に対するコメント依頼を出されました。そちらへコメントを書く必要があるようですので、このページをご覧くださる皆様は、Wikipedia:コメント依頼/61.192.170.63 にもご注目ください。 私の反論は、以下のようになります。

今回の件は、スペイン映画『アラトリステ』DVDに誤訳があるという問題から始まりました。スペイン語及び英語のDVD字幕は、ウィキペディアで認められる資料です。翻訳を行える方ならば、条件法の取り違えが存在することを確認できます。これは、国立大学のスペイン語学科教授も証言された事実です。

この問題に異議がおありの方は、文法的に誤訳ではないと証明されれば良いのです。ただ、それだけのことです。

今回コメントを依頼された方の論点が、私には理解できません。DVDに誤訳があるか否かではなく、現在、『アラトリステ (映画)』に記載されている加藤康生氏の氏名及び、同氏の私的ブログへのリンクに、価値があるとのお説でしょうか。

加藤康生氏の氏名は、本作DVDパッケージ裏面のスタッフ欄に監修者として記されています。公式に認められる記録はこの数文字の印刷のみで、他の情報は同氏の私的ブログに頼っています。私的ブログには二次資料が存在しません。

①文章そのものが無価値であること。

問題の記述は、『DVDの字幕は別物になる』と述べています。「だから、どうした」が欠けていますね。DVD発売に際して日本語字幕の見直しが行われたことを暗示する文章のようですが、皆様お考え下さい。翻訳担当者が別人と交代した場合、書かれる原稿が『別のもの』になることを、わざわざ発言する必要があるでしょうか。『同じもの』になればコピペです。しかも加藤氏の文章は「別物になった。だから○○だ」が欠けています。修正の結果、誤訳がなくなったと書かれていれば、発言にも価値が出ますが、そこは伏せられています。結論のない尻切れトンボの文章は無価値です。

ここで実際に記入すべきは、『○○が字幕を修正し、誤訳は解消された』という二次資料で証明できる確固たる文章です。

②証明不可能であること。

本当に字幕修正は行われたのでしょうか。

臨時雇いである加藤康生氏には、DVDで翻訳担当者が交代したことすら実際は証明できません。本作は、劇場版・DVD共に、字幕翻訳は著名な佐藤恵子氏と記されています。その他に、確認可能な公式文書は存在しません。公式には、誤訳があったことも修正が行われたことも、一切発表されていないのです。

誤訳に関してウィキペディアに記載可能な記事は、2015年に発表された主演俳優の「字幕の誤訳に腹を立てた」というインタビュー記事のみです。加藤耕世氏の文章が、この記事に対抗することは不可能です。尻切れトンボであり、証明不可能だからです。

③加藤康生氏は『当事者』ではない。

今回のコメント依頼者は、なぜ加藤康生氏の氏名をウィキペディアに記載したいのでしょうか。DVDの誤訳の張本人として、同氏のブログまでリンクして告発を行っておられるのでしょうか。臨時雇いの加藤氏は誤訳の責任を取る立場ではありません。責めるなら『当事者』である佐藤恵子氏を責めるべきです。

この点が本当に理解不能な部分です。加藤康生氏は完全に無名な一般人であり、映画産業における実績も皆無です。臨時雇いで実績もない加藤康生氏の肩書は『字幕監修者』であって、字幕翻訳の『当事者』は佐藤恵子氏です。加藤氏は何らかのお手伝いはされたのでしょうが、加藤氏の発言は『二次資料を必要としない当事者発言』とは認められません。実際の『当事者』は翻訳者でありプロジェクト代表の佐藤恵子氏です。佐藤恵子氏を差し置いた私的ブログの記事は資料として認められません。

臨時雇いの『部外者』加藤康生氏の発言には二次資料が不可欠です。『DVDの字幕は別物になる』との文章でウィキペディアに氏名を記載することは、余りにも無謀だと申し上げています。『太陽が東から昇った』に等しい無価値な文章で、しかも証明不可能です。

④結論。 『アラトリステ (映画)』に記入されている加藤康生氏の文章は文意が不明であり、文章として無価値である。加えて、ウィキペディアの外で自由に書かれた私的ブログの記述であり、二次資料が存在しない。

現実には字幕修正が行われたと証明する二次資料は存在しない。DVDで修正作業があったと仮定しても、その結果、問題の誤訳が『改善された』との証明可能な記述は、加藤氏のブログにも現実の世界にも存在しない。ウィキペディアに記載可能な記事は、「誤訳に腹を立てた」という主演俳優の発言のみである。

ただ、それだけのことです。尻切れの文章を完結させ、「誤訳は修正された」と二次資料を添えて記載できないのであれば、文章は削除となります。

補足。

今回、『加藤康生氏の記事』を支持する数名の方のアカウントと変動IPアドレスが記録されました。これらの方々を多重アカウントと指摘することは無意味です。議論によって結論を出すことが、ウィキペディアの趣旨に沿うと私は考えます。

この問題では、これまでも「忠告をしたが聞かない」等の告発を受けました。それらの『忠告』は、ブロックのための布石に過ぎませんでした。忠告の発言ばかりが繰り返され、肝心の『誤訳ではないと文法的に証明せよ』との要請は無視され続けました。自分と違う意見の人間を排除するための無意味な忠告を続けるよりも、論議に向き合っていただきたいというのが、私の願いです。

「主演俳優の言葉に、何か反論がおありなのですか?」--61.192.170.63 2016年3月28日 (月) 06:49 (UTC)

先生が夕日に向かって「別物になるのだ…」とカッコつけてると、周りを囲んだお姉さま方が(ですよね)「あったりまえだろがー!」「ほざくなー!」「あっほー!」ってブーイングしてるのを空目して吹いてしまった。要するにこうでしょ。こうすりゃいいんだ。『本作は2009年のDVD発売に際して字幕翻訳者の見直しが行われた。(出典はDVDパッケージのスタッフ欄。翻訳佐藤、監修加藤etc)しかしながら、2015年には主演俳優のヴィゴ・モーテンセンが誌面で「日本語字幕に誤訳があった。しかし、観客は理解してくれたと思う」と語った。

先生の名前、入ってますよ! 脚注だけど(笑)。日本側は努力したけどモーテンセンは怒ってる、でも、映画を見りゃ分かる人には分かるから自分で見てねって。「しかし」を「一方」に変えちゃだめっすよ。それは嘘だってバレバレだし。先生もカバン屋の広告ページとのリンク切っちゃって生活に困るんだから、これで満足ですよね? えっ、まさか載せたいのは自分の名前とリンクだけって…まさかね、そりゃ売名だ。「へー、そんなことがあったんですか。ちっとも知らなかったなー」って、みんな知ってるって結構きついすよ(笑)。まさか削除はないよねえ、まさかねえ、あ、署名します、スンマセン。--120.51.211.205 2016年3月30日 (水) 14:33 (UTC)

