たそがれは逢魔の時間

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たそがれは逢魔の時間
ジャンル 少女漫画
恋愛漫画
漫画
作者 大島弓子
出版社 小学館
掲載誌 週刊少女コミック1979年4号
レーベル 花とゆめコミックス白泉社
大島弓子選集(朝日ソノラマ)
白泉社文庫
MFコミックスメディアファクトリー
その他 59ページ
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プロジェクト 漫画
ポータル 漫画

たそがれは逢魔の時間』(たそがれはおうまのじかん)は、大島弓子による日本漫画作品。『週刊少女コミック』(小学館1979年4号に掲載された。

青島広志により、クラシックのオペラとして3度公演[1][2]。1983年10月5日から7日に日本オペラ協会、2003年11月24日に日本語オペラシアターおいさ座、2005年3月11日から13日に日本オペラ協会により公演されている[2]

また、1987年2月9日から13日にかけて、FM東京『夢のひととき』にてラジオドラマが放送されている。

あらすじ[編集]

サラリーマンの道端譲は、あるとき、25年前に片思いしていた相手がショーウィンドの前で小物を見つめている光景と同じ状況で、同様の行動をしている少女に出会う。思わず人違いだったといういいわけをするが、翌日、本を落としたその少女に声をかけ、初恋の少女に与える予定だった手製の小物を渡す。その結果、譲はジャムと名乗るその少女と知り合いになり、つきあわされることになった。譲をからかうかのような行動をとるかと思えば、降雪に無邪気に喜ぶジャムの姿に、有りし日の初恋相手の姿を重ねる譲だが、実はジャムには少女売春をしているという裏の顔があった。

登場人物[編集]

道端譲(みちはた ゆずる)
主人公で、某会社の部長。四分の一世紀前に見た風景とそっくりの、ショーウィンドを除くジャムの姿に看取れてしまう。翌日、声をかけたことがきっかけでジャムにつきあわされることになり、思わずネージュ≓エンジェルと彼女を評する。彼女の正体を知り、自分の貯金通帳を与え、売春をやめるようにという。妻から離婚を切り出された後、ジャムと出会った街角で彼女を待ち続けるが、出くわすことはなかった。
邪夢(ジャム)
中学生位のロングパーマの腰まで届く黒髪のセーラー服姿の少女。ジャムとは、本人が譲に名乗った名前で、本名は不明。譲から「学校で中年の生態を調べよなんて宿題を出されたのかね」と尋ねられた際に、「レポートといって。ちょっとニュアンスがちがう「このみの男性を調べよ」と答え、続けて名乗った名前で「あまくとろけるストロベリージャム」と語ったもの。譲のことを「ドクター」と呼ぶ。譲が初恋の女性に渡す筈だった小物をかわりに貰って欲しいと渡した際に、夕方に自分とデートをしてくれることを条件に貰う。その後も何度か譲と会い、妻の多美とも知り合いになる。実は、昼は中学生、夜は娼婦の生活をしており、両親が残した遺産で暮らしていた。告白後、髪を切り、譲から貰った小物を多美に渡し、姿を消す。
道端多美(みちはた たみ)
譲の妻。夫との間には子供はいない。忘れ物を届けに来たところ、夫がジャムに小物をあげているところを目撃し、驚かされる。積雪の日にジャムとの逢瀬を楽しんでいる夫に声をかけ、ジャムと知り合いになる。デパートの中で多美をみかけたというジャムの発言に驚かされる。実は三年前から講習会を口実に浮気をしており、夫がジャムに貯金通帳を渡した日に別れ話を切り出す。荷物をまとめている間に、髪を切ったジャムから、譲が渡した小物を渡される。
譲の初恋の少女
多美の隣のクラスの少女で、上述のように譲はショーウィンドに佇む彼女に声をかけて、人ちがいだと返答したり、雪の日に彼女に傘を渡すことができなかったりしていた。十年前に多美は同窓会で、その女生徒がなくなったという話を聞いていた。

解説[編集]

