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チョバン

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チョバン(چوبان Čūbān / Chūbān、? - 1327年)は、イルハン朝の軍人・政治家。モンゴル帝国建国の功臣の一人で、「四駿」と讃えられたスルドス部のチラウンの末裔に当たる[1]

生涯

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ガザン・ハンの第3次シリア遠征

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1303年1月、イルハン朝第7代の君主ガザン・ハンによる3度目のシリア遠征が開始され、3月にはクトルグ・シャー、チョバン、ムライらがアレッポ、ハマー、ダマスクスと進軍した。ガザン・ハンは後方のクシャーフの草原で待機し、戦況を待った。マムルーク朝スルターン・ナースィルの軍と戦闘となり、はじめはいつものようにモンゴル軍が優勢だったが、水が欠乏したのと、今回のマムルーク軍は勇猛果敢だったため、クトルグシャーの軍は敗走してしまう[2]。マムルーク朝軍は勝利してカイロに凱旋した[3]。多くの戦死者を出したクトルグシャーをはじめとした将校は処罰の対象となった[3]。チョバンは殊遇を蒙り、ガザン・ハンから御衣の1枚を下賜されたとはいえ、他の者同様、棒刑を受けた[4]

オルジェイトゥ・ハンの治世

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1304年7月、ガザン・ハンの弟オルジェイトゥ・ハンが第8代イルハンに即位すると、軍事の管轄は将軍のクトルグ・シャーとスルドス部族の当主チョバンらに任せた[5]。9月、チョバンはオルジェイトゥ・ハンの娘ドランダイと結婚する[6]

ギーラーンの征服

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スルターニーヤの北、カスピ海の南岸地帯には12人の小王侯からなるギーラーンの諸侯国があったが、イルハン朝は長らく征服できずにいた[7]1306年12月にアルダイ・ガザン[注釈 1]チャガタイ・ウルスドゥア・ハン死去の報告をしてきた際、「ドゥアとその将校たちがペルシアの君主はその王国内の小さなギーラーン国すら征服できないと嘲笑していた」と言ったため、癇に障ったオルジェイトゥはギーラーン征服を決意した[7]。この遠征では将軍のチョバン、クトルグ・シャー、トガン、ムーミン、そしてオルジェイトゥ自らが進軍し、グルジア人、アルメニア人、クルド人、ホラーサーンの各部隊も従軍した[7]。チョバンはアルダビール路より侵攻し、ほとんど抵抗されることなく降伏させ、2人の王侯を捕らえた[8]。クトルグ・シャーはハルハール経由で侵攻し、身勝手な戦略で苦戦に苦戦を重ねて戦死した[9]。トガンとムーミンはガズヴィーン経由で侵攻し、王侯ヒンドゥークーシュの降伏を受け入れた[10]1307年5月、オルジェイトゥはダイラム地方を征服後、6月ノウ・パーディシャーを降伏させ、次いで王侯ソルクの降伏を受け入れた[11]。オルジェイトゥはクトルグ・シャーの戦死を聞き、トゥメン、ラシュト、トゥーリム地区の征服にとりかかった[12]。この地区の抵抗は激しく、モンゴル部隊、クルド部隊、ホラーサーン部隊は苦戦し、アミール・フセイン、アミール・セヴィンジらの活躍により、なんとか占領でき、この地域の住民はことごとく掠奪・虐殺された[13]。オルジェイトゥは残る王侯アミーラ・ムハンマドを降伏させるとギーラーン諸侯国の征服を完了させた[14]

オルジェイトゥがシーア派に改宗

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1310年、オルジェイトゥ・ハンはアリーの墳墓を詣で、彼がかつてこの地で見た夢に従ってシーア派の教義を信奉することに決めた[15]。オルジェイトゥ・ハンは周りの者にもそうするように命じたが、チョバンとエセン・クトルグは従わなかった[15]。オルジェイトゥ・ハンはそれまでのスンニ派の方式からシーア派の方式に変え、貨幣の形も変えた[16]

