里見家基
里見 家基(さとみ いえもと、応永16年(1409年)? - 嘉吉元年4月16日(1441年5月6日))は、室町時代の武将。里見家兼の子、満行、堀内満氏、家成の兄、家氏の父。官位は刑部少輔。
生涯
鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に反旗を翻して永享の乱を起こした折に、持氏に従い活動する。持氏が戦に敗れ自殺した後も、結城氏朝らと結託し、持氏の遺子を擁立して将軍義教に抵抗した(結城合戦)。
しかし、籠城した結城城を上杉憲実に包囲されて進退窮まり、落城に際し氏朝や子の家氏らと共に玉砕した。
家基の子とされる義実は命からがらに脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興したというが、安房の国人たちや、安房への過程で通過する三浦半島の領主三浦時高は反持氏派であり、結城合戦の際も将軍に同調して結城方を攻めているので、持氏に与した里見の者を看過するはずもなく、さらに義実は応永19年(1412年)生まれであり、家基と年齢的に父子関係があるかどうかも踏まえて、義実脱出の伝承については虚構の疑いが持たれている[1]。
家基以前の里見氏当主についても、信憑性のおける一次史料に名前が見られず、実在の人物であるかどうか不明確な点がある[要出典]。