長岡館
長岡館 (岩手県) | |
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別名 | 長岡城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 長岡八右衛門? |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 長岡詮尹 |
廃城年 | 1592年(天正20年) |
遺構 | 曲輪、土塁 |
指定文化財 | 紫波町指定史跡「長岡城跡」[1] |
位置 | 北緯39度32分31.3秒 東経141度11分30.7秒 / 北緯39.542028度 東経141.191861度座標: 北緯39度32分31.3秒 東経141度11分30.7秒 / 北緯39.542028度 東経141.191861度 |
地図 |
長岡館(ながおかだて)は岩手県紫波郡紫波町に所在した日本の城である。「長岡城跡」の名で1975年(昭和50年)3月25日付で紫波町指定史跡に指定されている[1]。
概要
北上川東方の館山の山頂部に東西400メートル、南北350メートルの規模で、山頂には内堀と土塁がめぐり、中核部から北東と南西に張出し郭が続く。
沿革
築城時期は不明。斯波氏の重臣、長岡八右衛門の居城と伝えられ、長岡氏は大萓生、江柄氏などと同じ斯波河村党の一員で、越後長岡の細川高国の支族[2]とも河村氏の支族ともいわれる。
天正16年(1588年)、南部信直の斯波郡攻略にさいして、城主・長岡八右衛門詮尹は斯波方に属して奮戦したが、後に信直に仕え千石を給される(『奥南落穂集』)。
天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には「長岡 平城 破 南部東膳助 持分」とあり、破却された。
慶長5年(1600年)、旧領回復のための斯波一揆に際して、斯波孫三郎は長岡館に拠る計画であったが、貝志田与三の変心によって果たせず大菅生に走った。
脚注
- ^ a b 「紫波町内指定文化財一覧」紫波町公式HP
- ^ 「ふるさと物語 19 長岡舘物語」紫波町公式HP
参考資料
- 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』岩手県、1961年3月25日。
- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年。ISBN 4040010302。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。