カラマン朝王侯の反乱

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1314年6月、オルジェイトゥ・ハンはルームのカラマン朝王侯マフムード・ベイがコニア市を占領したことを知り、アミール・チョバンに命じて3万の軍を率いてルームへ出征させた[17]。当時ルームは蝗害による悲惨な飢饉に見舞われており、チョバンは食糧不足のため長時間コニア市にとどまることができなかった[17]。そこでチョバンは談判による方法を講じ、マフムード・ベイに開城降伏させることに成功した[17]。マフムード・ベイは贈り物を準備すると言いながら逃亡したが追いつかれて捕まった[17]。チョバンは彼を許し、コニア城を占領したのち帰還した[17]

マムルーク朝のマラティア侵攻

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1315年4月、ダマスクスの長官サイフッディーン・タンカル指揮下のマムルーク朝軍はアインターブを経由してキリキアに侵入し、マラティヤへ進撃した[18]。ウデクティムールは先鋒を率いてこの城を包囲して3日経つと、タンカルが大軍を率いてこの地に到着し、幕営においてマラティアの長官とカーディーが開城降伏を申し入れてきたのを許した[18]。しかし、そうしている間にウデクティムールは自分の陣地の前の城の一部を力づくで占領した[18]。将軍タンカルがウデクティムールに対して開城降伏した城を掠奪させないように命ずると、ウデクティムールは従わず部下の軍隊に略奪を許可した[18]。ウデクティムールの軍隊はキリスト教住民を虐殺・捕虜にし、都城に火を放った[18]。しばらくしてのち、オルジェイトゥ・ハンからマラティヤを封地として受けたチョバンが到着し、守備隊を置いてマラティヤの再建を命じた[18]。こののちもマラティヤのみならず、キリキアにマムルーク朝軍は侵入を繰り返した[18]

アブー・サイードの即位

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1316年、オルジェイトゥ・ハンが崩御すると、首都のアミールやワズィールたちはマーザンダラーンにいるアブー・サイードにオルジェイトゥ崩御の知らせと新ハン即位のため、使者を派遣したが、アブー・サイードの側近であるアミール・セヴィンジに権力が集中することを恐れた[19]。そのため、首都のアミールやワズィールたちはスルドス部出身の将軍チョバンにアミール・アル=オメラー(大元帥)の称号を与えて権力の均衡を保とうとした[20]。アブー・サイードを奉じて首都にやってきたアミール・セヴィンジはチョバンのアミール・アル=オメラーの着任を承認した[21]

1317年4月、モンゴルの諸王侯、ハトゥンおよびイルハン朝の貴族たちは首都スルターニーヤにおいてクリルタイを開催し、アブー・サイードを第9代のイルハンに推戴し、アラー・ウッドニヤ・ヴァッディーン・アブー・サイード・スルターンの称号を与えた[22]。アブー・サイードは12歳であったため[23]、オルジェイトゥ・ハンの遺言に従ってアミール・チョバンをスルターン代理官に指名し、二人のワズィールの地位を追認、ルームの長官をチョバンの子ティムール・タシュに、ディヤール・バクルの長官をアミール・イリンジンに、アルメニアの長官をスナタイに、ホラーサーンの長官をアミール・エセン・クトルグに任命した[24]

ラシードゥッディーンの処刑

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2人のワズィールであるラシードゥッディーンアリー・シャーは常に対立していた[25]。アリー・シャーはラシードが大元帥チョバンの信頼が厚いことに不安になり、ありとあらゆる手段を使ってラシードを陥れようとした[25]。この二人の争いはディーワーン(財務省)の役人にも迷惑であったため、3人の主要な役人はアリー・シャーの汚職を立証できるから告発するようラシードに促したが、ラシードが応じなかったため、逆にアリー・シャーにラシードを陥れることを提案した[26]。そこでアリー・シャーはアブー・バクル・アカらと結託して讒言し、10月にラシードを罷免することに成功した[26]。アミール・セヴィンジはラシードの罷免に反対していたが、1318年1月に病没した[26]

