アヌーシュ・テギーン

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アヌーシュ・テギーンペルシア語: نوشتکین غرچه‎、Nūštekīn Gharcha、? - 1096年もしくは1097年)は、セルジューク朝トルコ人マムルーク(軍人奴隷)[1]。1077年から1097年ごろまでホラズム地方を統治した。彼の子孫はホラズム地方の名を冠する王朝(ホラズム・シャー朝)の君主として、12世紀から13世紀初頭までこの地方を統治した。彼はホラズム・シャー朝の創始者とみなされているが、セルジューク朝に対しての忠誠は失わず、セルジューク朝のスルターンに対して忠勤に励んだ[2]

アヌーシュ・テギーンは、中央アジアに居住するハラジュ族英語版キプチャク族の出身と考えられている[1]。元々はセルジューク朝の解放奴隷バルカ・テギンを主としていたが、後にスルターンマリク・シャーの奴隷とされた[3]。1073年にバルカ・テギンと共に、マリク・シャーにガズナ朝に占領された北部ホラーサーン地方の奪還を命じられる。1077年にバルカ・テギンが没すると、アヌーシュ・テギーンは彼の官職であったタシト・ダール職(日本語で大水差し持ち、水盤棒持ちと訳される)[注 1]を継承した[3][4]。タシト・ダール職にはホラズム地方からの税収を得る権限があり、言い換えれば彼はホラズム地方の知事となったのである[5]

アヌーシュ・テギーンは長子のクトゥブッディーン・ムハンマドの教育に情熱を注ぎ、彼をメルヴに送り教育を受けさせた[6]

1097年頃にアヌーシュ・テギーンは没した[2]

アヌーシュ・テギン統治中のホラズム地方の内情については不明な点が多いが、彼の死後にクトゥブッディーン・ムハンマドがホラズムの統治権を継承する前、僅かな間中央から派遣されたイキンチ(Ekinchi)という人物がホラズム知事の地位に就いていたことが知られている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ タシト・ダールは主人の食事の前後に、主人が料理をつかんだ手を洗うための水を持っていく役割(あるいは監督)を果たした。(勝藤『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』、63頁)

出典[編集]

  1. ^ a b C.E. Bosworth "Anuštigin Ĝarčāī", Encyclopaedia Iranica (reference to Turkish scholar Kafesoğlu), v, p. 140, Online Edition, (LINK)
  2. ^ a b ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、178頁
  3. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、152頁
  4. ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、178,184頁
  5. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、152,155頁
  6. ^ 勝藤『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』、63頁

参考文献[編集]

  • 勝藤猛『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』(創元新書、創元社、1970年2月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注、東洋文庫平凡社、1968年3月)
  • デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳、ユーラシア叢書、原書房、1976年)
先代:
セルジューク朝タシト・ダール
ホラズム・シャー朝の君主)
1077年 - 1097年
次代:
クトゥブッディーン・ムハンマド