グイード・カヴァルカンティ

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グイード・カヴァルカンティ

グイード・カヴァルカンティ(Guido Cavalcanti, 1258年 - 1300年8月29日)は、イタリア詩人

生涯[編集]

1258年頃にフィレンツェ共和国の首都フィレンツェで生まれた。フィレンツェの裕福な名家出身。父はゲルフ[1][注釈 1]。学者ブルネット・ラティーニのもとで学ぶ。カヴァルカンティはゲルフの出身だったが、1267年にギベリンの指導者の娘と結婚した[1]。しかし、後年に彼はゲルフ党白派に参加した。ゲルフとギベリン、さらに白派と黒派の争いは激烈化する。抗争に巻き込まれたカヴァルカンティはサルザーナへ流罪に処される[3]。流刑地で孤独な生活を送り、ほどなくしてマラリアに罹患。最終的に帰国を願い出て許され、まもなくフィレンツェで死去した[1]

作風[編集]

カヴァルカンティは「清新体」と呼ばれる詩派に属する。技術的完成は最高の域に達し、学問があった彼は、故郷の言語を愛し彫琢し、文法や表現の技術にかんする書物を著している[4]。カヴァルカンティにとって本質的なものは哲学であって、言語と詩は単なる飾りに過ぎない。ロレンツォ・デ・メディチは彼のことを「きわめて洗練された弁証家」と評し、かなり後の時代になってから哲学者のマルシリオ・フィチーノはカヴァルカンティの作品の中にプラトンの学理を探究したほどである[5]。1482年に発表されたクリストフォロ・ランディーノの『神曲注釈』の序言には、雄弁の分野で傑出した人物としてカヴァルカンティの名が挙げられていた[6]

36編のソネット、11編のバッラータといった詩が現存している。特に『Donna mi prega』は高く評価されている。また、カンツォーネやモテットも書いている。

注釈[編集]

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  1. ^ グイードの親友であったダンテは、『神曲』の地獄篇第十歌の中にこの父を登場させている[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c CAVALCANTI, Guido di Mario Marti - Dizionario Biografico degli Italiani - Volume 22 (1979)”. 2017年9月7日閲覧。
  2. ^ 三浦逸雄・訳 『神曲 第一部 地獄』 角川文庫、1972年、97p。
  3. ^ D・コムパーニ 『白黒年代記』 日本評論社、1948年、74-80p。
  4. ^ デ・サンクティス 『イタリア文学史・上』 現代思潮社、1970年、P.76。
  5. ^ デ・サンクティス 『イタリア文学史・上』 現代思潮社、1970年、P.77。
  6. ^ A・シャステル 『ルネサンス精神の深層』 平凡社、1989年、P.339。

参考文献[編集]

  • Maria Corti, La felicità mentale: Nuove prospettive per Cavalcanti e Dante, Torino, Einaudi, 1983.
  • Gianfranco Contini, Cavalcanti in Dante, Torino, Einaudi, 1976.
  • Antonio Gagliardi, Guido Cavalcanti: poesia e filosofia, Alessandria, Edizioni Dell'Orso, 2001.
  • Roberto Rea, Cavalcanti poeta: uno studio sul lessico lirico, Roma, Nuova Cultura, 2008.
  • Corrado Calenda, Per altezza d'ingegno: saggio su Guido Cavalcanti, Napoli, Liguori, 1976.
  • Noemi Ghetti, L'ombra di Cavalcanti e Dante, Roma, L'Asino d'Oro, 2011.

外部リンク[編集]