1318年春、大元帥チョバンがラシードを復職させようとしたところ、それに不安になったアリー・シャーとディーワーンの役人たちは故オルジェイトゥ・ハンがラシード父子によって毒殺されたという嘘の告発をした[27]。これによってラシードッディーンとその子スルターン・イブラーヒームは7月に処刑された[28]。ラシードの邸宅は略奪を受け、その諸子の財産は没収され、ラシードの首は数日間タブリースの市中を引き回された[28]

ヤサヴルの反乱

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1318年、イルハン朝に帰順していたヤサヴルが反乱を起こし、マーザンダラーンに進軍した[29]。同時にジョチ・ウルスウズベク・ハンがデルベンドに進軍、マムルーク朝がディヤール・バクルに侵攻してきた[29]。これに対し、アミール・イリンジンにマムルーク朝を、アミール・フセインにヤサヴルに対応させ、アブー・サイード・ハン自身はウズベク・ハンの対応にあたった[29]。大元帥チョバンはアミール・フセインの援軍へ向かい、将軍タラムタズをアブー・サイード・ハンの援軍に向かわせた[29]。しかし、タラムタズは敵前逃亡したため、チョバンはホラーサーンから引き返して数千しか手勢がいなくなったアブー・サイード・ハンの救援に向かい、ジョチ・ウルス軍を敗走させた[30]。チョバンは敵前逃亡した将校たちに厳罰を処した[30]

チョバン暗殺計画

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1319年、チョバンに厳罰に処された将校のうち、クルミシ、ガザン、ブカ・イルドチらはチョバンを激しく非難した[31]。その後チョバンがグルジアの夏営地へ出発したのを見計らって、クルミシらはチョバンを追跡し、チョバンを強襲した[32]。チョバンはその子フサインと2人で逃げ出し、ナフチワーンのマリク・ズイアー・ウル・ムルクに援助を乞うたが断られた[33]。ワズィールのアリー・シャーはこのことを知るとすぐに出発し、マランドでチョバンを救出した[33]。クルミシはアミール・イリンジンをも抱き込み、チョバンがスルターニーヤに着くよりも先にチョバンが反乱が起こしたとアブー・サイードに嘘の報告した[34]。チョバンとアリー・シャーが戻るなり、すぐにそれが嘘であることをアブー・サイードに伝えると、反乱者に対して軍を起こした[35]。この戦いでアミール・イリンジン、トクマク、エセン・ブカは捕縛されて火あぶりにされ、逃げたクルミシ、ブカ・イルドチらも捕らえられ処刑された[36]。この戦いでアブー・サイードは偉大なる勇気を発揮したので、バハードゥル・ハンという称号が付け加えられ、公文書などではアブー・サイード・バハードゥル・ハンと記載された[37]。9月、チョバンがアブー・サイードの妹サティ・ベクを娶ることを懇願したため、アブー・サイードはそれを許可した[38]

マムルーク朝との講和

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マムルーク朝のスルターン・ナースィル・ムハンマドはイルハン朝に亡命したアミール・カラ・ソンクルを暗殺するため、イスマーイール派の暗殺者30人をタブリーズに送り込んだ[39]。カラ・ソンクルは事前に察知してこれらを殺害したが、アブー・サイード、チョバン、アリー・シャーらはターゲットがカラ・ソンクルのみではなく、自分らの可能性もあると思い、恐怖におそわれた[39]。そこでチョバンはマムルーク朝と平和条約を締結をすることを提案し、カイロに使節を送った[40]。スルターン・ナースィル・ムハンマドはこれに承諾し、イルハン朝に暗殺者を送り込まないこと、亡命者に対して抗議しないこと、アブー・サイードも同じことを約束し、両国の交通の自由を約束した[40]。マムルーク朝側もイルハン朝に倣い、禁酒令を敷いた[41]

ティムール・タシュの反乱

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1322年、チョバンの子でルームの長官を任されていたティムール・タシュが反旗を翻し、自らをハン、マフディーと名乗り、マムルーク朝に応援を要請した[42]。チョバンは仰天し、このことをアブー・サイードに報告すると、自ら息子を討伐することを願い出た[42]。チョバンがルームに到着すると、ティムール・タシュの配下は彼を捕縛し、チョバンに引き渡した[42]。チョバンは息子をアブー・サイードのもとへ連行すると、アブー・サイードは父チョバンの功績に免じて彼を赦し、しばらくして後、ティムール・タシュを復職させた[42]

