ジャック・ハインツ

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ジャック・ハインツ
Jack Heinz
生誕 Henry John Heinz II
(1908-07-10) 1908年7月10日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ピッツバーグ
死没 1987年2月23日(1987-02-23)(78歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州ホープ・サウンド英語版
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 実業家(ハインツCEO)
子供 1人(ジョン・ハインツ
親戚 ヘンリー・J・ハインツ(祖父)
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ジャック・ハインツ(Jack Heinz)ことヘンリー・ジョン・ハインツ2世(Henry John Heinz II、1908年7月10日 - 1987年2月23日)は、アメリカ合衆国の実業家であり、19世紀に祖父のヘンリー・J・ハインツが創業した食品メーカー・ハインツの3代目社長である。

若年期と初期のキャリア[編集]

ハインツは1908年7月10日ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれた。父はハインツの2代目社長ハワード・コヴォード・ハインツ(Howard Covode Heinz)、母はエリザベス・グレンジャー・ラスト(Elizabeth Granger Rust)である。弟にラスト・ハインツがいる。

チョート・ローズマリー・ホールを卒業してイェール大学に入学した。大学在学中に、スカル・アンド・ボーンズに入会した。その後、オックスフォード大学で学位を得た。在学中も夏休みの間は、父が経営するハインツ社の工場で簿記や手伝いをしていた。大学卒業後、イギリスでハインツ社の営業の仕事をした[1]

ハインツ社社長[編集]

ハインツは大学を卒業してすぐにハインツ社に入社し、様々な部門を経験した。1941年に父が亡くなり、ハインツが3代目社長に就任した。

第二次世界大戦中の一時期、ピッツバーグにあるハインツ社の工場で陸軍省のグライダーの製造を行った[2]。爆撃を受けたロンドン郊外の工場の視察や、イギリス政府からの要請で食糧不足を解決するために、第二次世界大戦中にイギリスを5回訪問した。また、統一戦争基金(United War Fund)の会長に就任し、ピッツバーグやその周辺で、食料の配給や節約に関する演説を毎日のように行っていた。この活動は戦後にコミュニティ・チェスト英語版(共同募金)となり、全米に支部を持つ組織ユナイテッド・ウェイ英語版になった。

ハインツの下で、ハインツ社はオランダポルトガルベネズエラ日本イタリアに子会社を設立し、国際的な企業に成長した[3]。ハインツの在任中、スターキスト(Star-Kist)とオレアイダ(Ore-Ida)を買収して傘下に収めた。また、中国本土におけるベビーフード工場の開設の指揮をとった。

1966年、ハインツは社長兼CEOを辞任して会長に就任し、後任のCEOに初の創業家以外の人物であるロバート・バート・グーキン英語版を指名した。ハインツは亡くなるまで会長の地位にあった。

慈善活動[編集]

ハインツは、金融家のリチャード・キング・メロン英語版やピッツバーグ市長のデイヴィッド・L・ローレンス英語版と共に、ピッツバーグの向上と近代化のための計画「ルネサンスI」を立ち上げた。この計画に基づいて、製鉄所からの煙を規制する条例や、河川の水質改善、環境保護のための条例が制定された。

ハインツは、ピッツバーグ・ダウンタウンへの文教地区英語版の建設を推進した。1941年にハインツ基金英語版を創設し、亡くなるまでその理事長を務めた。1964年、閉鎖され壊される予定だった劇場を購入し、修復してハインツ・ホール英語版として開場させ、ピッツバーグ交響楽団の本拠地とした[4]

ハインツは、ピッツバーグ市当局によるNHLチームの誘致に資金を提供し、1967年に創設されたピッツバーグ・ペンギンズの共同オーナーを1970年代初頭まで務めた[5]

政治活動[編集]

ハインツは、生涯を通じて共和党支持者だった。

1935年から1936年までピッツバーグの消防署長、1938年から1942年までアレゲニー郡の保安官を務めた[6]

1948年から1951年まで国際商業会議所のアメリカ支部長を務めた。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領からの指名により、パキスタンへの緊急経済支援団の団長を務めた。1958年と1959年には、国際連合欧州経済委員会のアメリカ代表団長を務めた。また、ビルダーバーグ会議の運営委員も務めた[7]

栄誉[編集]

1979年、大英帝国勲章名誉コマンダーを授与された。また、イタリア、フランス、ギリシャからも勲章を授与されている。

私生活[編集]

1935年、女性飛行士のパイオニアであるジョーン・ディール(Joan Diehl)と結婚し、ピッツバーグ郊外のフォックス・チャペル英語版に家を構えた。2人の間にはヘンリー・ジョン・ハインツ3世(ジョン・ハインツ)が生まれた。ジョーンとは1942年に離婚した。一人息子のジョンはジョーンに引き取られたが、夏の間は実父のジャックの元で過ごした。ジョン・ハインツは、ハインツ社の社員として5年間在籍した後、下院議員を経て上院議員となったが、1991年に飛行機事故で死亡した。

1953年にドゥルー・マー(Drue Maher)と再婚した。ドゥルーとの間に子供はいなかった。

死去[編集]

1987年2月23日フロリダ州ホープ・サウンド英語版にある避寒のための別荘で、癌により78歳で亡くなった[8]

脚注[編集]

  1. ^ John Heinz: A Western Pennsylvania Legacy”. 2013年7月8日閲覧。
  2. ^ Collection of H.J. Heinz Co.”. Historical Society of Western Pennsylvania. 2013年7月8日閲覧。
  3. ^ Henry J. Heinz; Ex-Chairman of Food Empire”. Los Angeles Times. 2013年7月8日閲覧。
  4. ^ Loew's Penn Theatre | Historic Pittsburgh”. 2022年2月14日閲覧。
  5. ^ 1967-68 NHL Expansion”. Pittsburghhockey.net. 2012年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月26日閲覧。
  6. ^ “Richard Smith, Ex-Fire Chief, Dies in South”. Pittsburgh Post-Gazette: p. 8. (1949年8月27日). https://news.google.com/newspapers?id=p3xIAAAAIBAJ&sjid=imoDAAAAIBAJ&dq=pittsburgh%20fire%20chief&pg=1178%2C2257331 2012年8月17日閲覧。 
  7. ^ Former Steering Committee Members”. bilderbergmeetings.org. Bilderberg Group. 2014年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月8日閲覧。
  8. ^ “HENRY JOHN HEINZ 2D DIES AT 78; LED INTERNATIONAL FOOD COMPANY”. (1987年2月24日). https://www.nytimes.com/1987/02/24/obituaries/henry-john-heinz-2d-dies-at-78-led-international-food-company.html 2015年5月6日閲覧。 
  • Alberts, Robert C. (1973). The Good Provider: H. J. Heinz and His 57 Varieties. Boston: Houghton Mifflin Company. ISBN 0-395-17126-1. https://archive.org/details/goodproviderhjhe00albe