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デルスウ・ウザーラ

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デルス・ウザーラから転送)
デルスウ・ウザーラ。アルセニーエフによる撮影。

デルスウ・ウザーラロシア語: Дерсу Узала1849年 - 1908年)は、ナナイ(ゴリド人)の猟師。沿海州と呼ばれる北東アジアのロシア領で生活していた。デルスー・ウザーラデルス・ウザラデルス・ウザラーなどの日本語表記もある。

優れた感覚や射撃の腕、森で暮らすための知恵をもち、ロシア人の探検家ウラジーミル・アルセーニエフを助けた。アルセーニエフの探検記によって、ロシアで広く知られるようになった[1]黒澤明監督の映画『デルス・ウザーラ』(1975年)によって、その人物像が映像化された[2]

生涯

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1849年、北東アジアに生まれる。1902年にアルセーニエフと出会った時の年齢は53歳だった[3]。家族と暮らしていたのはリーフジン川とシナンツァ川の合流地点の付近にあたる[注釈 1][5]。子供の頃は、同じナナイ族や、ウデヘ族たちが周囲に暮らしていた[注釈 2]ロシア正教会の改革に反対して移住してきたスタロヴェールとは若い頃から交流し、ともに猟も行った[7]

家族には父母、姉、妻、息子と娘がいたが、移民の増加による天然痘の流行で全員が死亡し、1人で暮らすようになった[注釈 3][9]。デルスウの記憶によれば、中国人、ロシア人、朝鮮人、そして日本人がやって来たという[注釈 4]。やがて山火事が増え、森の獲物は減っていった[11]

1902年、デルスウはロシア帝国の探検家アルセーニエフと知り合う。アルセーニエフは沿海州南部のウスリー湾からハンカ湖にかけての調査が目的で、デルスウは道案内や狩猟で彼を助けて信頼を得た[12]。デルスウは1度アルセーニエフと別れたのち、1906年に森の中で再会する[13]。この時のアルセーニエフはウスリー川からシホテアリニ山脈を横断して日本海沿いを探検する計画で、デルスウは再び同行した[14]。アルセーニエフはデルスウに街での暮らしを求めたが、デルスウにとって街はおそろしく、することがないとして断った。次の探検での再会を約束してデルスウはアルセーニエフと別れた[15]

アルセーニエフと別れたのち、デルスウはクロテンや袋角のシカを狩って生活した[注釈 5][17]。1907年にアルセーニエフからの連絡を受けて3度目の探検に参加し、彼を助けた。しかし旅の途中で、デルスウはジャコウジカを撃ちもらし、自分の視力の衰えを悟る。デルスウはショックを受け、旅が終わったのちにアルセーニエフのもとで暮らすことに同意する[18]。1908年からハバロフスクのアルセーニエフの家に暮らすようになったデルスウは、生活環境に慣れなかった。街では銃を撃てず、薪や水を手に入れるために金が必要なことを特に驚いた。デルスウは山へ行くことを望み、アルセーニエフと1か月後の再会を約束して出かけた[19]

3月13日、ヘフツェル山脈の南にあるコルフォフスカヤ駅の近くでデルスウは死亡しているところを発見された。眠っているあいだに殺されており、おそらく加害者はロシア人で、銃が奪われていた。アルセーニエフはデルスウの埋葬に立ち会い、1910年にコルフォフスカヤ駅を再訪したが、森林伐採によってデルスウが埋められた場所は分からなくなっていた[20]

人物

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アルセーニエフの記録によるデルスウの外見は、背が低くずんぐりした体格で、相当な体力の持ち主だった。盛り上がった胸、筋ばった腕、少しガニ股の脚をしており、顔は日焼けして浅黒く、頬骨は突き出ており、小さな鼻、丈夫な歯をした大きな口、赤みを帯びた口髭と顎髭があった。最も印象深いのは眼で、決断力、率直さ、善良さが見てとれたという[3]

生活

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家はなく野天で生活し、冬には仮小屋を建てて暮らした。父親の遺品であるベルダン銃を使い、タバコ、弾丸、火薬などの必需品は猟の獲物を中国人と交換して手に入れていた[9]。若い時に中国人から薬用人参の探し方を教わると、見つけた人参を売らずにレフウ川の上流にまとめて植えた。のちにアルセーニエフのもとで世話になることが決まってからは、この人参をアルセーニエフに譲ると約束した[21]

