エドワード・シェルドン・カニンガム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エドワード・シェルドン・カニンガム卿(1954年)

エドワード・シェルドン・カニンガム卿(英語: Edward Sheldon Cunningham、1859年7月21日[1] - 1957年4月28日[2])は、1906年から1928年までメルボルンのジ・アーガスで編集長を務めた。

経歴[編集]

カニンガムはベンジャミン・マリオット・カニンガム(1830年頃-1896年頃)[3]と、妻でネイルソン生まれのジェーン・エクルズの次男として、オーストラリアのタスマニア州バッテリー・ポイント英語版にあるデ・ウィット通りで生を受けた。両親は1855年に結婚した[4]。家族は間もなくニューサウスウェールズ州ニューキャッスルに引っ越し、その後にビクトリア州ベンディゴに定住した。そこは聡明で教養のある母親からの指示により補強された民間学校教育に倣って[2]ベンディゴ・アドバタイザー英語版コピー・ボーイ英語版[注 1]として働き始めた場所である[2]。ホバートに戻った3年後、速記士になるまでジ・マーキュリー英語版で校正係として働いた。その時の彼は記者として雇われていた。

1879年、彼は政治記者としてジ・エイジに入社した[1]。彼にとって最古の「スクープ」は、彼はスペンサー通り英語版にある本社に逃れるだろうと他の記者が想定した際に[6]、負傷して捕まったばかりのネッド・ケリーノース・メルボルン英語版駅に到着した瞬間を目撃したことである[7]。カニンガムが書いたケリーの裁判記事は分かりやすい記事の模範となった。この直後、ジャーナリストのデイビッド・ワッターストン英語版の要請により、彼は議会担当記者としてジ・アーガスに入社した。

1906年、彼はワッターストンの後任としてジ・アーガスの編集長に就任し[8]、1928年に退任した。その後、ワッターストンの後任として同社の経営委員に着任した[9]

1936年にナイトの称号を受けた彼は、1938年にジ・アーガスの経営委員を退任した[1]

私生活[編集]

1886年9月29日、サンドハースト(現在のベンディゴ)においてカニンガムはモード・メアリー・ジャクソン(1931年没)と結婚した[10]が、2人には子供がいなかった[2]

業績[編集]

  • 1909年、彼はグラスゴー大学から名誉法学博士の称号を授与され、ナイト爵位が授与されるまで彼は広く「カニンガム博士」と呼ばれていた。
  • 彼の名前はオーストラリア・マスメディアの殿堂に登場する[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ (新聞・出版社の)使い走りの原稿係の少年[5]

出典[編集]

  1. ^ a b c “Sir E. Cunningham, 95, Today”. The Age (Victoria, Australia) (30956): p. 2. (1954年7月21日). http://nla.gov.au/nla.news-article205699851 2021年12月24日閲覧。 
  2. ^ a b c d John Salmond (1981). Australian Dictionary of Biography: 'Cunningham, Sir Edward Sheldon (1859–1957)'. National Centre of Biography, Australian National University. https://adb.anu.edu.au/biography/cunningham-sir-edward-sheldon-5848/text9941 2021年12月24日閲覧。 
  3. ^ “Family Notices”. The Argus (Melbourne) (Victoria, Australia) (15,461): p. 1. (1896年1月18日). http://nla.gov.au/nla.news-article8888159 2021年12月24日閲覧。 
  4. ^ “Family Notices”. The Courier (Hobart) (Tasmania, Australia) XXIX (2627): p. 2. (1855年8月1日). http://nla.gov.au/nla.news-article2487917 2021年12月24日閲覧。 
  5. ^ ジーニアス英和辞典【第6版】 p.462
  6. ^ a b Andrew Rule. “Edward Cunningham”. Melbourne Press Club. 2021年12月24日閲覧。
  7. ^ “Arrival of Ned Kelly in Melbourne”. The Age (Victoria, Australia) (7917): p. 3. (1880年6月29日). http://nla.gov.au/nla.news-article202146723 2021年12月25日閲覧。 
  8. ^ “Journalistic”. The Mercury (Hobart) (Tasmania, Australia) LXXXVI (11,329): p. 5. (1906年7月7日). http://nla.gov.au/nla.news-article12753641 2021年12月25日閲覧。 
  9. ^ “Editor of the "Argus"”. Queensland Times (Queensland, Australia): p. 4. (1929年1月9日). http://nla.gov.au/nla.news-article118466620 2021年12月25日閲覧。 
  10. ^ “Family Notices”. Bendigo Advertiser (Victoria, Australia) XXXIII (9,739): p. 2. (1886年10月2日). http://nla.gov.au/nla.news-article88915338 2021年12月25日閲覧。