前の人が6分で削除されたから待ってるけど、大丈夫か? 先生、風呂に入ってるだけか?--120.51.211.205 2016年3月30日 (水) 15:01 (UTC) 削除されない!気に入ってくれたか!。もし削除されたら全能のウィキペディア支配神か恐ろしやって書く気で待ってた(笑)。大丈夫そうなので俺は離脱します。後はよろしく--120.51.211.205 2016年3月30日 (水) 15:31 (UTC)

起きて見たら先生、これって…証拠も証明も意味もない…社会学者が…涙が出て来た--120.51.211.205 2016年3月30日 (水) 23:18 (UTC)

コメントこの編集で、折衷案的に「字幕の見直し」の文言を残しましたが、脚注部分を出典と考えた場合、字幕スタッフを記載するための出典とはみなせても、実際に見直したかどうかは不明なので、この部分をあやふやなまま残すのは問題だと思い、先ほどの編集で、この部分を除去しました。ヴィゴ・モーテンセンの発言とも特に矛盾がないはずです。別途利用者‐会話:153.229.169.68でも記載しましたが仮にも雑誌に掲載された主役俳優のインタビューと一スタッフのTwitter上でのそのインタビューに対する批評を並列で記載するのは無理筋だと、単純に思います。--VZP10224会話2016年4月12日 (火) 08:58 (UTC)