観察力に優れており、小道の足跡から、通った時間や馬の有無、民族などを言い当てた[22]。捨てられた靴からは持ち主の年齢を推測した[23]。銃声の反響からは天候の変化を予想した[24]。デルスウの分析をみたアルセーニエフは、ジェイムズ・フェニモア・クーパートーマス・メイン・リード英語版の小説の登場人物を思い浮かべたと記録している[22]

燻製や、肉をフキの葉で包んで穴の中で蒸し焼きにする調理法など、森林でとれるものを美味にする方法に詳しかった[25]。吹雪を防ぐための即席の住居を作って凍死を防ぐ技術にも優れていた[26]。森林で生活する者として物を捨てずに取っておく癖があり、同行者が捨てようとした空き瓶も拾って自分の荷物に加えた[注釈 6][27]

銃の腕前に優れ、身を守ったり食料を得るために銃を使い、必要ではない狩りは望まなかった[28]。遠くから射撃音の数や間隔を聞いて、狩りの成功や失敗を知ることもできた[注釈 7][29]。狩りで得た獲物は等分し、自分と同じ分け前を与えた[30]。気前がよい性格を他人に利用される時もあった[17]

自然観

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デルスウは、森に住む他の生き物たちについて配慮していた[31]。山小屋で泊まると、あとに来る者に配慮して食料、薪、マッチを残した[32]。残った肉片は、あとに来る動物のために焼かずに残した[31]。また、人間以外の生物や、水や火、機械のことも「ひと」と呼んだ[33]。アルセーニエフは、デルスウのこうした考え方をアニミズムとみなした[34]。他方で天体への関心は低く、星とは何かについて興味はなかった[35]

評価・影響

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アルセーニエフ市にあるデルスウの記念碑

アルセーニエフが執筆した『ウスリー地方探検記』(1921年)や『デルスウ・ウザーラ』(1930年)にはデルスウについて書かれており、彼への敬意が表されている。これらの著作はソヴィエト連邦でロングセラーとなり、デルスウについて広く知られるようになった[1]。1961年にはアガシ・ババヤン英語版監督が『デルスウ・ウザーラ英語版』として映画化した[36][37]

『デルスウ・ウザーラ』の日本語訳は満洲事情案内所から1942年に出版された[38]黒澤明監督は、『ウスリー地方探検記』と『デルスウ・ウザーラ』を読んでデルスウという人物に魅力を感じ、2冊の内容をもとに『デルス・ウザーラ』として映画化した[39]。デルスウはマクシーム・ムンズーク英語版が演じた[40]

脚注

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注釈

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  1. ^ ナナイ族はスンガリ川ウスリー川アムール川の流域に暮らしていた。1926年のソビエト連邦による人口調査では約7000人がおり、中国領内の人口は明らかではなかった[4]
  2. ^ ナナイ族の住む地域は交易路の幹線ルート上にあり、満洲に近かった。そのため朝貢をはじめとしての影響が強かった[6]
  3. ^ 北東アジアに清やロシア帝国が進出するにつれて、人の移動とともに病気も伝わった[8]
  4. ^ 沿海州は、1860年の北京条約で清領からロシア領となった地域だった[10]
  5. ^ クロテンは高価な毛皮がとれた。袋角は中国人が強精剤の材料にしていた[16]
  6. ^ アルセーニエフによれば、デルスウのリュックには何でもあった。シャツ、ボタン、革靴、縄、銃の備品、煉瓦茶、タバコ、火打石とマッチ、コップ、ナイフ、針と糸、動物の歯と爪などをアルセーニエフは列挙している[27]
  7. ^ 獲物を仕留めるには2〜3発を必要とすることが多く、1発だけ聞こえた時は失敗を意味する。早い間隔で数発撃つ時は獲物が逃げており、不均等に数発を撃つ時は獲物が傷を負っており猟師がとどめをさしていることを表す[29]

