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高岡氏

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高岡氏(たかおかし)は日本氏族のひとつ。

高岡氏(常陸)

常陸高岡氏は、藤原八田知家小田知重流で、高岡泰重[1]を始祖とする一族。本貫常陸国筑波郡高岡郷。


高岡氏(出雲)

出雲高岡氏は、宇多源氏佐々木義清流で、高岡宗泰[2]を始祖とする一族。本貫出雲国神門郡塩冶郷高岡邑。のち山名時氏に仕えて、1393年(明徳4年)出雲の本貫を離れ、但馬備後三次郡に移住した。1581年(天正9年)因幡丸山城落城の後、宮部継潤に属したが朝鮮征伐の後致仕して小出秀家の麾下に属した。和泉陶器(かわらけ)藩士の高岡氏(佐々木氏)はこの一族で、陶器藩が無嗣断絶した後、但馬に戻った。

高岡氏(摂津)

多田御家人

摂津高岡氏は、摂津国川辺郡多田庄住の清和源氏流で多田院御家人1278年弘安元年)多田院本堂上棟の時の多田院御家人に、高岡源四郎入道、高岡源次の名がある[3]1316年正和5年)10月13日に行なわれた多田院堂宇供養に、高岡源次、高岡紀四郎の2名が列席している[4]1688年貞享5年)8月多田廟社修復にあたり、高岡左近将監仲朝の11世孫高岡市左衛門源重直の署名がある[5]。幕末の多田御家人にも「摂州川辺郡差組村住」の高岡市左衛門、高岡権左衛門、高岡慶介の名がある。子孫は現在の兵庫県川西市から三田市にかけて分流している。

松江藩士

出雲松江藩士の高岡氏もこの川辺郡多田御家人の分流で、高岡加左衛門を祖として、幕末の高岡此右衛門まで8代続いた。

赤松氏配下

戦国時代、摂津国川辺郡浜郷[6]には、赤松氏配下の「難波七姓」と称される武将広岡氏小寺氏・高岡氏・木島氏大江氏奥島氏行本氏等)がいた。1473年(文明5年)3月17日浜郷代官柚留木重芸興福寺の寺僧)は、同郷の国代官に高岡弾正を任命[7]したことが知られている。弾正の後裔は、江戸時代を通じて難波村に勢力を保った。家紋は「丸之内三葉柏」。

高岡氏(丹後)

丹後高岡氏は、物部氏の支流高岳首後裔で、高岡貞望(さだもち)[8]を始祖とする一族。貞望の後裔高岡四郎貞躬足利尊氏に従って勲功があり、丹後国与謝郡板並庄を賜い、丹後に下向した。


脚注

  1. ^ 高岡泰重は八田知家の孫。小田知重の五男。
  2. ^ 高岡宗泰は佐々木義清の孫。佐々木隠岐守泰清の八男。
  3. ^ 『多田満仲公伝』熱田公、元木泰雄 共著、多田神社、1997年
  4. ^ 『多田院堂供養御家人警固座図』1316年
  5. ^ 『三田市史』下巻
  6. ^ 三反田村から難波村迄の付近、現兵庫県尼崎市
  7. ^ 『赤松円心・満祐』高坂好著、吉川弘文館、1970年
  8. ^ 高岡貞望は饒速日命の後胤、物部麁鹿火(あらかひ)大連の男、物部磐弓(いわゆみ)連の支流、和泉国神別高岳首より出る一族という。


関連項目