  • こんにちは、153.204.177.76です。会話ページのほうにも書きましたが、モーテンセンの発言と加藤の発言がそれぞれ雑誌での発言とTwitterでの発言であることは記事のなかで言及してあるのですから、閲覧者が「同レベル」と判断するようなことはないでしょうし、「並列で記載するのは無理筋」だから除去すべきということにはならないと思います。それはWP:NPOVに沿った編集ではないと思います。
  • PJ:MOSFILMでは「限定的な内容の批判は短くまとめてください。たとえば、あるホラー映画の宣伝ポスターに対してグロテスクすぎるという苦情が寄せられた場合、記事の「封切り」節で手短に言及するのに留めるべきです」と書かれています。VZP10224さんは、プロジェクトの方向に反して「リリース」から「批判」へと見出しを変更することに関して、一切の説明をおこなっていません。私はVZP10224さんに会話ページで説明を求めましたが、この点に関して何ら回答していただけないので差し戻したいと思います。--153.160.201.157 2016年4月12日 (火) 10:50 (UTC)
コメント yhngvと申します。コメント依頼/61.192.170.63にて「当面は復帰をお待ちしながら、日本語版翻訳にかかわる部分には手を付けずに記事の改善をおこないます。」とコメントした翌日に記事が保護されてしまい、残念です。解除に向けた話し合いが進むことを望みます。
  • 話の流れとして、上記の153.160.201.157さんの問いにVZP10224さんが答えるべきではないでしょうか?よろしくお願いします。
  • また153.160.201.157さんは「こんにちは、153.204.177.76です。」と名乗られていますが、2月18日以来2ヶ月ぶりの発言ではないですよね?発言の時系列を追うことが難しいのでアカウントの作成をお願いします。--Yhngv会話2016年4月15日 (金) 05:55 (UTC)
コメントVZP10224です。今回意図しなかったとはいえ、編集合戦の当事者となってしまい、管理者権限を預かる身として申し訳なく思います。さて、153から始まるOCNユーザ(IPアドレスとその所属についてはこういったところで誰でも調べられます。)の編集内容を差し戻したことですが、加藤氏のtwitterでの発言はヴィゴ・モーテンセンの発言を受けてのものであることであることは間違いないのでしょうが、だからこそ主演俳優の雑誌インタビューと、それに対する翻訳版の一スタッフのtwitter上の発言を並べて掲載する必要はないでしょう。中立的な視点をいうのなら、ある発言に対する二次的な発言でなく、同じ事象に対してそれぞれの立場から発言したことを並べるのが筋でしょう。ある発言に対する反論の発言を並べることが中立的な視点になるとは考えられません(ある主張→反論→再反論・・・を延々載せていけば中立的な視点に近づくのか、と考えてみたら、このやり方のおかしさが見えてくると思います)。
また、プロジェクトで求めているのは、記事の内容に対する言及であり、節のタイトルまで過剰に中立的な視点を求めるものではありません。私の編集の結果、その節の内容にはリリースに関する情報が一切なく、ヴィゴ・モーテンセンの批判があるだけなのですから、「批判」に節のタイトルを置き換えるのはある意味当然ともいえます。何度かOCNユーザによって置き換えられたものにも、日本語版のリリースに関する情報がないので、節タイトルが節の内容を表していなかったことは明らかと考えます。
さらに言えば、記事に対するコメント依頼や、編集の当事者に対するコメント依頼が出ている中で、ノートで何ら発言することなく何度も他人が除去した記述内容を追加するのはWikipedia:荒らし#分かりにくい荒らしの中にある「誤った情報を付け加えたり」と判断できなくもありません。少なくとも私は上記に書いたとおり、加藤氏の発言を執拗に残そうとしたことについて、不要な情報をとにかく残すことを目的とした荒らしと判断しました。--VZP10224会話2016年4月16日 (土) 11:35 (UTC)
  • こんにちは、153.204.177.76です。PJ:MOSFILM#論争に「たとえば、歴史物の映画でその評価が分かれている場合、「歴史考証」という中立的な見出しのもと、その映画の歴史考証に関する映画製作者の意図や歴史学者による評価(肯定的なものや否定的なもの)を概観することができます」と書かれているので、「節のタイトルまで過剰に中立的な視点を求めるものではありません」というVZP10224さんの意見には同意しかねます。私の会話ページで述べたように、「封切り」や「リリース」あるいは「作品の評価」という節として充実を図ったほうが建設的でしょう。その編集時点で見出しが節の内容を正確に表したものではないと感じたなら、見出しを「批判」に変更するのではなく、{{節スタブ}}を貼って加筆を求めるなどすればよいと思います。
保護時点の版における「批判」節は、1つは主演俳優の「誤訳に腹を立てた」という発言、もう1つは「ストーリーを理解し、楽しんでくれたと思うから、それで良しとしよう」という発言、この2つの文章で構成されています。『MOVIE STAR』に掲載された発言のみだという点も含めて、これだけの段落に「批判」という見出しを掲げて記載するのは百科事典的というよりもタブロイド的ではないか、というのが私の感想です。いわゆる「universal acclaim」であれ「overwhelming dislike」であれ、そこは中立的な見出しのもとで記述しようというのがウィキペディアのあり方だと私は思います。絶賛ばかりが書かれている節を「絶賛」という見出しにしたり、酷評ばかりが書かれている節を「酷評」という見出しにしたりするのは、そのほうが「節タイトルが節の内容を表して」いたとしても、ちょっと受け入れがたいです。その上で、その節が(たとえば多数の段落で構成されるほど)加筆されたあと、「批判」などの小見出しを設けてサブセクション化しようと提案されるなら、それに対しては必ずしも反対するものではありません。
  • 私は「ある主張→反論→再反論・・・を延々載せて」いこうと主張しているのではありません。モーテンセンと加藤が互いに反論し合うような事態になれば記事の書き方を工夫する必要が生じてくるかもしれませんが、現時点では、モーセンテンの誤訳の指摘に対して加藤が発言したというだけでしょう。中立的な観点の方針に従うなら加藤の発言を載せてはいけないとするVZP10224さんの論理が分かりません。実際、WP:NPOVには「例えば、○○の考え方はよいアイディアだ、但し、一部の反対意見によれば、そうしたアイディアは××を見落としていると言われている、という書き方ができます」と書いてあるので、ある主張に対する反論を記載すること自体に問題があるとは思えないです。雑誌での発言とTwitterでの発言では重みが違うかもしれませんが、それは「と雑誌『MOVIE STAR』で発言した」「とTwitterで発言した」といった記述を通じて閲覧者に伝われば解決することだと思います。
