鈴木信吉

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鈴木 信吉(すずき しんきち、1869年明治2年3月[1]) - ?)は、日本銀行家名古屋尾張藩の旧臣の家に生まれる。1898年に愛知銀行に入行し、営業部長、査業部長、常務取締役を歴任。1929年に尾張徳川家家令となり、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力。第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎えた際に、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸の賃貸物件化、八雲産業株式会社の設立などにより、2016年現在まで続く同家と財団の財務基盤を整備した。[2]

経歴[編集]

1869年、名古屋[3]尾張藩の旧臣の家に生まれる[4][3]

1898年(明治31年)10月10日に愛知銀行に入行[5][4]豊橋支店、支店を経て、本店検査役[4]。1911年(明治44年)9月29日、営業部長[5][4]、1919年(大正8年)1月22日、取締役・営業部長[5][4]。1920年(大正9年)3月12日に査業部長に転じた[4]

愛知銀行時代は、尾張徳川家との関係から、北海道における同家の開墾事業や、北海銀行に関与[3]祖父江重兵衛が経営に失敗した愛知物産の常務となり、経営を再建した[3]

1929年(昭和4年)1月25日、常務取締役、同年4月8日、営業部監督嘱託[4]。同年7月26日、尾張徳川家家令となるため、取締役を辞任[5][6]。その後愛知銀行では、1941年(昭和16年)6月[注釈 1]まで監査役を務めた[7][8]

尾張徳川家の家令となった後は、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力[5]

第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎える中、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸を賃貸物件化し、八雲産業株式会社を設立するなどして、2016年現在まで続く同財団の基盤を整備した[5]

人物[編集]

手島 (1915)では、当時の愛知銀行頭取・渡邊義郎法律家然とした厳格な人物だったのに対し、鈴木は柔和な商人風の人物で、事を円満に運ぶことのできる調整役と評している。馬場 (1925)では「温厚のうちにも何処か才走った人物」と評している。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同月、愛知銀行は名古屋銀行伊藤銀行と合併し東海銀行となった(東海銀行 1944, pp. 365–373)

出典[編集]

  1. ^ 『人事興信録 第12版上』(人事興信所、1940年)ス70頁
  2. ^ この記事の主な出典は、香山 (2016, p. 121)、東海銀行 (1944, pp. 262–263)、馬場 (1925)および手島 (1915)
  3. ^ a b c d 馬場 1925.
  4. ^ a b c d e f g 東海銀行 1944, p. 263.
  5. ^ a b c d e f 香山 2016, p. 121.
  6. ^ 東海銀行 1944, pp. 262–263.
  7. ^ 香山 (2016, p. 121)、東海銀行 (1944)からの引用として。
  8. ^ 東海銀行 1944, pp. 262–263, 343.

参考文献[編集]

  • 香山, 里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」(pdf)『金鯱叢書』第43巻、徳川美術館、2016年3月、103-131頁、ISSN 2188-75942016年10月3日閲覧 
  • 東海銀行『愛知銀行四十六年史』東海銀行、1944年3月23日。NDLJP:1061729 
  • 馬場, 守次(籍生)「鈴木信吉氏」『続々 名古屋新百人物』珊々社、1925年4月1日、58頁。NDLJP:983167/39 
  • 手島, 益雄「愛知銀行営業部長 鈴木信吉」『名古屋百人物評論 続』日本電報通信社名古屋支局、1915年8月5日、143-144頁。NDLJP:954764/83