ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)

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ズヴェヌィーホロド
Звенигород
座標 : 北緯49度43分58秒 東経24度14分49秒 / 北緯49.73278度 東経24.24694度 / 49.73278; 24.24694
歴史
史料初出 1087年 / 1086年
行政
 ウクライナ
  リヴィウ州の旗 リヴィウ州
 地区 プストムィティウシク地区
 村落 ズヴェヌィーホロド
人口
人口 (現在)
  村落域 1156人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
ナンバープレート BC / 14
位置図
ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)の位置(ウクライナ内)
ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)
ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州) (ウクライナ)

ズヴェヌィーホロドウクライナ語: Звенигород)は、ウクライナリヴィウ州プストムィティウシク地区(uk)の村落(село / セロ)である。また、ズヴェヌィーホロドとショロムィニ(ru)、フルィーニウ(uk)、ヴィドヌィクィ(uk)、コーツリウ(uk)の5村からなるズヴェヌィーホロド村評議会(uk)の構成自治体でもある[注 1]。中世には都市(ロシア語におけるгород / ゴロド)であり、史料上の最初の言及は1087年(もしくは1086年)である。

歴史[編集]

研究者の何人かは、ズヴェヌィーホロドは1000年頃にブジャーネ族の移住によって建設されたとみなしている[1]。都市としてズヴェヌィーホロドが最初に言及されるのは『イパーチー年代記』においてであり、それによれば、1087年ヤロポルク・イジャスラヴィチが亡命先のポーランドからズヴェヌィーホロドに帰国しようとした(ヤロポルクはズヴェヌィーホロドへの途上で殺された)、と記述されている。ただし、『ラヴレンチー年代記』はこの出来事を1086年のこととしている[2][3]。この時期においては、ズヴェヌィーホロドは要塞化された都市であり、西ルーシにおける戦略上の重要拠点であった。

12世紀にはズヴェヌィーホロドはズヴェニゴロド公ウラジーミル(ボロディミルコとも)の統治の下に全盛期を迎えた。ズヴェヌィーホロドはズヴェニゴロド公国の首都となっていた。ウラジーミルは南西ルーシの諸公国(ズヴェニゴロド公国、ペレムィシュリ公国テレボヴリ公国ガーリチ公国)を統合し、1141年に自国の首都をガーリチに移した。1144年1146年にはキエフ大公フセヴォロド2世の攻撃を受けたが、2回とも陥落を防いでいる。また、12世紀の白樺文書が3枚発見されている[4][5][6]

ただし首都がガーリチに移ったことによって、ズヴェヌィーホロドの果たす役割は減少した。さらに1241年にはモンゴルのルーシ侵攻により被害を受け[7]、加えて、付近に建設されたリヴィウが急速に発展したこともあり、かつての居住地としての価値は失われた。その後、1340年から1772年までの間は、ポーランド王国ルーシ県の一部となっていた。また行政区分としては、15世紀から村(село)として位置づけられていた[8]

創立900年の記念碑

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「ズヴェヌィーホロド村評議会」は、ウクライナ語: Звенигородська сільська радаの意訳による。сільська рада(シリシカ・ラーダ(uk))はロシア語のСельсовет(セリソヴィエト(ru))にあたる行政組織。

出典[編集]

  1. ^ Звенигород (Луцкий портал)
  2. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p229
  3. ^ Лаврентіївський літопис
  4. ^ Древнерусские берестяные грамоты. Грамота Звен. 1
  5. ^ Древнерусские берестяные грамоты. Грамота Звен. 2
  6. ^ Древнерусские берестяные грамоты. Грамота Звен. 3
  7. ^ ЗВЕНИГОРОД ГАЛИЦКИЙ // Русская история
  8. ^ ЗВЕНИГОРОД Червенский Энциклопедический словарь

外部リンク[編集]