  • VZP10224さんが私の編集を「誤った情報を付け加えた」「荒らし」と呼んでいる点については、Wikipedia:コメント依頼/VZP10224を提出して、そちらで他の利用者からの意見を募ることにいたします。--153.207.78.147 2016年4月20日 (水) 13:50 (UTC)
コメント yhngvです。
「こんにちは、153.204.177.76です。」と名乗られている方がアカウントを作成せずに発言を続けられていることを残念に思います。編集意図の説明は一つの立場として理解できるものであり、VZP10224さんとの話し合いで双方が譲り合える合意点を確立するのも不可能ではないかと思います。しかし現状では「振る舞い」により自らの信用を落としているように見えます。
VZP10224さんにお尋ねしたい点があります。議論相手の説明責任が確保されたと仮定しての質問ですが、現在の保護された版から変更するとして譲れる点・譲れない点は何処でしょうか?それとも一切の文言の変更は認められませんでしょうか?--Yhngv会話2016年4月26日 (火) 08:50 (UTC)
VZP10224氏ではないがこちらの見解を。IP:61.192.170.63とIP:153.207.78.147とこれらの眷属がこの記事に介入する限り、これらの編集(という名の荒らし)は絶対認めるべきでない。逆に、その両者以外の編集者の編集であるならば(Wikipediaの方針を順守する限り)何人たりとも歓迎しますが。--126.124.56.31 2016年4月26日 (火) 11:39 (UTC)
今回改めて両者の発言をよく読んでみたのですが、私の結論は変わりませんでした。ヴィゴ・モーテンセンの「MOVIE STAR」誌での発言は、日本語版に誤訳があった指摘はしていますが、誤訳があったのは劇場公開版なのかDVD版なのか明確な指摘はしていません。それに対する加藤のtwitterでの発言はヴィゴの発言を「劇場版字幕の話でしょうなあ」と勝手に決め付け、「私が関わったのはDVD 版字幕」と責任逃れともとれる発言になっています。しかもOCNユーザは発言を戻す際に、「私が関わったのはDVD 版字幕」の部分は付け加えておりません。この状態でOCNユーザーが差し戻した状態を保持してしまうと、「ヴィゴは劇場版字幕にクレームをつけた」とも読みとれる内容になってしまい、適切ではないと考えられます。
また、一連の編集合戦の中で、OCNユーザーは何度かWP:SELFPUB, WP:NPOVを理由とした差し戻しを行っていますが、加藤の発言を除去した部分以外の編集内容については全く手を付けておりません。その内容もブログを出典としたものだったりtwitterを出典としたものだったりと一貫しておりません。こうしたところも、OCNユーザーが加藤の発言、ひいては加藤が当該作品にかかわったことを示す証跡を残すために腐心しているのだと考えました。本当にこの記事の質の向上を思っているのであれば、せめてヴィゴの発言の掲載された「MOVIE STAR」誌は目を通しているはずですし、であればこんな単純な差し戻しはしないでしょう。はずされた要出典テンプレを復活させるくらいに内容を疑っているのであれば、私が転居の位置を付け替えたことにも異論が出るはずです。
「字幕監修」というポジションは必ずしも翻訳の専門家がやるものでもないようですし(「字幕監修」で検索したらテッドの字幕監修に当たった映画評論家の町山智浩ブログがヒットしました)、それなりに重要なポジションなのかもしれないのですが、それでも、主演俳優が一ローカライズ版の翻訳に対して雑誌のインタビューで言及したことと比べると、そのローカライズ版のスタッフがtwitterなりブログなりで発言した内容が同列に扱う理由はないと考えます。むしろ加藤の一連の発言を「論争」として取り上げるなら、こちらのブログの内容を取り上げたほうが適切ではないかと思えるほどです。
yhngvさんから頂いた「現在の保護された版から変更するとして譲れる点・譲れない点は何処でしょうか?」という質問ですが、現時点で譲れる点はありません。ただ、この映画字幕に対して何らかの意見を述べ、それが信頼できる情報源に取り上げられたことが示されれば、その内容を記述するとともに、「批判」という節タイトルを「評価」に変えてもいいかとは思います。--VZP10224会話2016年5月2日 (月) 15:43 (UTC)
コメント yhngvです。VZP10224さんに御説明頂きましたが、その理路は判然としませんでした。「現時点で譲れる点はありません。」とのことですが、保護解除後にまた編集合戦を起こして記事が再度保護されないように御尽力ください。--Yhngv会話2016年5月11日 (水) 09:17 (UTC)
  • こんにちは、153.204.177.76です。私が「加藤の発言を除去した部分以外の編集内容については全く手を付けて」いないことは問題ないと考えています。ウィキペディアは利用者がそれぞれ出来る範囲で記事を充実させていけばよい場だと思います。基本的には、加筆したい人が出典を示して加筆する、それ以上でもそれ以下でもないです。加藤の発言の「私が関わったのはDVD 版字幕」の部分を付け加えたほうが良いということなら、付け加えていただければと思います(なお、VZP10224さんは「OCNユーザは発言を戻す際に、『私が関わったのはDVD 版字幕』の部分は付け加えておりません」と書かれていますが、私は2016年4月11日 (月) 16:02 (UTC)のように地の文で「日本版DVDの字幕監修を担当した加藤晃生は」と記述しています)。モーテンセンと加藤の発言を同列に扱っているのは駄目だから加藤の発言を除去しようというVZP10224さんの主張に私は同意しませんが、Twitterでの発言よりもブログでの発言を取り上げたほうがよければ、それについても私は反対しません。いずれにせよ、ウィキペディアの一利用者が加藤の発言を「責任逃れ」と決めつけて記事から除去するのは、いかにも不適切な行いだと思います。両者の言い分を記載した上で、その判断(「モーテンセンは劇場版とDVD版のどちらの字幕に誤訳があると判断したのか 」「加藤の発言は責任逃れか」など)は閲覧者に委ねるのがウィキペディアのあり方だと思います。
