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イエスの知恵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イエスの知恵(イエスのちえ)は、グノーシス文書の中の啓示説話文書の一つである。1945年エジプトの土中から見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書である[1][2]

この書は、非キリスト教グノーシス文書をキリスト教グノーシス文書に改編したものとされている。主要目的は、非キリスト教グノーシス主義者をキリスト教グノーシス主義に引き込むことにあったとされている[3]


成立年代

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1世紀末ないし、2世紀初頭に成立したものとされている[4]

『イエスの知恵』における啓示認識としての神観

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救い主は、不可視のの姿で、著者に訪れ、大いなる天使のような姿で啓示したという設定になっている[5]。彼は、「無限の光(終わりのない光)」から来たものであるとされている[6]。「大いなる救い主」という概念は、この書の元となったとされる『エウグノストス』にはない概念である。 その彼が、新たに登場し、弟子たちに真理を説いてゆく、という内容である。

世界について

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「万物の主」を、「原父」としている[7]。「万物の主」は、「人の子」、「至高者」、「全能者」、「万物の泉」等と呼ばれている。

この世界を創ったのは、「全能者」である。この世界は「混沌(カオス)」の状態にあるとされ、忘却と高ぶりと盲目と貧しさがこの世界を覆っているとされる。

「この世界の支配者たちは、自分のことを神々であるといって高ぶっている」とされている[8]

最大の変更点は、当初は、善であるとされる神がこの世を創ったとされていたのが、この世を創った神は卑しい存在であり、世界は貧しいとしているところである。忘却と高ぶりと盲目と貧しさがこの世界を覆っているので、人は、この世界に対するときに、失意を感じるように誘導されていると言える[9]

人間について

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人間のことを、光の雫であるとしている。神的領域から来た者たちは、肉体をまとうことにより、自分がどこから来たのかを忘れさせ、眠り込ませ、焼失させてしまうとされている。

内容

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  • この書では、「生まれざる者」、「存在者」についてはよくわからない、となっている。「生まれざる者」は、『エウグノストス』においては、「至高者」、「先にあった父」、「原父」と呼ばれている。また、『エウグノストス』には無かった概念として、『仲介者』イエスが新たな啓示として出現し、彼が『大いなる救済者』となったことが、告げられている。(94:9~14)。宇宙がはじまる前にあった状態についての記述は曖昧なものになっている[10]
  • 「万物の主」は、「原父」の位置にあるとされている。(イエスの知恵98:22)
  • 「万物の主」(原父)の自己認識として、「父」が生まれる。
  • 「不死の人間」から、神聖と主権を持った王の存在する王国の要素としての名(イデアのようなものからくる名前)が出現する。(イエスの知恵94:14~95:18)
  • 「不死の人間」は、「神々」(人の子の分霊)と、天使長たちをつくる。
  • 「不死の人間」は、天使たちを、数えきれないほどつくる。
  • 「不死の人間」から、神性と主権と王国とこれらについて行く者たちがつくられる。しかし、これらの創造物は貧しいとされている。(イエスの知恵101:20~102:19)
  • この後は、人間がおかれた貧しい状況の中で、救い主のしたことは、盗人たち(この世の支配者たち)の巣を断ち切った。大いなる救い主は、この世界の支配者たちの縛りを説き、門を破り、慮りを卑しめた、とされている。だから、あなたがたは、彼らの墓を踏みにじれ、という命令に至っている[11]

グノーシス主義との関係

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この書は、キリスト教と関係のない宗教哲学的な書簡が、キリスト教の啓示説話に変えられてゆくのを確認できるとされている[12]。また、この書は、天地を創造した神とは、実は、人間の救済を阻害する存在であった、ということを明らかにすることで、グノーシスとしての実存的な「神の国」から人間を遠ざけようとしているものであると言える[13]

参考文献

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『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 

関連項目

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啓示宗教

脚注

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  1. ^ (出典『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店、1998年 序にかえてP8 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳)
  2. ^ これと内容がほとんど同じとされる文書に、『イエス・キリストの知恵』というベルリン写本がある。また、この文書の元になった書簡に『エウグノストス』が、2写本存在している。そのうちの一冊はキリスト教色のない、グノーシス文書であるとされている。(出典『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説エウグノストス P505 小林)
  3. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説イエスの知恵 P385 小林
  4. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説イエスの知恵 P390 小林
  5. ^ イエスの知恵93:8-12
  6. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説イエスの知恵 P386 小林
  7. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 イエスの知恵 P74 小林
  8. ^ 福音書では、世の支配者は悪魔であるとされている。
  9. ^ それは、神への愛が不満に転化していると見ることができる。神の位置と、批判者の位置が逆転しているようでもある。
  10. ^ 形式として見るならば、『イエスの知恵』では、「生まれざる者」について、『エウグノストス』における「不死の人間」と同一視されているようだ。2写本を比較してみると、『イエスの知恵』については、原理の面で、混乱していて、曖昧であると言うことができる。
  11. ^ この救い主の行動は、良きサマリア人のように人に親切にせよ、という行動規範とは、大きく異なっている
  12. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説イエスの知恵 P388 小林
  13. ^ このことは、編集者が、グノーシスにおける宇宙開闢の認識を、「大いなる救い主」と、「高ぶった卑しい創造主」という概念の導入によって、全体的に崩壊させた結果となっている。この書における「大いなる救い主」が啓示したとする救済は、イエスの説いたとされる神の愛とは逆の救済理論であるといえる。 イエスは、世は悪魔によって支配されている、としていたが、この逆転は、神ならざる者が、神やイエスの位置に自分の身を置こうと企んだ、ということが言えるようである。こうしたことについて、ブッダは「悪魔のわな」ということを言っている(出典『原始仏典第4巻 中部経典 I』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳)。大天使の姿をした存在から啓示を受けたからといって、その言葉に矛盾がある場合は、天使の姿を用いたわなであると判断すべきであろう。大天使の姿をしている魔も存在している、という見解があるためである(出典『真創世記 地獄篇』高橋佳子 祥伝社 1977年 P230 )。