「コンスタンチン・ロジャエフスキー」の版間の差分
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[[画像:KonstantinVladimirovichRodzaevsky.jpg|thumb|150px|コンスタンティン・ロジェフスキー]] |
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| 氏名 = Константин Владимирович Родзаевский |
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'''コンスタンティン・ロジェフスキー'''(Konstantin Rodzaevsky、[[1907年]]-[[1946年]])は、[[白系ロシア人]]の[[ファシスト]]指導者。 |
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| ふりがな = コンスタンティン・ウラジーミロヴィチ・ロジェフスキー |
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| 画像 = KonstantinVladimirovichRodzaevsky.jpg |
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| 画像説明 = |
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| 出生名 = |
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| 生年月日 = [[1907年]][[8月11日]] |
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| 生誕地 = {{RUS1883}} [[ブラゴヴェシチェンスク]] |
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| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1907|8|11|1946|8|30}} |
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| 国籍 = |
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| 別名 = |
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| 職業 = |
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| 肩書き = [[File:Всероссийская фашистская партия.svg|25px]] [[ロシアファシスト党]]党首 |
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| 政党 = [[File:Flag of Russian Fascist Party.svg|25px]] ロシアファシスト党 |
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| 著名な実績 = |
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'''コンスタンティン・ウラジーミロヴィチ・ロジェフスキー'''({{Lang-ru|Константин Владимирович Родзаевский}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記例]]:{{Lang|en|Konstantin Vladimirovich Rodzaevsky}}、[[1907年]][[8月11日]] - [[1946年]][[8月30日]])は、[[白系ロシア人]]の[[ファシスト]]指導者。[[ロシアファシスト党]]党首。 |
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== 来歴 == |
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[[ブラゴヴェシチェンスク]]出身。[[ロシア革命]]を逃れて満州に渡り1931年にファシスト政党「[[ロシアファシスト党]]」を結成して党首に就任した。[[関東軍]]の庇護の下、世界各地で活動するが日本軍が敗退するにつれ力を失い1945年に[[赤軍|ソ連軍]]が[[満州]]に侵攻すると[[自己批判]]して自首した。[[モスクワ]]に送られ裁判の後、処刑された。 |
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=== ロシアファシスト党 === |
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[[File:Russian fascists at Harbin 1934.jpg|thumb|240px|left|黒シャツ隊を模した護衛隊(1934年)]] |
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[[1907年]]に[[ブラゴヴェシチェンスク]]の中流家庭に生まれる。[[ソビエト連邦]]成立後の[[1925年]]に[[満州]][[ハルビン市|ハルビン]]に渡り法律学を学び、{{仮リンク|ロシアファシスト組織|en|Russian Fascist Organization}}に参加した。[[1931年]]5月26日にファシスト政党[[ロシアファシスト党]]を結成して党首に就任した。[[1934年]]には{{仮リンク|アナスタシー・フォンシアツキー|en|Anastasy Vonsyatsky}}のロシア民族労働党と合併し引き続き党首を務めた。ロジェフスキーは[[ベニート・ムッソリーニ]]をモデルとし、党旗には[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]をモデルにした鉤十字を採用し、党章には[[ロシア帝国]]の[[双頭の鷲]]を使用した。また、自身の周囲を選抜した護衛で固め、[[黒シャツ隊]]をモデルに黒い制服を着用させた。 |
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ロジェフスキーは[[関東軍]]の庇護を受け武器を提供され、ハルビンを拠点に[[反共産主義]]運動を組織し、世界26か国に支部を設立した。ハルビンでは1万2,000人の党員を獲得し、[[満州里市|満州里]]に鉤十字のネオンライトを設置しソ連に対して存在を誇示した。[[紀元二千六百年記念行事]]の際にはハルビンでの式典に参加した。ロジェフスキーは関東軍の協力の下、[[白軍]]の{{仮リンク|ウラジーミル・キスリトシン|en|Vladimir Kislitsin}}と共にロシアを「解放」することを望み、関東軍から撹乱工作の訓練を受けていた。 |
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=== 第二次世界大戦 === |
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[[File:Banquet BREM.jpg|thumb|240px|[[白系露人事務局]]設立式。前列左から2人目がロジェフスキー(1934年)]] |