  • 2016年3月8日 (火) 13:33 (UTC)2016年4月11日 (月) 17:00 (UTC)で私の編集内容が一貫していないのは、他の利用者により2016年3月30日 (水) 14:39 (UTC)に変更が加えられていたので、それに合わせて加筆内容と出典を変更したからです。ときには編集内容が一貫していることよりも臨機応変に対応することのほうが大切な場面もあると私は思います。また、私は「加藤の発言、ひいては加藤が当該作品にかかわったことを示す証跡を残すために腐心している」のではなく、ここで述べたように、中立的な観点に沿って両者の言い分を載せたほうがよいという理由で加藤の発言を載せました。私が「加藤が当該作品にかかわったことを示す証跡を残すために腐心」する人間ならスタッフ欄の末尾に日本語版のスタッフの氏名を付け加えれば済む話のはずですが、そういう編集はしておりません。そのくらいの事情は記事の履歴やノートページを確認すれば分かると思うのですが、そういうことも逐一悪いほうに解釈される理由が分かりません。
  • 私が転居の位置を付け替えたことにも異論が出るはず」というのは、すみませんが、意味が分かりませんでした。--153.202.129.234 2016年5月2日 (月) 17:52 (UTC)
    • コメント私が転居の位置を付け替えたことにも異論が出るはず」いまさらながら、「転居」は「典拠」の誤りでした。申し訳ありません。で、「私が典拠の位置を付け替えたことにも異論が出るはず」というのは、OCNユーザーのかたはこの差分この差分を見ていただければわかると思うのですが、モーテンセンの発言である「日本の観客」云々の部分に{{要出典}}を付けています。そこについては私も当該雑誌を読んで確認していたのでモーテンセンの発言すべてが出典となるように書き換えたのですが、OCNユーザーの方はただ加藤の発言を付け加えるだけの編集をしています。このあたりの編集を見て、「ああ、OCNユーザーの人はモーテンセンの発言はどうでもよくて、加藤の発言を載せたいだけなんだな」と判断した根拠の一つにもなっています。そのほか、2016年5月2日 (月) 17:52 (UTC)の発言を何度読んでも、一般的なウィキペディアの在り方としてはおっしゃるとおりだったとしても、内容の充実を図っていく中でも内容を無差別に収集する場ではない以上、何を載せて何を載せないという取捨選択は当然に発生してきますし、記事内容を充実するためにはいったん記載されたものであっても取り除かれるべき記述はありうるとの考えを覆すには至りませんでした。その中で、私はモーテンセンの発言は重要で載せるべきものだが、加藤の発言は載せるべきものではないと感じ、またOCNユーザーの方は両方ともに載せるべきと感じた、というところで食い違いが発生しているものと思われます。
Yhngv様の提言痛み入ります。すでに保護期間は満了しており、誰でも編集可能となっておりますが、問題となっている部分の編集はこのノートでの議論の結果を受けて編集する必要があれば編集したいと思います。
で、OCNユーザーの方に質問なのですが、
  1. モーテンセンの発言と、加藤の発言を両方載せないと中立的な観点が保てないと考えるのはどうしてでしょうか。
  2. ここまでこじれてしまっている以上、妥協点としては「両者の発言を載せる」「両者の発言とも載せない」の2択になるかと思いますが、この2択であればどちらを選ばれますでしょうか。それともそれ以外の選択肢はありますでしょうか。
以上、ご回答いただければ幸いです。なお念のために申し述べておきますが、現状では劇場版やDVD版の特定の個所のセリフが誤訳である云々の記述をすることはありません。--VZP10224会話) 2016年5月15日 (日) 12:27 (UTC)一部修正--VZP10224会話2016年5月15日 (日) 16:40 (UTC)
それ以前に、61.192.170.63もどうするかが問題だと思います。散々とソックパペットを使っておきながら、人の神経を逆撫でするような発言[1]をしている事から、再発することは目に見えていますが。--126.100.118.67 2016年5月15日 (日) 17:36 (UTC)
なんだか私の発言が予想外の反響を呼んでいるようで、言葉足らずだったのかなと反省しております。さて、私のこの問題に関する基本的な考え方は「モーテンセンの発言は記述に値する発言の一つであるが、加藤の発言はブログの発言にしろtwitterの発言にしろモーテンセンの発言に対する反論でも別意見でもなく、記述には値しない」というものです。しかしながら保護直前には私が加藤の発言を除去したらOCNユーザーの方がすぐさまに書き戻したり、このノートでは加藤の発言を記述しなければ中立的な観点に立てないなどの少々無理がある主張をされるなどしているのを見たために、両方掲載するか両方とも掲載しないかにしなければ合意が形成できないのではないか、と考えた次第です。この点についてはいまだOCNユーザーの方のご意見はいただけていませんが、お答えがないようであれば、逆に議論を放棄された、もしくは現状追認ということで、現行の記述のまま、すなわちモーテンセンの発言のみが記述されている状態でも問題がないとみなすこともできるのではないかと思います。もっと言えば、IP:61.192.170.63会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisが上で主張されていることについて、OCNユーザーの方は何ら意見を述べていません。なお、私個人としては、編集方法の是非は置いておいて、上記「ウィキペディアに記載可能な記事は、「誤訳に腹を立てた」という主演俳優の発言のみである。」という結論に至る内容はそれなりに妥当性があるのではないかと思います。また、ここ数日のIPユーザーの書き込みはそれなりに履歴を追っかけておられるようですが、だれがどういう記述を残しているか、よく確認をしていただきたいと思います。--VZP10224会話2016年5月19日 (木) 15:31 (UTC)
  • こんにちは、153.204.177.76です。モーテンセンの発言の「日本の観客(以下略)」の部分に{{要出典}}を貼り付けたのは、内容を疑っていたというよりも、私が「基本的には、加筆したい人が出典を示して加筆する」という姿勢をとっていることによるものです。「その記述を私は除去しないが、61.192.170.63さんなりVZP10224さんなり、記載を積極的に望む利用者が出典を示してください。なお、モーテンセンの発言について、どのくらい詳細に言及するかは委ねます」という意思表示のつもりでした。けれども、その編集により、VZP10224さんは私について「モーテンセンの発言はどうでもよくて、加藤の発言を載せたいだけ」と判断されたということですので、そのあたりの編集意図は私のほうから説明すべきだったと思います。
