シャムシ・イル

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シャムシ・イルŠamši-ilu)は、紀元前8世紀前半、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の宮廷で大きな影響力を持った高官であり、かつアッシリア軍の最高司令官(タルタン)として有力な地位を占めた人物である。

出自[編集]

シャムシ・イルは恐らくアッシリアの生まれではなかったが、ビート・アディニ英語版部族の高貴な出自であり、アッシリアの宮廷で教育されたものと思われる。その後、彼はアッシリア軍で地位を上昇させていき最高司令官(タルタン)となり、同時代のアッシリア王たちに大きな影響力を及ぼした。彼は恐らくシャルマネセル3世がビート・アディニの領土を併呑した際に総督となった[1]

タルタン[編集]

シャムシ・イルはアッシリアで受けた教育によって出世の階段を登り、アダド・ニラリ3世シャルマネセル4世の下で軍の最高司令官に登り詰めた[1]。相当後のことであるかもしれないが、彼はいずれかの時点でプル(ティグラト・ピレセル3世)と関わりを持っていた可能性が高い。彼はティグラト・ピレセル3世がアッシュル・ニラリ3世から王位を簒奪するのを助けた同盟者か、はたまた王権争奪戦の末に破られたライバルかのいずれだった可能性があるが、現段階ではそれらの仮説を考証するための証拠はまだ不十分である。

遠征[編集]

シャムシ・イルの最も有名、かつ最も記録の残された遠征は前780年のウラルトゥアルギシュティ1世に対する遠征である[2]。彼の名前は、遠征の勝利を記した巨大な石製ライオン像など数多くの公共記念碑に見られる[1]。彼はまた、シロ・ヒッタイト諸国英語版との間で土地を移管し国境協定を締結したことを伝える石碑によっても知られている。また、彼は前798年のダマスカスに対する遠征軍の司令官であった可能性もある[1]

関連項目[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d Gwendolyn, Shamshi-iluの項目より
  2. ^ Limmu List (858-699 BCE)”. Livius.org (2020年9月24日). 2020年10月16日閲覧。

参考文献[編集]

  • Leick, Gwendolyn (2002). “Shamshi-ilu” (英語). Who's Who in the Ancient Near East. Routledge. ISBN 9781134787951. https://books.google.com/books?id=3A2GAgAAQBAJ&pg=PT163 
    (『古代近東人物事典』(2002年、ラウトリッジ出版(英国・米国))に収録されている『シャムシ・イル』(著:グウェンドリン・レイク))
  • Grayson, Albert Kirk (1996) (英語). Assyrian Rulers of the Early First Millennium BC.: (858-745 BC). II. University of Toronto Press. pp. 231–236. ISBN 9780802008862 
    (『紀元前一千年紀初頭のアッシリアの統治者(紀元前858年~紀元前745年)』(アッシリア時代のメソポタミア王家の碑文シリーズ第2巻)(著:アルバート・カーク・グレイソン、1996年、トロント大学出版(カナダ)))
  • Hawkins, J.D. (1982). “9 THE NEO-HITTITE STATES IN SYRIA AND ANATOLIA” (英語). The Cambridge Ancient History The Prehistory of the Balkans, the Middle East and the Aegean World, Tenth to Eighth Centuries BC. 3. Cambridge University Press. pp. 404–405. ISBN 9780521224963. https://books.google.com/books?id=vXljf8JqmkoC&q=Shamshi-ilu&pg=PA404 2020年11月15日閲覧。 
    (『ケンブリッジ古代史 第3巻第1部 バルカン、中東、エーゲ世界の前史:紀元前10世紀~紀元前8世紀』(編:ジョン・ボードマン、イオルワース・エイドン・ステファン・エドワーズほか、1982年、ケンブリッジ大学出版)p.404-405に収録されている『9 シリアとアナトリアにおける新ヒッタイト国』)