カロリーネ・ウンガー

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カロリーネ・ウンガー
Caroline Unger
基本情報
生誕 1803年10月28日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 ウィーン
死没 (1877-03-23) 1877年3月23日(73歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国 フィレンツェ
ジャンル クラシック
職業 コントラルト歌手

カロリーネ・ウンガー(Caroline Unger[注 1] 1803年10月28日 - 1877年3月23日)は、オーストリアコントラルト歌手。名前の表記にはKaroline、Carolina、Carlottaなどの揺れが見られる[1]

生涯[編集]

ウィーンに生まれた[注 2]イタリアで修業を積み、アロイジア・ヴェーバードメニコ・ロンコーニらに師事した。1821年にウィーンにおいてモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』で初舞台を踏んだ。この公演にはシューベルトコレペティートルとして少々参加していた。3年後にはベートーヴェン交響曲第9番ミサ・ソレムニスの初演を歌っている。

ウンガーは歌唱活動の大部分をイタリアで行った。とりわけ、サン・カルロ劇場インプレサリオであったドメニコ・バルバイアと契約を結んだ1825年以降はナポリを拠点とした[1]。彼女のために書かれた役としてはベッリーニの『異国の女』のイソレッタ(1829年、ミラノ)、ドニゼッティの『パリジーナ』(1833年、フィレンツェ)、『ベリザーリオ』(1836年、ヴェネツィア)、『ルデンツ家のマリア』(1838年、ヴェネツィア)、メルカダンテの『Le due illustre rivali』のビアンカ(1838年、ヴェネツィア)などがある。

ウンガーは1833年10月にパリイタリア座で大きな成功を収めた。彼女の声には「南部の情熱、北部の活力、真鍮製の肺、銀の声、そして金の才能」があるとロッシーニが述べたのはこの時ではないかと、スタンリー・セイディは推測している[3]

1841年にフランスの著作家フランソワ・サバティエ=ウンガー英語版と結婚した彼女は、1843年に表舞台から退いた[1]。フィレンツェで生涯を終え、同地のサン・ミニアート・アル・モンテ教会英語版の墓地に埋葬された。

ベートーヴェンの交響曲第9番の初演時にまつわる有名な逸話が残されている。終演後に耳の聞こえない作曲者を客席に向かって振り返らせ、割れんばかりの拍手を受けさせたのはウンガーであったと言われている。

脚注[編集]

注釈

  1. ^ Ungherとも。
  2. ^ 誤った出典によるとシュトゥールヴァイセンブルク[2]、現セーケシュフェヘールヴァール生まれであるとするものもある。

出典

  1. ^ a b c Sadie 1998, p. 867
  2. ^ "Unger [Ungher], Caroline [Karoline, Carolina, Carlotta]" by Ursula Kramer and Peter Branscombe, Grove Music Online, 2002 (Paid subscription required要購読契約)
  3. ^ Rossini, quoted in Sadie 1998, p. 867

参考文献[編集]

  • Ewen, David (1955), Encyclopedia of the Opera, A. A. Wyn.
  • Sadie, Stanley, ed (1998). “Unger, Karoline”. The New Grove Dictionary of Opera. 4. London: Macmillan. p. 867. ISBN 0-333-73432-7, 1-56159-228-5 

外部リンク[編集]