  • 私が「モーテンセンの発言と、加藤の発言を両方載せないと中立的な観点が保てない」と考えている理由のひとつとして、具体的には井戸端でのKs aka 98さんの発言が挙げられます。「ウィキペディアの記事の中で批判が多いか、擁護や賞賛が多いかはWP:NPOVから考えます。批判的な情報源が多いならば、批判的な意見に重みを付けて書くことには問題はなく、むしろそのようなバランスで書くことが望まれます。当事者による抗弁がなされていないこともありますから、抗弁がないままの記事が中立的でないとは言い切れませんが、当事者の抗弁などがあるならば、比較的影響力の弱い情報源(本人が発信している場合も含む)でも、記事に含めるべきです。基本的な情報に欠けるまま、不祥事の情報が肥大化するような記事は避けたほうが良いと思います」[2]、「当事者の意見や告発も、適切に帰属化させ、事実ではなく意見や主張を紹介するような形で、記事の記述に含ませていくことが「中立的」です。もちろん、信頼性が高いもののほうが記述の中心になるでしょう」[3]という発言に私は同意します。このような形で中立的な観点の方針文書に明文化されてはいないにしても、日本語版ウィキペディアの目指す方向性から大きく逸脱した考え方ではないと思います。井戸端での議論の推移を見る限り、その後、これらの発言に反論が殺到したというわけでもないようですから、少なくとも日本語版ウィキペディアのコミュニティで一定の理解は得られている考え方なのだと私は捉えています。しかし、VZP10224さんにとって、こういう考え方は「少々無理がある主張」なのでしょうか。「一般論としては受け入れられるが、今回の件に関しては、(本人発信による)当事者の抗弁を記載することに反対」ということなのか、それとも「そのような形で方針文書に明文化されていない以上、今回の件に限らず、一般論としても、(本人発信による)当事者の抗弁を記載することに反対」ということなのか。そのあたりを聞かせていただければと思います。
  • 「IP:61.192.170.63会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisが上で主張されていることについて、OCNユーザーの方は何ら意見を述べていません」とありましたが、私は、多重アカウントの不適切な使用を行う利用者の発言に応答する義務はないと考えています。改めてVZP10224さんから投げかけていただければ、お答えしたいと思います。たとえば、加藤を「完全に無名な一般人」とする主張がありましたが、削除の方針を知っているであろうVZP10224さんが削除依頼を提出していないところを見ると、この主張にVZP10224さんが同意しているようには見えないです。なので、どの部分でVZP10224さんが「それなりに妥当性がある」と判断されているのか、具体的に説明していただけるとありがたいです。
  • 「両者の発言を載せる」「両者の発言とも載せない」の2択なら、私は、どちらかを強く望むというつもりはないです。たとえば、VZP10224さんが今も「OCNユーザーが加藤の発言、ひいては加藤が当該作品にかかわったことを示す証跡を残すために腐心しているのだ」と考えていて、加藤の氏名や発言を本記事に載せないことが最優先事項だと考えているなら、「両者の発言とも載せない」という選択肢でもよいと思います。また、「両者の発言を載せる」場合でも、日本語版のスタッフとして加藤の氏名だけを本記事に載せることには違和感があるということなら、日本語版DVDに記載されている4名全員の氏名は(たとえば「スタッフ」節の末尾に)記載しておくというのもよいと思いますし、雑誌でのモーテンセンの発言とTwitterでの加藤の発言を記事の本文に同じ扱いで記載することには違和感があるということなら、脚注を入れ子にして、加藤の発言は注釈で触れるにとどめるというのでもよいと思います。--153.174.1.210 2016年5月20日 (金) 10:57 (UTC)
    • コメント そのKs aka 98さんの発言は、政治家記事で起きた議論と、宗教団体記事で起きた議論での発言ですよね。政治家に限らず、人物の記事であれば、本人や関係者の発言が特筆に値することもあるでしょうし、宗教団体で起きた問題を記事内容に含めるためには、外部からの批判に対する当事者の発言を取り入れなければならないこともあるでしょう。しかしながらここは加藤本人の記事ではなく、加藤が一スタッフとしてかかわっただけの作品に関する記事です。さらに言えば、発言の内容も、DVD版にするときに多くの個所を修正しただの、私がかかわったのはDVD版だの、言わずもがなの内容しか発言していません。そうした、ほかの作品だと取るに足らないような発言でも、掲載しなければ中立的な観点に立てないというがOCNユーザーの方のお考えなのでしょうか。「誰が発言したか」だけでなく、「なんと発言したのか」まで考えていただきたいと思います。
見方を変えるならば、モーテンセンの発言は、主演俳優という意味では関係者であるが、日本語版へのかかわりについて全くの部外者であるともいえます。そのモーテンセンが、マイナーかもしれませんが雑誌のインタビュー(しかも別の映画に関する)の中でわざわざ指摘したということで、掲載するには問題がないというのはOCNユーザーの方も同意していただいていると考えています。その内容、具体的には「アラトリステ日本語版には誤訳があった」という指摘に対し、加藤の発言はこれを肯定するものでも否定するものでもなく、ただただじぶんがスタッフとしてかかわった事実と、字幕慣習としてやるべきこと(字幕の誤りの修正)をやったことを述べただけにすぎません。2016年5月2日 (月) 17:52 (UTC)には、私の考え方を不適切と言われましたが、私に言わせれば全く逆で、OCNユーザーの言われるように両名の発言を併記するのは「モーテンセンが日本語版(劇場版ともDVD版とも言っていない)に誤訳があると指摘したが、その誤訳は加藤がDVD版で修正した」ように見せかけるための露骨な誘導(「読んだ人が考える」というOCNユーザーの発言は露骨な誘導の意図を隠したい編集者がよくとる言動でもある)で、両名の発言は加藤の発言を入れ子にする形でも並び立たせるわけにはいかないと考えております。
さて、5月15日 (日) 12:27 (UTC)時点で私の提示した選択肢が今後編集合戦を起こさないためとはいえ両極端な2択であったために、編集合戦の一方の当事者から執拗にクレームがついておりますが、いろいろと考えていく中で、別に2択にとらわれる必要がないことに気付きました。そのほかの選択肢としては「現状を維持(モーテンセンの発言のみ掲載)」「モーテンセンの発言と、加藤以外に『モーテンセンの主張するような誤訳は存在しない』『モーテンセンの言うとおりに誤訳がある』ことを述べた批評を掲載する」などがあると考えられますが、それ以外の選択肢を否定するつもりはありません。加藤の発言以外の指摘を探す間に加藤の発言を載せるかについても、考え方はいろいろあるかと思います。ただし、現状編集合戦が収まっていることを考慮すると、現状に加藤の発言を載せた場合には編集合戦が発生し、再度保護に至る可能性は高い(その時は数か月単位の全保護か、長期の半保護になる可能性もあります)と考えます。--VZP10224会話2016年5月21日 (土) 16:47 (UTC)