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[[第二次世界大戦]]が勃発すると、ロジェフスキーは反ソ連運動を本格化させるが、[[日ソ中立条約]]を締結した日本から活動を制限されてしまう。ロジェフスキーは党機関紙『私たちの道と国家』に[[反ユダヤ主義]]的主張を掲載し、著作『20世紀におけるユダヤ人問題』を著している<ref>[http://velesova-sloboda.vho.org/rhall/rodzaevsky-iuda-na-usherbe.html Judas End]</ref><ref>[http://velesova-sloboda.vho.org/archiv/index.html#_16 Contemporary Judaisation of the World or the Jewish Question in the 20th Century]</ref>。 |
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戦況が悪化すると、ロジェフスキーは[[赤軍|ソ連軍]]に逮捕されることを恐れ、[[ヨシフ・スターリン]]を称賛する発言が目立つようになる。終戦後、ロジェフスキーは身の安全と新聞社での仕事を保証され、{{仮リンク|レフ・オホーティン|en|Lev Okhotin}}と共に自首する。しかし、ロジェフスキーは約束を反故にされ[[モスクワ]]で裁判にかけられ、[[1946年]]に[[ルビャンカ]]で銃殺刑が執行された。 |
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[[2001年]]、ロジェフスキーの著作が『{{仮リンク|ロシアファシストの最後の意志|en|The Last Will of a Russian Fascist}}』として出版された。 |
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== 著作 == |
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*''The Russian Fascists: Tragedy and Farce in Exile, 1925-1945'' by John J. Stephan ISBN 0-06-014099-2 |
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*''К. В. Родзаевский. {{仮リンク|ロシアファシストの最後の意志|en|The Last Will of a Russian Fascist}}.М., ФЭРИ-В, 2001 ISBN 5-94138-010-0 |
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* ''А.В. Окороков. Фашизм и русская эмиграция (1920-1945 гг.)''. М., Руссаки, 2002 ISBN 5-93347-063-5 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 長谷川公昭『世界ファシスト列伝』中央公論新社・中公新書ラクレ、2004年、186-194頁。 |
* 長谷川公昭『世界ファシスト列伝』中央公論新社・中公新書ラクレ、2004年、186-194頁。 |
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== 脚注 == |
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2016年4月18日 (月) 03:59時点における版
コンスタンティン・ウラジーミロヴィチ・ロジェフスキー Константин Владимирович Родзаевский | |
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生誕 |
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死没 |
1946年8月30日(39歳没)![]() |
肩書き |
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政党 |
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コンスタンティン・ウラジーミロヴィチ・ロジェフスキー(ロシア語: Константин Владимирович Родзаевский、ラテン文字表記例:Konstantin Vladimirovich Rodzaevsky、1907年8月11日 - 1946年8月30日)は、白系ロシア人のファシスト指導者。ロシアファシスト党党首。
来歴
ロシアファシスト党
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Russian_fascists_at_Harbin_1934.jpg/240px-Russian_fascists_at_Harbin_1934.jpg)
1907年にブラゴヴェシチェンスクの中流家庭に生まれる。ソビエト連邦成立後の1925年に満州ハルビンに渡り法律学を学び、ロシアファシスト組織に参加した。1931年5月26日にファシスト政党ロシアファシスト党を結成して党首に就任した。1934年にはアナスタシー・フォンシアツキーのロシア民族労働党と合併し引き続き党首を務めた。ロジェフスキーはベニート・ムッソリーニをモデルとし、党旗にはナチ党をモデルにした鉤十字を採用し、党章にはロシア帝国の双頭の鷲を使用した。また、自身の周囲を選抜した護衛で固め、黒シャツ隊をモデルに黒い制服を着用させた。
ロジェフスキーは関東軍の庇護を受け武器を提供され、ハルビンを拠点に反共産主義運動を組織し、世界26か国に支部を設立した。ハルビンでは1万2,000人の党員を獲得し、満州里に鉤十字のネオンライトを設置しソ連に対して存在を誇示した。紀元二千六百年記念行事の際にはハルビンでの式典に参加した。ロジェフスキーは関東軍の協力の下、白軍のウラジーミル・キスリトシンと共にロシアを「解放」することを望み、関東軍から撹乱工作の訓練を受けていた。
第二次世界大戦
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Banquet_BREM.jpg/240px-Banquet_BREM.jpg)
第二次世界大戦が勃発すると、ロジェフスキーは反ソ連運動を本格化させるが、日ソ中立条約を締結した日本から活動を制限されてしまう。ロジェフスキーは党機関紙『私たちの道と国家』に反ユダヤ主義的主張を掲載し、著作『20世紀におけるユダヤ人問題』を著している[1][2]。
戦況が悪化すると、ロジェフスキーはソ連軍に逮捕されることを恐れ、ヨシフ・スターリンを称賛する発言が目立つようになる。終戦後、ロジェフスキーは身の安全と新聞社での仕事を保証され、レフ・オホーティンと共に自首する。しかし、ロジェフスキーは約束を反故にされモスクワで裁判にかけられ、1946年にルビャンカで銃殺刑が執行された。
2001年、ロジェフスキーの著作が『ロシアファシストの最後の意志』として出版された。
著作
- The Russian Fascists: Tragedy and Farce in Exile, 1925-1945 by John J. Stephan ISBN 0-06-014099-2
- К. В. Родзаевский. ロシアファシストの最後の意志.М., ФЭРИ-В, 2001 ISBN 5-94138-010-0
- А.В. Окороков. Фашизм и русская эмиграция (1920-1945 гг.). М., Руссаки, 2002 ISBN 5-93347-063-5
参考文献
- 長谷川公昭『世界ファシスト列伝』中央公論新社・中公新書ラクレ、2004年、186-194頁。