出典

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  1. ^ a b 長谷川 1965, p. 306/326.
  2. ^ 野上, 笹井, ヴァシーリエフ 2015, pp. 76–77.
  3. ^ a b アルセーニエフ 1973, pp. 11–12.
  4. ^ 長谷川 1965, pp. 318/326.
  5. ^ アルセーニエフ 1973, pp. 75–76.
  6. ^ 佐々木 1998, pp. 753–754.
  7. ^ アルセーニエフ 1965, p. 22/326.
  8. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 144/326.
  9. ^ a b アルセーニエフ 1973, p. 13.
  10. ^ サヴェリエフ 2012, pp. 89–94.
  11. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 154-155/326.
  12. ^ 田村 2009, pp. 228-229/247.
  13. ^ アルセーニエフ 1973, p. 60-61.
  14. ^ 田村 2009, p. 230/247.
  15. ^ アルセーニエフ 1973, p. 155.
  16. ^ アルセーニエフ 1965, p. 20/326.
  17. ^ a b アルセーニエフ 1965, p. 16/326.
  18. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 234-238/326.
  19. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 304-308/326.
  20. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 310-312/326.
  21. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 238-239/326.
  22. ^ a b アルセーニエフ 1973, pp. 15–17.
  23. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 114/326.
  24. ^ アルセーニエフ 1965, p. 42/326.
  25. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 89, 126/326.
  26. ^ アルセーニエフ 1973, pp. 44–46.
  27. ^ a b アルセーニエフ 1973, p. 73.
  28. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 78-79/326.
  29. ^ a b アルセーニエフ 1973, pp. 81–82.
  30. ^ アルセーニエフ 1965, p. 26/326.
  31. ^ a b アルセーニエフ 1965, p. 174/326.
  32. ^ アルセーニエフ 1973, pp. 16–17.
  33. ^ アルセーニエフ 1973, pp. 34–35, 46–47.
  34. ^ アルセーニエフ 1973, pp. 21–22.
  35. ^ アルセーニエフ 1965, pp. 100-101/326.
  36. ^ 172.デルス・ウザーラの言語”. アルザスのこちら側 (2021年12月5日). 2023年10月1日閲覧。
  37. ^ Dersu Uzala - IMDb(英語)
  38. ^ アルセーニエフ 1965, p. 313/326.
  39. ^ 野上, 笹井, ヴァシーリエフ 2015, pp. 76–78.
  40. ^ 野上, 笹井, ヴァシーリエフ 2015, pp. 456, 617.

参考文献

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  • ウラジーミル・アルセーニエフ 著、長谷川四郎 訳『デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行(Kindle版, 2020年11月19日ダウンロード)』平凡社平凡社東洋文庫〉、1965年。 
  • ウラジーミル・アルセーニエフ 著、長谷川四郎 訳「シベリアの密林を行く」『シベリアの密林を行く・チベット旅行記』筑摩書房〈ノンフィクション全集〉、1973年。 
  • ウラジーミル・アルセーニエフ 著、田村俊介 訳『タイガを通って 極東シホテ・アリニ山脈横断記(Kindle版, 2020年11月19日ダウンロード)』平凡社平凡社東洋文庫〉、2009年。 
  • Saveliev(サヴェリエフ) Igor(イゴリ) 著「帝政期極東ロシア地域の諸民族の交流と生活」、姫田光義 編『北・東北アジア地域交流史』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。 
  • 佐々木史郎「18,19世紀におけるアムール川下流域の住民の交易活動」『国立民族学博物館研究報告』第22巻第4号、国立民族学博物館、1998年3月、683-763頁、ISSN 0385-180XNCID AN000919432020年8月8日閲覧 
  • 田村俊介「アルセーニエフ小伝」『タイガを通って 極東シホテ・アリニ山脈横断記(Kindle版, 2020年11月19日ダウンロード)』平凡社〈平凡社東洋文庫〉、2009年。 
  • 野上照代; 笹井隆男; ヴラジーミル・ヴァシーリエフ『黒澤明 樹海の迷宮: 映画「デルス・ウザーラ」全記録1971-1975』小学館、2015年。 
  • 長谷川四郎「訳者解説」『デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行(Kindle版, 2020年11月19日ダウンロード)』平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1965年。 
  • 長谷川四郎「解題」『シベリアの密林を行く・チベット旅行記』筑摩書房〈ノンフィクション全集〉、1973年。 

関連文献

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関連項目

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