チョ翔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
本来の表記は「褚翔」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細

褚翔(ちょ しょう、505年 - 548年)は、南朝梁官僚は世挙。本貫河南郡陽翟県

経歴[編集]

褚向の子として生まれた。はじめ国子生となり、高い成績をおさめた。父が死去すると喪に服した。喪が明けると、秘書郎に任じられた。太子舎人や宣城王主簿を歴任した。533年中大通5年)、武帝が群臣と宴したとき、褚翔と王訓に20韻の詩を作るよう命じたところ、褚翔は3刻で完成させた。その日のうちに宣城王文学に任じられ、まもなく宣城王友に転じた。

後に義興郡太守として出向し、民衆の労役を省き、無用の出費を取りやめ、簡素で清廉な統治をおこなった。任期を満了すると、義興郡の官吏や民衆が建康の宮城を訪れて褚翔の留任を請願した。武帝はこれを許可した。ほどなく褚翔は建康に召還されて吏部郎となったが、義興郡を去るときには、多くの民衆が泣いて出境を見送った。

褚翔は吏部においても請託を受け付けず、「平允」と称された。まもなく侍中に転じ、ほどなく散騎常侍に転じ、羽林監を兼ね、東宮に近侍した。後に晋陵郡太守として出向したが、任期が終わらないうちに、公務上の事件のために免官された。まもなく散騎常侍として復帰し、東宮に近侍した。548年太清2年)、吏部尚書を代行した。この年の冬、侯景が建康を包囲すると、城内で褚翔の母が亡くなり、褚翔は喪に服して哀毀のあまり死去した。享年は44。本官を贈られた。

伝記資料[編集]