アデル・ド・ノルマンディー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
アデル・ド・ノルマンディー
Adèle de Normandie
Adela.jpg

称号 ブロワ伯妃
出生 1067年
Flag of Normandie.svg ノルマンディー
死去 1137年3月8日
マルシニー修道院
配偶者 ブロワ伯エティエンヌ2世
子女 一覧参照
家名 ノルマン家
父親 イングランドウィリアム1世
母親 マティルダ・オブ・フランダース
テンプレートを表示

アデル・ド・ノルマンディーAdèle de Normandie1067年[1] - 1137年3月8日)は、イングランドウィリアム征服王と王妃マティルダ・オブ・フランダースの子。ブロワ伯エティエンヌ2世の妃。アデル・ド・ブロワ(Adèle de Blois)、アデル・ダングルテール(Adèle d'Angleterre)とも呼ばれた。息子エティエンヌはイングランド王スティーブンとなった。

家族[編集]

アデルの生年は一般的に、父ウィリアムが王位についた1066年から1070年の間とみなされている[1]。彼女はヘンリー碩学王の気に入りの姉であった。彼らはウィリアム王の最も年少の子供であった[2]。アデルは高潔でラテン語に通じた教育のある女性だった[3]

結婚[編集]

1080年から1083年にかけて、アデルが15歳になった前後に、彼女はブロワ伯の嗣子エティエンヌと結婚した[4] 。エティエンヌは彼女より20歳近く年長だった[1]。1089年、エティエンヌは父の死によって家督を相続した。1096年、エティエンヌは妻の兄ロベール2世とともに第1回十字軍に参加した。エティエンヌのアデルにあてた手紙は、十字軍の指導者としての体験に対する深い洞察が見られ[5]、彼が十字軍にいる間摂政としてブロワ伯領を統治していたアデルを信頼していたことが見て取れる[4] 。1100年、ブロワ伯はフランスに帰還した。彼は荷車に地図、宝石、その他宝物を乗せて持ち帰り、それらはシャルトルに納められた。しかしエティエンヌは1101年の十字軍に参加するためアンティオキアへ向かったが、ラムラの戦いで戦死してしまう[6]

摂政[編集]

アデルは、夫が十字軍の指導者として不在であった1095年から1098年、そして1100年に摂政を務めていた[4]。務めには憲章を授けるだけでなく、修道士に新しい教会を建設する許可を与えることも含まれていた。彼女は摂政を務める間の様々な時点でシャルトルの聖イヴとともに協力し、不埒な行動をとる修道女の管理といった些細なことから、忠誠の誓いについての大きな議論に至るまで、書簡を交換した[7][4]。夫の不在時、彼女は領地を巡回し、紛争を解決し、経済成長を促進させ、さらには王との戦いに同行する騎士たちを指揮した[4]。歴史家オルデリック・ヴィタリスは、巧みに夫の領地と自らの領地を治めたアデルを『賢い気鋭の女性』として賞賛している[4]

アデルは夫の死後も摂政として統治を続け、1120年に引退するまで嫡子ティボーの初期の治世を通じ政治を行っていた[4]。ティボーが成年に達しもはや摂政を必要としなくなっても、アデルは憲章を発行し、領地の多くで共同統治者としてふるまった。アデラはティボーのための、結婚による同盟関係を確保しなかった。ティボーはアデルが引退するまで結婚せず、そのため彼女の息子と領地の両方に対して権力と影響力を維持し続けることができたのである[8]

引退[編集]

アデルは1120年から1122年までの間に、マルシニー(現在のソーヌ=エ=ロワール県のコミューン)にあるクリュニー会派修道院に入った。彼女は自らの肉親である姉妹や姪たちが既に引退して暮らしていたノルマンディーの修道院に引退することを考えていたかもしれないが、彼女はより規模が大きく権威のあるマルシニー修道院に入った[9]。彼女は子供たちと連絡を取り合い、かつて自らが支配していた領地の教会指導者と対話を続け、一帯で自らの影響力を保ち続けた[10]。例として、アデルは息子ティボーと、シャルトル司教ジョフロワの両者に書簡を送り、彼女が暮らす修道院での和解を彼らに思い出させている[11][12]。彼女はマルシニーで1137年に亡くなった。

子女[編集]

エティエンヌとの間に以下の子どもをもうけている[13]

  • ギヨーム(1092年以前 - 1150年頃) - 精神の問題から伯位を継がなかった。しかしシュリー領主の娘と結婚して子孫を残している[13]
  • ティボー(1092年以前 - 1152年) - ブロワ伯
  • ウード(夭折)
  • マティルドまたはリュシア=マオー(1120年没) - チェスター伯リシャール・ダヴランシュの妻
  • アリックス(1100年頃-1145年) - ジョワニー伯ルノーと結婚。
  • エティエンヌ(1092年頃 - 1154年) - イングランド王スティーブン
  • アンリ(1096年頃 - 1171年) - ウィンチェスター司教
  • アンベール - 夭折

アデルの子であることが証明されていない子女は以下のとおりである[14]

  • アニェス[15] - ジョワニー伯ルノーと結婚
  • アデライード - ミロ2世・ド・モンレリと結婚
  • エレオノール - ヴェルマンドワ伯ラウル1世と結婚

脚注[編集]

  1. ^ a b c LoPrete, Kimberly. "Adela of Blois." Women and Gender in Medieval Europe: An Encyclopedia. Ed. Margaret Schaus. New York: Routledge, 2006. 6-7.
  2. ^ LoPrete, Kimberly A. (1990). “The Anglo-Norman Card of Adela of Blois”. Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies 22 (4): 569–589. doi:10.2307/4051390. http://www.jstor.org/pss/4051390. 
  3. ^ LoPrete, Kimberly A. "Adela of Blois as Mother and Countess." Medieval Mothering. Ed. John Carmi Parsons and Bonnie Wheeler. New York: Garland Pub., 1999. 315-316.
  4. ^ a b c d e f g LoPrete, Kimberly A. "Adela of Blois: Familial Alliances and Female Lordship." Aristocratic Women in Medieval France. Ed. Theodore Evergates. Philadelphia: University of Pennsylvania, 1999. 15.
  5. ^ Women's Biography: Adela, countess of Blois, Chartres, and Meaux
  6. ^ LoPrete, Kimberly A. Adela of Blois: Countess and Lord (c.1067-1137). Dublin: Four Courts, 2007. 115.
  7. ^ Women's Biography: Adela, countess of Blois, Chartres, and Meaux
  8. ^ LoPrete, Kimberly A. "Adela of Blois as Mother and Countess." Medieval Mothering. Ed. John Carmi Parsons and Bonnie Wheeler. New York: Garland Pub., 1999. 322.
  9. ^ LoPrete, Kimberly A. Adela of Blois: Countess and Lord (c.1067-1137). Dublin: Four Courts, 2007. 408-411
  10. ^ LoPrete, Kimberly A. Adela of Blois: Countess and Lord (c.1067-1137). Dublin: Four Courts, 2007. 412-418.
  11. ^ Women's Biography: Adela, countess of Blois, Chartres, and Meaux
  12. ^ Women's Biography: Adela, countess of Blois, Chartres, and Meaux
  13. ^ a b Lois L. Huneycutt, « Adela, countess of Blois (c.1067–1137) », Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004.
  14. ^ Foundation for Medieval Genealogy, voir section sources.
  15. ^ sa filiation est cependant incertaine