イワノフカ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

イワノフカ事件(イワノフカじけん)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、抗日パルチザンに対する掃討作戦の過程でアムール州ブラゴベシチェンスク郊外のイワノフカ村(ru)において多数の民間人を殺害した事件[1]

概要[編集]

ロシアに極めて厳しい講話条件を課した1918年3月のブレスト=リトフスク条約に刺激され、ロシアl国内で前1917年に発足したボリシェヴィキ政権への反対運動が活発化し始めた[2]。このようにしてロシアの民主主義者・共和主義者・君主主義者・保守派・自由主義者の白側と共産主義勢力支持派の赤側に分かれて大規模な反乱・蜂起など内戦が勃発していた[3]。1918年夏にロシア極東部に出兵することを決めたアメリカに日本も同時期に出兵を決定し、連合軍は8月にウラジヴォストークに上陸した[4][4]。帝政期からのロシア軍の将軍たちと臨時政府に忠誠を誓っていたコサック軍で構成された白衛軍は都市部こそ掌握したものの、農村はボリシェヴィキ寄りで白軍や日本軍の武装解除の要求にも応じないことがあった[5]。白衛軍に従わないイワノフカ村に対し[6]右派エスエル党に所属する反革命指導者のアタマン・ガーモフ[7]は日本軍に制圧時の応援を頼んだ[8]。 良民に偽装して攻撃をしてくる革命支持勢力のによる戦友の戦死が相次いでいた日本軍はロシアの白軍と敵対する村落を焼き討ちするべき方針が打ち出された[9]。1919年2月中旬には歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長ノ指令ニ基キ」で『第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装イ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ』と発している[10]。日本軍とロシア人(白軍支持派)に敵対する過激派軍が付近の各所に散財しているが、日本軍に彼らが私たちの兵を攻撃した時に良民を装ってきたことから日露軍に敵対するには者に日露軍は過激派に加担する者の村は焼き討ちすべきと通告していたとされている[11]。アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙った村落は他にもあるが、反白軍を打ち出していたたことで大規模な攻撃を受けたのがイワノフカ村であったとされる[12]。山田旅団長は革命支持勢力の攻撃で戦死が相次いでいたことから、赤軍に援助を与える者で日本軍と敵対しようとする勢力は返り討ちになる覚悟するべきであるとの主張をしていたとされる[13]。その事があって以来、村民の大部分は反革命勢力を恨み、13個中隊を編成する結果となったとの話がある[14]。しかし、大規模な攻撃を白軍と日本軍から受けた事件がおきたというのに村民で13個も中隊ができるのには疑問の声があり、事件が白軍と赤軍間で内戦時に頻繁に起きた敵対支持勢力のいる地域での戦闘や攻撃の一つであるとの主張がある[15]。1920年までに反ボリシェヴィキ政権の戦闘が多くが幅広く散発したが、1922年にシベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結した[16]。ボリシェヴィキによるソヴィエト社会主義共和国同盟を支持しないロシア人は白系ロシア人として日本にも比較的多数が亡命した[17]

犠牲[編集]

共同通信の報道によれば、日本軍は制圧の過程で女性や子供ら、1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含む、257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込め焼き殺したという[1]

近年[編集]

1994年シベリア抑留者の慰霊碑を建てようと現地を訪れた全国抑留者補償協議会の会長は、村長にこう問われたという。「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」。翌年、日露共同の慰霊碑ができた[18] それ以来、ロシアのイワノフカ村では毎年、犠牲者の追悼式典が行われている。[1] [19] [20] [21]

一方、日本では多くの人、特に若い人はこの事件の存在さえ知らないと現地紙は報道している [22]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c “ロシア住民虐殺で追悼式典 イワノフカ事件90年”. 47NEWS. 共同通信社. (2009年7月12日). http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009071201000480.html 2012年3月6日閲覧。 
  2. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p59、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  3. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p60、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  4. ^ a b 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p61、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  5. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p62、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  6. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 470
  7. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 200
  8. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』p. 471 原暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865
  9. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474
  10. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474
  11. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474-475
  12. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 475
  13. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 477
  14. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 476
  15. ^ 「本当のことがわかる昭和史」p237、渡部昇一 、出版: PHP研究所、 2015年7月29日、ISBN 978-4569824895
  16. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p70、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  17. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p66、木村英亮、山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  18. ^ 歩み来て、未来へ--ニッポン近代考 共同通信社
  19. ^ 沿アムール地方 日本からの代表団が1919年事件の犠牲者を弔うThe Voice of Russia 2012-08-27
  20. ^ 揖斐川のNPOが24日からシベリア追悼訪問中日新聞 2012年8月22日
  21. ^ 旧日本軍の住民虐殺で追悼 ロシア極東イワノフカ村47NEWS 2012-03-22
  22. ^ В Приамурье делегация из Японии чтит память павших в 1919 годуamur.info 2012-08-27

関連項目[編集]