ガリ・メルチャーズ
ガリ・メルチャーズ Gari Melchers | |
---|---|
生誕 |
Julius Garibaldi Melchers 1860年8月11日 アメリカ合衆国,デトロイト |
死没 |
1932年11月30日 アメリカ合衆国,フレデリックスバーグ |
ガリ・メルチャーズ(Gari Melchers、本名:Julius Garibaldi Melchers、1860年8月11日 - 1932年11月30日)はドイツ出身の父親を持つアメリカ合衆国の画家である。
略歴
[編集]デトロイトで生まれた。父親はドイツ、ゾーストの生まれで1848年にアメリカに移ってきて、デトロイトで彫刻家として成功した人物である。メルチャーズは1878年から1881年の間、ドイツのデュッセルドルフ美術アカデミーでヨハン・ピーター・テオドール・ヤンセンやエドゥアルト・フォン・ゲープハルトに学び、その後、パリのアカデミー・ジュリアンやエコール・デ・ボザールで、ジュール・ジョゼフ・ルフェーブルやギュスターヴ・ブーランジェに学んだ[1]。同じ頃、パリで活動していたジョン・シンガー・サージェントやジョージ・ヒッチコックといったアメリカ人画家と親しくなった。
1882年にブルターニュで描いた作品をサロン・ド・パリに出展した。1884年からオランダの港町エグモント・アーン・デン・フフにヒッチコックと移り、芸術家村を作った画家の一人となった[2]。オランダの人々の生活を描いた1886年の作品はサロン・ド・パリで好評であった[3]。1889年にはパリ万国博覧会の展覧会でアメリカ人ではジョン・シンガー・サージェントとともに大賞を受賞した。シカゴ万国博覧会にも出展した。
1903年に20歳年下のアメリカ人画家、コリーヌ(Corinne Mackall)と結婚した[4]。1904年にフランス政府からレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受勲した。1909年にワイマールの美術学校の教授に任じられた。
1915年にアメリカに帰国し、ニューヨークにスタジオを開いた。各種の芸術団体の要職を務め、1932年にアメリカ芸術・文学アカデミー (American Academy of Arts and Letters) の金賞を受賞した[5]。晩年はバージニア州のファルマスで暮らした。
作品
[編集]-
ジャンヌ・ダルク
-
「読書」(1916)
-
「オランダで」(1891以前)
-
「コミュニカント」(c.1895)
-
「若い母親」
-
「読書する女」
-
「ささやかな庭」
-
「窓際で読書する女」
脚注
[編集]- ^ Baulch, Vivian M. (January 31, 1998).Detroit is fertile ground for art Archived January 2, 2013, at Archive.is. Michigan History, The Detroit News. Retrieved on June 6, 2008.
- ^ Catron, Joanna D. The Story of Gari Melchers. Fredericksburg, VA: Belmont, the Gari Melchers Estate & Memorial Gallery, 2002. Print.
- ^ “Gari Melchers, artist, Dead.”. New York Times. (December 1, 1932) 2008年6月29日閲覧。
- ^ “A Man in Two Worlds”. Virginia Living. Cape Fear Publishing (November 5, 2015). June 27, 2016閲覧。
- ^ “Archived copy”. April 15, 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月24日閲覧。
参考文献
[編集]- Hind, C. Lewis (April 1908). “Gari Melchers: A Great American Painter Who Has Received More Recognition Abroad Than At Home”. World's Work XV: 10092–10105 2009年7月10日閲覧。.
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Melchers, (Julius) Gari". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 18 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 92.