『元史』の記述

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漢文史料の『元史』には泰定元年(1324年)にアブー・サイード(不賽因)の要請によりその臣下「出班」に開府儀同三司・翊国公の地位と銀印・金符を授けたとの記録があるが[43]、この「出班」こそまさしくチョバンを指すものとみられる。なお、イラン国立文書館所蔵のペルシア語文書の一つにパスパ文字で「yi-guo-gong-yin(=翊国公印)」と記された印影が残されており、これこそまさに大元ウルスからチョバンに授けられた「銀印」であった[44]

チョバンへの不信

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1325年、チョバンはデルベンド関を越えて進軍し、テレク河畔までを掠奪し、多数の捕虜と戦利品を獲得した[45]

21歳になったアブー・サイードはチョバンの娘でシャイフ・ハサンの妻であるバグダードに横恋慕してしまう[46]。チョバンにこのことを率直に伝えたが、チョバンははぐらかした[47]。一方でワズィールのルクン・ウッディーン・サーインはチョバン派の権力をねたんでいたため、アブー・サイードに讒言していた[48]。アブー・サイードは次第にこれに心を動かされていく[48]

1326年、チャガタイ・ウルスのタルマシリン・ハンが侵入すると聞いたアブー・サイードはルクン・ウッディーン・サーインを伴ってホラーサーンへ出兵した。その間、チョバンの子ディマシク・ホージャが政務を代行したが、個人の財産を強奪し、専制的に処刑し、婦女子を凌辱した[49]。アブー・サイードは戻るとこのことを知ったが、チョバンの子を処罰する権限はなかった[50]

処刑される

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1327年、ディマシク・ホージャがオルジェイトゥの宮嬪コトクタイと私通したことにより、アブー・サイードは彼を殺すよう命じ、殺害した[50]。続いてチョバンが挙兵する前にチョバン一味を殺すよう、諸将に命令した[51]。ホラーサーンにいたチョバンはこの知らせをうけ、たまたま一緒だったルクン・ウッディーン・サーインを殺し、7万人の軍隊を率いてイラークへ進軍した[52]。両軍がにらみ合うと、互いに交渉したが、うまくいかなかった[53]。次第にチョバン勢力から逃亡者があらわれ、チョバン自身も妻子を伴って逃げ出した[54]。途中、サティ・ベクがチョバンを離れアブー・サイードのもとへ帰り、チョバンの随行者は17人となった[54]。そこでチョバンはヘラート王のマリク・ギヤースッディーンのもとに隠れたが、アブー・サイードの命令をうけてマリク・ギヤースッディーンはチョバンを捕縛し、処刑した[55]。チョバンは死ぬ前にマリク・ギヤースッディーンに後事を託したいと頼んだが、拒絶されたため、自分の息子であるジェラウカンに次のような遺言を伝えた[55]。「第一に、自分はいかなる罪をも犯していないと自覚しているから、決して身体から首を切断しないこと。自分は国家に大功を立てたのであり、私の死の証拠がほしければ、私の指の中で爪の長いのを1本切って送ってもらいたいこと。第二に、ジェラウカンをその叔父のスルターンのもとへ送ること。スルターンは必ずやその幼少なことと、無実について同情するであろう。最後に、自分は自分の遺骸がメディナに建てさせておいた墓に葬られることを望むこと。」チョバンはこの遺言を述べ終えると、2つのラカア(礼拝)によるナマーズをおこない、信仰告白の句を繰り返しながら、死刑執行人に身をゆだね、首を絞められて殺された(1327年10月11日)[56]。彼に随行した将校たちも同じく処刑された[57]。 チョバンが殺されると、すぐにアブー・サイードはバグダード・ハトゥンを娶った[58]