  • 斎藤次郎は、この作品を道端譲氏のイニシエーション・トリップとしてとらえ、以下のように評している。
彼にもまたこだわるにたる個人史のひとこまがあります。忘れようとし、おそらくずっと忘れていたはずのひとこまが、逢魔の時間に唐突によみがえります。アクセサリー・ショップのショーウィンドーをのぞくセーラー服の少女の腰までの長い髪、邪夢の登場によって、「四分の一世紀前の私の若き日の最も重要な風景」が再現してしまうのです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。正体不明の邪夢は、十年前になくなった片思いの初恋の相手だったのかも知れず、偶然は魔界の必然だったのかも知れません。中年の部長が思いをとげることのできなかった初恋の相手にこだわりつづけるのは、いわばそこでとまってしまった時間に、彼がいまなお呪縛されているからでしょう。
 邪夢はその名が示すとおり、夢の精です。妖精が「家庭崩壊」をもたらす程度に邪悪であるのは、まあ仕方のないことでしょう。家庭とは「現実」のメタファーであって、いかにもたよりになりそうに見えて、その実、詳細に検分すれば単なる思い込みの集積にすぎないものですから。
 中年の男は、中年である自らの現実とうまく折り合いがつきません。年若い読者には信じられないことでしょうが、これは真実です。世の中で、もっとも自分の現実を受け入れたがらない人種こそ、中年というべきです。その意味では、邪夢に「ドクター」とよばれるこの主人公は、中年の中の中年、中年の典型です。
 「たそがれは逢魔の時間」だとしても、だれでもその時刻になれば妖精に逢えるというわけではなくて、逢いやすい傾向、とでもいうべきタイプがあるのです。現実との間に亀裂を意識する人、しかもその亀裂が、現実のせいではなく、現実になじめない自意識のせいであるようなタイプの人です。「ドクター」は、少年の日の時間に置き去りにしてきてしまった魂を抱いて、生きてきました。その分だけ現実との間に隙間が生じていたのです。
 ところで家庭は崩壊したでしょうか。あいにくそうはいきませんでした。「荷物がうまくまとまらないの」と多美夫人は。胸にあのレリーフをかけたまま、夫の「みせかけの愛」への復讐を一日のばしにしてしまいます。愛がみせかけかどうかという謎は、永遠にとけない謎の一つですから、結論はいつでもアズ・ユー・ライクなのです。崩壊するかわりに、「ドクター」とその妻の間には、新しい時間が生まれます。過去の呪縛から解放された、なだらかな現実という時間が、です。こうなればもう、彼も「逢魔」の資格が失効してしまいます。残念なような、ホッとしたような、しかし、とりあえず夢の時間をくぐりぬけた夜明けの感覚です。
 イニシエーションとしての夢は、結局、二つの効能をもつもののようです。一つは生きていることこと自体が「とりえ」でもあるというような肯定的な自己省察、もう一つは、過去はいまではなく、郷愁も気がかりも、こだわるほどの現実ではもはやないという忘却の思想。価値あるものは無価値に、無価値なものは新しい価値の光に、夢のあとさきは大きな飛躍です。

 そして、まあなして世はこともなしと落ちついたあたりから、ジワーッとたちのぼるあの感じ。夢のつづきに渇える哀しみにも似たハッピー・エンドにふさわしくない寂寥こそが大島弓子作品の幕切れです。読者はみなボーっとなって、次作を待たなければいられなくなります。一種の夢の中毒症状![3]
  • 藤本由香里は、既に過ぎ去ってしまったけれども消えない思い出と、今、手の中にあるけれども、そこからすり抜けて行ってしまいそうなもののどちらも愛おしく感じるとして、繊細な切なさを持ったラストが印象的であり、『なごりの夏の』など、「よみがえる過去」も大島弓子のテーマの一つだと評している[4]

単行本[編集]

オペラ[編集]

ラジオドラマ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『大島弓子選集第8巻 四月怪談』「書き下ろしマンガエッセイ」より
  2. ^ a b 作品情報 たそがれは逢魔の時間”. 昭和音楽大学オペラ情報センター. 2021年8月8日閲覧。
  3. ^ ぱふ』1979年6月号「特集 大島弓子の世界2」所収の「夢の話」から「中年の研究」より:p216より
  4. ^ 『大島弓子にあこがれて -お茶をのんで、散歩をして、修羅場をこえて、猫とくらす』所収「チビ猫のガラス玉 - 大島弓子の“自由”をめぐって」所収「大島弓子作品ガイド 「自由」の原点へ」

参考文献[編集]

外部リンク[編集]