黄文氏

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黄文氏 (きふみ/きぶみ し)は、日本の氏族のひとつで、高句麗渡来人を祖にする氏族。黄書氏とも表記する。

出自

新撰姓氏録』山城諸蕃によれば、黄文連は、高句麗の久斯祁王の後裔[1]

黄文画師

仏経を作成する職業部である黄文画師(きふみのえかき)の伴造家とされる[2]。『日本書紀』『聖徳太子伝暦』などによれば、黄文画師は604年に山背画師(やましろのえかき)とともに制定された[3]610年高句麗嬰陽王(姓:高氏)は,彩色・墨の技術者である僧曇徴倭国王へ貢上している[4]

天武天皇元年(672年)の壬申の乱当時、大海人皇子(後の天武天皇)の舎人であった黄書大伴については『日本書紀』などでは乱当時の事蹟についての記載がないが、のちに山背国山城国国司に就任、正四位を賜っている。天武12(683年)、黄文(むらじ)姓を賜った[3]

奈良時代になると758年(天平宝字2)の《画工司移》に記された黄文連乙万呂などの名が見える[3]

山城国久世郡には、天平勝宝9年(9歳)頃に画工司の黄文連乙万呂、黄文連黒人[5][1]が、天平宝字2年頃には同じく画工司の黄文川主らが住んだ[6][1]

人物

その他、高市皇子の孫に黄文王がいる。('黄文氏との関連不明)

脚注

  1. ^ a b c 井上満郎「古代南山城と渡来人」京都府埋蔵文化財論集 第6集,p196-197
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
  3. ^ a b c 世界大百科事典「黄書本実」
  4. ^ 日本書紀推古天皇十八年(西暦610年)春三月条。世界大百科事典「飛鳥美術」
  5. ^ 天平勝宝9歳4月7日「画工司未選申送解案集」、大日本古文書編年文書13
  6. ^ 天平宝字2年2月24日「画工司移」、大日本古文書編年文書四
  7. ^ 来村多加史『キトラ古墳は語る』(NHK出版生活人新書、2005年

参考文献

  • 北山茂夫『日本古代政治史の研究』、岩波書店1959年
  • 井上満郎「古代南山城と渡来人」京都府埋蔵文化財論集 第6集、京都府埋蔵文化財調査研究センター、2010年12月.
  • 『城陽市史』第一巻第三章第二節一 「南山背の渡来人」,2002年。