チョバンの遺骸

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1327年11月、遺言の通り、チョバンの指はアブー・サイードがカラバグにいたときにオルドの前の市場に懸けられた[58]。まもなくしてマリク・ギヤースッディーンによって息子ジェラウカンも殺されたため、チョバンとジェラウカンの遺体はヘラートからメッカに運ばれ、巡礼者たちとともにメッカの周りを規定の巡回した[59]。巡礼者たちはアミール・チョバンの霊に対する祈祷をおこない、過去にチョバンがメッカに水道を引いた功績を神に訴え、呪いの言葉をもってチョバンを死に追いやった者を非難した[59]。ついで棺はメディアへ運ばれ、ハリーファ・オスマン、ハサンの墓の傍らに埋葬された[59]

スルドス部ソルカン・シラ家

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 志茂 2013, p. 676-678.
  2. ^ 佐口 1979, p. 48-56.
  3. ^ a b 佐口 1979, p. 58.
  4. ^ 佐口 1979, p. 60.
  5. ^ 佐口 1979, p. 167.
  6. ^ 佐口 1979, p. 206.
  7. ^ a b c 佐口 1979, p. 173.
  8. ^ 佐口 1979, p. 174.
  9. ^ 佐口 1979, p. 175-176.
  10. ^ 佐口 1979, p. 176.
  11. ^ 佐口 1979, p. 177.
  12. ^ 佐口 1979, p. 178.
  13. ^ 佐口 1979, p. 178-179.
  14. ^ 佐口 1979, p. 179.
  15. ^ a b 佐口 1979, p. 216.
  16. ^ 佐口 1979, p. 217.
  17. ^ a b c d e 佐口 1979, p. 246.
  18. ^ a b c d e f g 佐口 1979, p. 247.
  19. ^ 佐口 1979, p. 264.
  20. ^ 佐口 1979, p. 265.
  21. ^ 佐口 1979, p. 266.
  22. ^ 佐口 1979, p. 266-267.
  23. ^ 佐口 1979, p. 267.
  24. ^ 佐口 1979, p. 268.
  25. ^ a b 佐口 1979, p. 271.
  26. ^ a b c 佐口 1979, p. 272.
  27. ^ 佐口 1979, p. 272-273.
  28. ^ a b 佐口 1979, p. 273.
  29. ^ a b c d 佐口 1979, p. 275.
  30. ^ a b 佐口 1979, p. 276.
  31. ^ 佐口 1979, p. 287.
  32. ^ 佐口 1979, p. 288.
  33. ^ a b 佐口 1979, p. 289.
  34. ^ 佐口 1979, p. 290.
  35. ^ 佐口 1979, p. 291.
  36. ^ 佐口 1979, p. 293.
  37. ^ 佐口 1979, p. 296.
  38. ^ 佐口 1979, p. 297.
  39. ^ a b 佐口 1979, p. 302.
  40. ^ a b 佐口 1979, p. 303.
  41. ^ 佐口 1979, p. 304.
  42. ^ a b c d 佐口 1979, p. 309.
  43. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年十一月]癸巳……諸王不賽因言其臣出班有功請官之、以出班為開府儀同三司・翊国公、給銀印・金符」
  44. ^ 四日市 2012, p. 320-322/352.
  45. ^ 佐口 1979, p. 316.
  46. ^ 佐口 1979, p. 317.
  47. ^ 佐口 1979, p. 318.
  48. ^ a b 佐口 1979, p. 319.
  49. ^ 佐口 1979, p. 320-321.
  50. ^ a b 佐口 1979, p. 321.
  51. ^ 佐口 1979, p. 323.
  52. ^ 佐口 1979, p. 324.
  53. ^ 佐口 1979, p. 326.
  54. ^ a b 佐口 1979, p. 327.
  55. ^ a b 佐口 1979, p. 328.
  56. ^ 佐口 1979, p. 328-329.
  57. ^ 佐口 1979, p. 329.
  58. ^ a b 佐口 1979, p. 330.
  59. ^ a b c 佐口 1979, p. 331.

参考文献

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  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 6巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫365〉、1979年11月。ISBN 4582803652 
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年7月4日。ISBN 978-4130210775 
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年。 
  • 四日市康博「伊児汗朝の漢字宝璽と金印altan tamγa——元朝の寶璽、官印制度との比較から」『欧亜学刊』第10巻、2012年。 

関連項目

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