IP:61.192.170.63会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisはいい加減「Wikipediaのルールを踏みにじっている」という自覚をすべきである。しかし、そこまでして関わらないといけない問題なのか?まったくもって理解不能である。--60.133.191.193 2016年5月22日 (日) 10:33 (UTC)

  • こんにちは、153.204.177.76です。VZP10224さんの発言(「DVD版にするときに多くの個所を修正しただの、私がかかわったのはDVD版だの、言わずもがなの内容しか発言していません」「ただただじぶんがスタッフとしてかかわった事実と、字幕慣習としてやるべきこと(字幕の誤りの修正)をやったことを述べただけにすぎません」)を読む限り、おそらくVZP10224さんは私が「2016年4月5日 (火) 20:42 (UTC)での加筆を丸ごと復元すべきだ」と主張していると思われているのでしょう。けれども、私の直近の編集である2016年4月12日 (火) 10:50 (UTC)での加筆と見比べてみれば分かるように、字幕監修の具体的な仕事の内容は記載してもよいし除去してもよいという程度に私は考えています。他の利用者から「加藤は当事者ではない」「加藤が何をやったか不明」という主張があったことを受けて、便宜上、加筆しておいたというものですから、これについては記載に固執するつもりはありません。
  • ただし、「このモーテンセンの指摘について、日本版DVDの字幕監修を担当した加藤晃生はTwitterで『本当に一言触れてるだけで、これは普通に考えてプチ炎上した劇場版字幕の話でしょう』と述べた」という趣旨のことは記載すべきだと思います。これは「言わずもがなの内容」でも「ただただじぶんがスタッフとしてかかわった事実と、字幕慣習としてやるべきこと(字幕の誤りの修正)をやったことを述べただけ」でもないです。「当事者による抗弁」[4]および「当事者の意見や告発」[5]を記載して中立的な観点を目指すという点では、政治家と宗教団体と映画作品のあいだに本質的な違いはないと思います。日本版DVDのパッケージに4人のうちの1人としてクレジットされているので(「本編翻訳 : 佐藤恵子。吹替台詞 : 小島さやか。吹替演出 : 依田孝利。字幕監修 : 加藤晃生」)、『アラトリステ』の日本語字幕に関して、加藤がそれなりに大きな役割を担ったものと考えてよいでしょう。したがって、その当事者の抗弁を除去する根拠として「加藤本人の記事ではない」というだけでは不十分だと思います。
  • 2016年4月12日 (火) 10:50 (UTC)を読んだ閲覧者の中には、「加藤のtwitterでの発言はヴィゴの発言を『劇場版字幕の話でしょうなあ』と勝手に決め付け、『私が関わったのはDVD 版字幕』と責任逃れともとれる発言になっています」[6]と受け取る人もいれば、「『モーテンセンが日本語版(劇場版ともDVD版とも言っていない)に誤訳があると指摘したが、その誤訳は加藤がDVD版で修正した』ように見せかけるための露骨な誘導」[7]と受け取る人もいるだろうし、加藤の発言を正しいものだと受け取る人もいると思います。そこは閲覧者のあいだで受け取り方に幅があってよいと思います。ある批判に対する当事者の抗弁は、その批判の後になされるものであって、批判の前になされるものではない。なので、批判されたという記述の後ろに当事者の抗弁を記述して、ある程度、閲覧者を誘導するような書き方になるのは仕方ないものだと思っています。
  • VZP10224さんは何らかの先行する議論を念頭に置いた上で「『読んだ人が考える』というOCNユーザーの発言は露骨な誘導の意図を隠したい編集者がよくとる言動でもある」と発言されたと思うのですが、どの案件での利用者の言動と本案件での私の言動を同類と考えているのか、具体的に示していただけますか。--153.207.204.150 2016年5月28日 (土) 13:23 (UTC)
    • 「批判されたという記述の後ろに当事者の抗弁を記述して、ある程度、閲覧者を誘導するような書き方になるのは仕方ないものだと思っています。」というOCNユーザーの発言から、わたくしは、OCNユーザーの方がこの議論の中で常々引き合いに出される中立的な観点にこだわるあまりに独自研究に陥ってしまっているうえに、結果として中立的な観点から逸脱してしまっているという印象を持ちました。作品に対するある人の批判と、それに対する当事者の抗弁を載せるという、表面的に中立的な編集をやっているように見せて、その内容は「日本語版には誤訳があると聞いている」という批判に対し、いくらかかわった当事者といえ「私がかかわったのはDVD版」とまったく見当はずれの発言を「これに対し」という接続詞でつなぐのは、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成にあたり、中立的な観点と同様に重要な方針に掲げられているWikipedia:独自研究は載せないに反する編集であるといわざるを得ません。まあ、ほかの文学作品にしろ漫画・アニメに関する記事にしろ、作品本編を読んで(それを一次資料として)あらすじに加筆したりキャラクタ記事に加筆することが一般的に行われているのに、スペイン語版や英語版のセリフと日本語の字幕を見比べるのが独自研究にあたるといわれるのが、IP:61.192.170.63会話 / 投稿記録とそのソックパペット(とその裏側にいる方々)には理解できないことかもしれないので、OCNユーザーの方もこの指摘が理解できずに、「これは情報の合成ではない!!」と言われるかもしれませんね。
    • 「VZP10224さんは何らかの先行する議論を念頭に置いた上で「『読んだ人が考える』というOCNユーザーの発言は露骨な誘導の意図を隠したい編集者がよくとる言動でもある」と発言されたと思う」とのことですが、私も管理者として長くかかわっており、特定の案件を想定して出てきた発言ではないことは先に申しておきます。そのうえで、よく似た事例として、ドビンという、放し飼い状態にされていた犬に関する記事の履歴と、そのノートで繰り広げられた議論をご確認いただけますでしょうか。ある利用者が、動物飼育に関する条例の条文を持ち出して、犬の存在には問題があるとの主張を書き込もうとして無期限ブロックになった事例ですが、その中で、条例そのもの(もちろん検証可能性を満たし、掲載することによって中立的な観点から逸脱するわけでもない)を残しておくかどうかという議論も行っており、最終的には条例の記述も不要という結論に至っております。
    • 最後に申し上げますが、IP61.192.170.63とそのソックパペットたちによる「アラトリステ日本語版の字幕には誤訳がある」との主張は新たな出典の提示がない限り独自研究ですが、OCNユーザーの唱える「モーテンセンの主張に加藤がコメントした」ことも、現状では同様に独自研究にあたるといわざるを得ません。--VZP10224会話2016年6月4日 (土) 14:40 (UTC)
  • こんにちは、153.204.177.76です。まず一点、誤解が生じているようなので、あらためて述べておきます。私としては、2016年4月12日 (火) 10:50 (UTC)の編集で示したように、中立的な観点の方針上、加藤のTwitterを出典に用いた「このモーテンセンの指摘について、日本版DVDの字幕監修を担当した加藤晃生はTwitterで『本当に一言触れてるだけで、これは普通に考えてプチ炎上した劇場版字幕の話でしょう』と述べた」という趣旨の記述は本記事に必要である、とだけ主張しているつもりです。私は、VZP10224さんの言う「『私がかかわったのはDVD版』とまったく見当はずれの発言を『これに対し』という接続詞でつなぐ」といった編集はしていないですし、そのような編集をすべきだとも主張していないです。そのような受け取り方をされる編集や発言は過去に一度もしていないはずだと自分では思っています(ので、そう判断された差分を示していただければと思います)。
  • たしかに、「批判がなされた」という記述の後ろに当事者の抗弁を記載するのは、後者の主張に閲覧者が同意するよう誘導しているような書き方だ、と言えるかもしれません。その意味ではWP:SYNにあたるというVZP10224さんの意見も理解できます。ただし、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないの2つの方針のうち、一方が他方に優先すると明文化されていない以上、(もちろん、両方の方針に従うべきなのですが)結局、どちらの方針を優先するかは個々のケースで判断するという話になってくると思います。たとえば2016年4月23日 (土) 15:04 (UTC)時点の『アーティスト (映画)#キム・ノヴァク論争』には、キム・ノヴァクの批判と、その批判に対するミシェル・アザナヴィシウスの反論、その両方が記載されています。このような場合、後者の言い分が正しいかのように閲覧者には見えてしまうだろうし、その点に着目して「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」と言うこともできると思います。けれども、基本的には日本語版ウィキペディアは両者の言い分を記載し、中立的な観点を達成するよう目指しているのではないかと思います。「『独自研究は載せない』は『中立的な観点』よりも優先される」ということでしたら、その主張の根拠を説明していただきたいです。
  • VZP10224さんが『ドビン』に言及されたことにより、どのように本件を見られているのか分かった気がします。私は本件が『ドビン』と「よく似た事例」だとは感じていませんが、当事者である私の現状認識が誤っている可能性は大いにあります。これ以上の議論には意義を見出しがたい、あるいは、いまの私が無期限ブロックに相当する状態だ。そう判断されるのであれば、いつでも投稿ブロック依頼を提出してくださって構わないです。それについては特に反論せず、コミュニティの判断を仰ぎたいと思っています。--153.206.97.12 2016年6月4日 (土) 22:50 (UTC)
