ギヨーム1世・ド・シャンリット

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ギヨーム1世・ド・シャンリット
Guillaume I Champlitte
初代アカイア公
Blason de la ville de Pontailler-sur-Saône (21).svg
ギヨーム1世・ド・シャンリットの紋章
在位 1205年 - 1208年

出生 1160年頃
死去 1209年
シチリア王国プッリャ
配偶者 アリックス・ド・ムルソー
  エリザベト・ド・モン=サン=ジャン
  ウスタシー・ド・クルトネー
子女 ギヨーム2世
ウード3世
エリザベト
家名 シャンリット家
父親 ウード1世・ド・シャンリット
母親 シビーユ・ド・ラ・フェルテ=シュル=オーブ
宗教 キリスト教カトリック
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ギヨーム1世・ド・シャンリット(Guillaume I Champlitte, 1160年頃 - 1209年)は、フランスブルゴーニュ出身の騎士第4回十字軍に参加し、のちに初代アカイア公(在位:1205年 - 1208年)となった。ブロワ家ディジョン子爵ウード1世(シャンパーニュ伯ユーグの息子)と妻シビーユの息子である[1]

生涯[編集]

兄ウードと共に第4回十字軍に参加、モンフェッラート侯ボニファーチョ1世に従う。1205年、テッサロニキ王となったボニファーチョの中央ギリシア遠征に参加した際、ペロポニソス半島に上陸し征服活動を開始したジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアンの要請を受け、ボニファーチョの許可を得て半島征服に乗り出す。パトラメソニコロニなど沿岸の要塞を次々に攻略し、南西部メッシニア地方に侵攻、同年夏、クンドゥラの会戦に於いて殆ど唯一の地元勢力の抵抗を打ち破る。同1205年11月9日教皇インノケンティウス3世は書簡の中でギヨームを「全アカイア公」と呼び、以後、これが正式な君主号となる。

ギヨームはアカイアを出身地フランスのような封建国家に作り上げた。ニヴレ家、ニューイ家など付き従ってきた騎士に領地を与え、12の男爵領を創設した。

1208年頃、一足先に本国に帰っていた兄ウードが死去したとの報せを受け、領地を相続する為、後事をヴィルアルドゥアンに委ねて帰国の途に就く。しかし翌1209年頃、その途上、南イタリアプッリャにて客死した。

脚注[編集]

  1. ^ Evergates 2007, p. 220.

参考文献[編集]

  • Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300. University of Pennsylvania Press. ISBN 978-0-8122-4019-1.
先代
アカイア公
初代:1205年 - 1208年
次代
ジョフロワ1世