ニジニエ・リホボルィ

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Нижние Лихоборы
ニジニエ・リホボルィ
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ロシアの国旗 ロシア共和国および
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の村

18世紀末 - 1927年
歴史
 - ヴェルフニエ・リホボルィと分離 18世紀末
 - モスクワへ編入 1927年
人口
 - 1927年 382 
現在 モスクワ内北部行政管区ロシア語版
ニジニエ・リホボルィの位置(モスクワ環状道路内)
ニジニエ・リホボルィ
ニジニエ・リホボルィ

ニジニエ・リホボルィロシア語: Нижние Лихоборы)は、1927年までモスクワに存在した村。リホボルカ川を挟んでヴェルフニエ・リホボルィの対岸に位置し、ドミトロフ・ショセロシア語版が通っていた。

沿革[編集]

史家のコンスタンチン・アヴェリヤノフ (ru) によれば、ニジニエ・リホボルィの起源は、現在の大アカデミー通りロシア語版の僅かに西側に位置していた村「トポルコヴォ」(Топорково) であるという。トポルコヴォは1560年に、イヴァン・シュイスキーロシア語版公子の領地として初めて史料で言及され、15世紀には従者たちによって利用されていた可能性がある。村には木造の神使ミハイル教会が建てられていたが、1593年には神現修道院が建造され、1646年にはセミョーン・シャホフスコイ (ru) 公子の所有となった。1652年にはニコン総主教の所有にてウラドゥイキノ (ru) の附属村とされた[1]

1704年から1711年にかけて東部ドミトロフ・ショセロシア語版への人口移動が起こり、以降トポルコヴォの名は史料に登場しなくなる。代わって村は「リホボルィ」として言及されるようになった。しかし18世紀末になると村はリホボルカ川 (ru) によって分割され、「ヴェルフニエ・リホボルィ(上リホボルィ)」と「ニジニエ・リホボルィ(下リホボルィ)」が誕生した。村は、ピョートル1世時代には聖シノドの、1738年には経済コレギヤロシア語版の管轄とされた。1812年ロシア戦役の際にはフランス軍の略奪にあったが、ほどなく復興した[1]

1838年にはドミトロフ・ショセからリホボルカ川を跨いで上下リホボルィを結ぶ橋が建設された。1851年には村にモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が開通し、1884年には橋の隣に石造りの神使ミハイル礼拝堂も建設された。20世紀初頭には、村にモスクワ環状線小線ロシア語版が通った[1]。しかし、その後の村は1927年モスクワ市へ組み込まれ、最後まで残されていた村時代の家屋と礼拝堂も、1950年代から1960年代の再開発によって取り壊された。「ニジニエ・リホボルィ」の名は、5か所の私道、そして第1 (ru) および第3道路 (ru) にのみ残されている[1][2]

人口推移[1]
「トポルコヴォ」時代 1623 1646 1678 1704 「リホボルィ」時代から 1719 1762 1800 1816 1857 1884 1927
人口 5(男性) 38 77(男性) 150 217 382
家屋数 1 2 11 18 21 39 28 26 32 64

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e История московских районов. Энциклопедия. М.: АСТロシア語版. Под ред. К. А. Аверьянова. 2005. pp. 321–369.
  2. ^ 1-й и 3-й Нижнелихоборские проезды”. Муниципалитет Тимирязевский г. Москвы. 2012年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年2月15日閲覧。