アラワルス

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アラワルスモンゴル語: Alawars、生没年不詳)とは、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は阿剌瓦而思(ālàwǎérsī)。

概要[編集]

アラワルスは西域の八瓦耳城[1]出身で、ホラズム・シャー朝に仕える千人隊長であったが、チンギス・カンによるモンゴルのホラズム・シャー朝征服時に投降しモンゴル帝国に仕えるようになった[2]。その後はチンギス・カンのホラズム遠征に加わってセミスケント(サマルカンド)攻略などに加わったが、従軍中に亡くなった[3]

子孫[編集]

アラワルスの息子がアラーウッディーン(阿剌瓦丁)で、チンギス・カンの孫のクビライに仕え、1292年に102歳という異例の長寿で亡くなったという[4]

アラーウッディーンの息子がシャムスッディーン(贍思丁)で、陳州ダルガチのウマル(烏馬児)、隆鎮衛都指揮使のブベク(不別)、監察御史のヒンドゥ(忻都)、拱衛直司都指揮使のアフマド(阿合馬)、成宗・武宗・仁宗の3代に仕えたハサン(阿散不別)という5人の息子がいた[5]

ブベクの子のオトマン(斡都蛮)は天暦の内乱で活躍した将として著名である。1328年致和元年/天順元年/天暦元年)7月にイェスン・テムル・カアン上都で崩御すると、大都で3代前の皇帝クルク・カアン(武宗カイシャン)の遺児のトク・テムルを奉じるエル・テムルが挙兵し、これに対抗して上都のイェスン・テムル・カアンの旧臣たちは先帝の遺児のアリギバを擁立し、大都派(トク・テムル派)と上都派(アリギバ派)との間で内戦(天暦の内乱)が勃発した。オトマンはイェスン・テムル・カアンが崩御した時点では上都にいたが、上都派を見限って大都に遷りエル・テムルから裨将に任じられた。オトマンは緒戦で壮士100人を率いてメリク・テムルとトガチを陀羅台駅で破って捕虜にする功績を挙げ、賜衣1・禿禿馬失甲1・金束帯1、白金100両、鈔200錠を与えられた[6]

同年9月には行院同僉とされ、10月には上都側最後の主力たるクラタイ(忽剌台)・マジャルカン(馬札罕)率いる軍団を盧溝橋に破り、紫荊関にまで追撃して多数の捕虜を得た。更に、アントン率いる軍1500名も投降させ、上述の功績と併せて上賞を受けた[7]。同月には斉王オルク・テムルの上都強襲によって大都派の勝利が確定し、以後オトマンは1329年(天暦2年)に枢僉院、1330年(天暦3年)に隆鎮衛都指揮使兼領拱衛司と栄達した[8]

脚注[編集]

  1. ^ 屠寄は『蒙兀児史記』において、『元史』巻63地理志6で「不賽因(=フレグ・ウルスアブー・サイード)」の領地とされる「巴瓦児的」と同一の地名とし、現トゥース西北の城であろうと指摘している
  2. ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝では出身地の八瓦耳でチンギス・カンに投降したことになっているが、屠寄は『蒙兀児史記』でチンギス・カンはカスピ海に近いホラーサーン西部方面に至ったことはなく、実際には「ブハラで投降した」のが誤って伝わったのではないかと考証している
  3. ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「阿剌瓦而思、回鶻八瓦耳氏、仕其国為千夫長。太祖征西域、駐蹕八瓦耳之地、阿剌瓦而思率其部曲来降。従帝親征、既破瀚海軍、又攻輪台・高昌・于闐・尋斯干等、靡戦不克、没於軍」
  4. ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「子阿剌瓦丁、従世祖北征有功、至元二十九年卒、寿一百二歳」
  5. ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「子贍思丁、有子五人、長烏馬児、陳州達魯花赤;次不別、隆鎮衛都指揮使;次忻都、監察御史;次阿合馬、拱衛直司都指揮使;次阿散不別、驍勇善騎射、歴事成宗・武宗・仁宗、数被寵遇、計前後所賜楮幣余四十万緡、他物称是、積官栄禄大夫、三珠虎符」
  6. ^ 牧野2012,1030頁
  7. ^ 牧野2012,1035頁
  8. ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「子斡都蛮襲職。致和元年八月、自上都逃来、丞相燕帖木児任為裨将、率壮士百人、囲滅里帖木児等於陀羅台駅、擒之以献、特賜衣一襲、及禿禿馬失甲・金束帯各一、白金一百両、鈔二百錠。天暦元年九月、充行院同僉。十月、従撃忽剌台・馬札罕等軍於盧溝橋、敗之、追至紫荊関、多所俘獲、招降安童所将軍一千五百人、復以功受上賞。二年、進枢僉院。三年、以隆鎮衛都指揮使兼領拱衛司」

参考文献[編集]

  • 藤野彪・牧野修二『元朝史論集』汲戸書院、2012年
  • 元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝
  • 新元史』巻131列伝28阿剌瓦而思伝
  • 蒙兀児史記』巻155色目氏族表下及び巻160地理志