    • 私が述べた「これに対し」はたしかにOCNユーザーの方の編集では「このモーテンセンの指摘について」となっていました。申し訳ありません。しかしながら、「このモーテンセンの指摘について」という言葉と、「これに対し」(ないしは「このモーテンセンの指摘に対し」)という言葉との間に、根本的な違いがあるようには私には思えません。つまりは同じことの単なる言葉の言いかえにすぎず、一つの文章にして続けることで、読んだ人を特定の意図に誘導する効果が高くなる文章の書き方だと考えており、最終的な結論を変えるには至らなくともよいと考えます。OCNユーザーの方が「これに対し」と「これについて」の間に明確な用法や語彙の差があるとお考えなのであれば、それをお聞きしたいと思います。
    • ウィキペディアの三大方針である「検証可能性」「中立的な観点」「独自研究をしない」はそれぞれ優先順位があるものではないことはその通りで、OCNユーザーの方もケースバイケースによる判断であることは認めていただいているものと理解しています。引き合いに出されたアーティスト (映画)の記事も確認しましたが、出典が英語の記事になっているので確認したところ、英語版から翻訳して持ってきた状態そのままでしたので、単純な比較はできないのではないかと思います。内容を確認しても、めまいの映画に出演した女優が「私の出演作がこの作品によって汚されてしまった」「先行する映画音楽を無断使用している」との言及に対し、監督が「私は映画史全体に対して尊敬を持っているが、キム・ノヴァクに理解していただけなかったのは残念」「音楽使用にあたっては対価を払っている」と、指摘を踏まえた反論になっています(鍵カッコ内は私の解釈による要約です)。しかもどちらも現在でも閲覧可能なWebメディアにも掲載された言及です。何度も指摘していますが、今回の加藤の指摘はモーテンセンの指摘に直接反論したわけではなく(ここが認識の違いかもしれませんが)、しかも一方は雑誌インタビュー、一方は本人のtwitterです。内容や情報源の軽重を勘案し、どちらかの文章が結果として取り除かれることはやむを得ないと思います。
    • 結局のところ、本映画の日本語字幕に誤訳がある・ないと直接に指摘したのはモーテンセン一人だけですよね。OCNユーザーの方が持ち出してる加藤の発言も、直接に誤訳の有無について言及しているわけではない。何よりもOCNユーザーの主張に沿って加藤のTwitterを載せると、またソックパペットが大量に出現する事態が目に見えています。この議論を通じても、事ここに至っても加藤の発言以外の第三者の言及を探す努力をされていないことからも、OCNユーザーの方は加藤の発言を載せることから一歩も引く気がないようです。この点、例のソックパペットたちは以前から一応第三者の言及を集めようとされているぶんむしろこちらのほうがまともに見えてきます。結局のところ、「加藤以外の人間が」「モーテンセンの言うような誤訳はDVDによって修正された」(もとからそんなものはない、というものでもいいですが)という言及を持ってこない限り、私の認識は変わらないでしょう。まあ、加藤が「モーテンセンの発言は誤りである」と指摘したのなら、まだ考えないことはないですが。--VZP10224会話2016年6月5日 (日) 01:26 (UTC)
  • こんにちは、153.204.177.76です。「『私がかかわったのはDVD版』とまったく見当はずれの発言を『これに対し』という接続詞でつなぐ」のうち、後半部分の「『これに対し』という接続詞でつなぐ」については誤解が解けて良かったです。(なお、接続詞については「これでなければ」というこだわりは特にありません)。けれども、前半部分の「『私がかかわったのはDVD版』とまったく見当はずれの発言」については誤解されたままのようなので、もう一度、私の意見をまとめておきます。たしかに加藤のTwitterには「私が関わったのはDVD 版字幕」とも書かれていますが、『アラトリステ』の記事に記載すべきだと私が主張しているのは、その箇所ではなく、「本当に一言触れてるだけで、これは普通に考えてプチ炎上した劇場版字幕の話でしょう」という箇所です。
  • この加藤の発言は、「ヴィゴモーテンセンがアラトリステの日本語字幕に誤訳があったので少し腹を立てていたというインタビュー。自分も関わったプロジェクトなんで見てみましたが」と前置きされているので、(「直接に誤訳の有無について言及しているわけではない」にしても)モーテンセンの指摘を踏まえた反論なのだと思います。その意味で本案件は、キム・ノヴァクが『アーティスト』を批判し、それに対して監督のミシェル・アザナヴィシウスが反論した案件と、構造が同じだと思います。たしかに、『アーティスト』の場合は両者の発言がオンラインで現在も閲覧可能なのに対して、『アラトリステ』の場合はモーテンセンの発言が雑誌『MOVIE STAR』、加藤の発言がTwitterでなされたという違いはあります。そこで「内容や情報源の軽重を勘案」するのは分かります。けれども、だからといって「どちらかの文章が結果として取り除かれることはやむを得ない」という結論に至るのは、いささか極端なのではないかと感じます。私の2016年4月12日 (火) 10:50 (UTC)の編集では書き方が悪いということなら、接続詞を変えるなり、加藤の発言を記事の本文から注釈へ移すなり、他の選択肢が検討されるべきだと思います。
  • これまでの議論を振り返ってみると、VZP10224さんも一般論としては「当事者による抗弁」[8]および「当事者の意見や告発」[9]を(第三者による情報源ではなく当事者による情報源を用いて)記載すること自体には必ずしも反対されているわけではないように見えます。なぜ、VZP10224さんは本案件に限って「『加藤以外の人間が』『モーテンセンの言うような誤訳はDVDによって修正された』(もとからそんなものはない、というものでもいいですが)という言及」でなければならないと考えているのか、そこが分からないです。--153.230.9.53 2016年6月5日 (日) 09:17 (UTC)
    • なぜ第三者の発言でなければならないか。答えは簡単です。それが編集合戦を防ぐ当面の間の最善策だからです。おそらく加藤の発言を載せ続ける限り、ウィキペディアの記事に加藤の発言が乗ることを嫌っているであろう人たちが繰り出すソックパペットは現れるでしょうし、それを未然に防ぐことはできません。加藤以外の第三者による言及であれば、それがソックパペットの人たちが望む結果だったとしてもそうでなかったとしても、加藤より中立な立場にある第三者による言及ということで除去を突っぱねることはできます。結果として長期の編集保護になってしまえば一緒といわれてしまえばそれまでですが。
    • それにしても不思議なのが加藤の発言で、加藤も「モーテンセンが言うような誤訳は私が直しておきました」って言っておけばまだ格好がついたものを、そういわないのはどうしてなのかなぁ、と勘繰ってしまいますが、それは個人的な疑問としてとっておきます。--VZP10224会話2016年6月5日 (日) 15:53 (UTC)
      • さらに先ほど、このページによく一言コメントを残すYahoo!BBを利用する可変IPにより、モーテンセンの発言も除去する編集がなされました。いろいろな意味で残念です。とりあえず元に戻しておきました。--VZP10224会話2016年6月5日 (日) 22:19 (UTC)
        • もう一つ、「批評に対する反論を掲載しなければ中立性は保たれない」という誤解についてコメントしておきます。純と愛#作品の批評には朝日新聞に掲載された4人の評価・ザテレビジョンドラマアカデミー賞における評価が掲載されており、ポジティブなものもネガティブなものもありますが、あくまでも並列に並べられた評価であり、だれかの評価とそれに対する反論、という形式にはなっていません。OCNユーザーをはじめとした人たちは、「作品に誤訳があった(ことにしたい)」派の人たちに対抗したいのであれば、当事者である加藤の発言にこだわらず、日本語訳についてポジティブな評論をしている第三者の表現を探してきたほうが生産的だと思うのです。
      • ウィキペディアにおいて大事なのは合意の形成であり、ルールを振りかざすことでも、ある人の主張を理由を付けて無視することでもありません。OCNユーザーの方は「多重アカウントの不適切な使用を行う利用者の発言に応答する義務はない」とお考えのようですが、まさにその姿勢が現状を招いているのではないかと思います。私も管理者になる前、ウィキペディアの活動を始めた当初には、ある長期荒らしにリストアップされていたユーザーの作成・編集した記事を編集しましたが、長期荒らしが作成した記事だから全部削除依頼にかけるとか、ソックパペットの編集だから一律差し戻しとかいう対応はとっていません。残すべきものは残すという対応もしています。OCNユーザーの方は本節の冒頭にある主張についていかようにお考えなのか、ご意見をいただければと思います。--VZP10224会話2016年6月18日 (土) 04:26 (UTC)
  • (インデント戻し)さて、当分の間ほかの方からご意見が出てこず、また、記事本体の記述についても私が編集した時点のものから変更はないようです。利用者:Yhngvさんによって、記事本体ともいうべき部分に加筆をいただいていますが、こちらの記述については特に手を加えられているわけではありません。Yhngvさん含め、この件については現状の記述で問題ないものとご理解いただけたものと判断いたします。--VZP10224会話2016年9月14日 (水) 14:39 (UTC)